パロの続きです。


 俺はあの日、遂に垣根を飛び越えた。そこには悪ガキを殴るような親父は居なくて、ただ、茫洋とした意識だけがあった。シュウの甘い声が全身に沁みた時、俺はあろうことか彼の服の中に手を差し込んでいた。初夏、じわりじわりと上がる気温、汗ですこし湿った肌の感触を一生忘れない。
 幼い呼吸音の響く中、ぎこちなく肌を滑る俺の手に、「ん」と声を漏らしたシュウがぴくりと震える。それをきっかけに、沈んでいた俺の理性が、欲望と手を取り合うのを感じた。最悪で、そして最良のタイミングで彼は戻ってきたのである。俺は自分の醜態を省みることを恐れていたし、シュウとの関係が切れることを望んでは居なかったから。
 よって、人間らしさを取り戻した俺は、すぐさまシュウから体を離した。酸欠に呆けた目をしたシュウは戸惑いを顕にする。その唇がどちらともつかない唾液で濡れているのを、直視出来なかった。今の俺には毒が過ぎた。

「すまない、帰る」

 やっとのことでそれだけ言って、部屋を飛び出し、階段を駆け下り、靴下のままで家を飛び出した所で、俺はここが自分の家だったことにはたと気がついた。どこに帰るというのだ。どこまでも恥ずかしい奴だと思ったし、あの状態のシュウを置いて家を出るだなんて最低にも程があるが、のこのこ戻るなんてことも出来なかった。どんな顔をして会えというのだろう。
 靴下にめり込むコンクリートの欠片が痛かったが、構わず走った。早く家から遠ざかりたかった。しかし、家から一歩また一歩と遠ざかる度に、シュウとの絆が崩れていくようで、外だというのも忘れて俺は涙をにじませる。自業自得だ。

「白竜!」

 頭で振り向いてはいけないとわかっていても、体は正直なようで、大好きなその声が聞こえた途端、俺は振り向いてしまう。そして、ぎょっとした。
 シュウは俺と同様に靴下のままだった。しかも、制服の上着は脱げかけていて、今にも袖からズレ落ちそうだ。けほけほと酸欠にあえぐその顔は、どう見ても暴漢から逃げてきた薄幸の少年としか思えなかった。
 「馬鹿、お前馬鹿」我ながら人のことをいえないと思うが、俺は先程の涙も忘れてシュウに駆け寄る。とりあえずひゅうひゅうと喉を鳴らすその背中をさすってやり、それから乱れた制服を整えた。人の制服のボタンを止めるのがこんなにも難しいとは知らなかった。俺の指が、震えていたからかもしれない。

「こんな格好ででてくるんじゃない、せめて靴くらい履いてこいよ」
「だって、白竜がいきなり逃げちゃうから」

 その言葉に俺たちは道路のまんなかで沈黙した。俺は苦い顔で、シュウは「あ、しまった」というような顔で。いきなり逃げ出した理由は、きっとシュウもわかっている。しかし沈黙は、そのシュウの笑い声によって消えた。

「ふふ、その顔笑えるね」
「……すまない。俺はお前に、あんなことをすべきじゃなかった」

 シュウの顔から笑みが消える。黒曜石の瞳がじっと俺を見据えている、何を考えているのか読み取ろうとしているようだった。俺は閻魔の前に立たされた罪人のような気分になった。これから裁きの時間が訪れるのだ。太陽の光が降り注ぐ、馬鹿に爽やかな裁判所。そこに似合わぬ暗い罪を犯した俺は、ただ震えるしかない。
 ごめんなさい、すみません、申し訳ございません。謝罪全集という本が作れてしまいそうな程の謝罪の洪水が俺の脳内を荒らす。しかし、俺はそれのどれをシュウに言えば許されるのか、全く皆目見当もつかないのだ。役立たずの脳みそめ。俺はまた、泣きたくなった。
 許されないのはわかっている、というと、シュウが反応する。もう許してもらえないのならせめて。もう分かってるかもしれないが、と前置きをおいた。

「シュウが好きだ」

 言った。言ってやった。最後の方は少し鼻声になってしまったかもしれないけど。情けないが、それほど俺はこれを言うのを恐れていたのだ。明日から俺は、シュウの友人ではなくなってしまう。
 しかし褐色の肌の裁判官は、目をまんまるに見開いてから、やけに顔を赤くさせた。「馬鹿だなあ」目を伏せる。

「……なんで、そんなに気を回す癖に、なんで、わかんないのかなあ……ああ、もう」

 もじもじとしたその様子に、心臓が高なった。期待してしまう。ぐらついた基板の上で、浅ましくも俺の心は次の言葉を欲していた。まさか、そんなこと。
 しかし現実は思った以上に俺に優しかったらしい。
 僕も好きだよ。甘い響きが鼓膜を震わせた時、俺は全身が熱くなるのを感じた。目頭まで熱くなったと思ったのは、気のせいじゃなかったらしい、とろけたような笑みを浮かべたシュウが、俺の目元を拭う。

「カッコいい癖にすぐ泣いちゃうんだね」言っておくが、人前で泣いたのはこれで初めてのことである。
「……嫌われたと思ったんだ」
「嫌いだったら、……抵抗する」

 シュウは初めて会った日のように病に冒されてはいなかった。それなのに、キスをしたあの時間、彼はだらりと腕の力を抜いていたのだ。熱に浮かされ俺にしがみついてきたように。
 往来の最中だというのに、シュウは俺に抱きついてきた。好きだよ。もう一度囁かれたその言葉に歓喜する。
 ぱんぱかぱーん。子供のおもちゃのような幼稚なファンファーレが脳内で鳴り響き、白い翼を持ったドラゴンが花吹雪を散らす。あれ、何故ドラゴンなのだろう。しかしそれは些細な問題だった。
 シュウを力強く抱きしめ返す。人っ子一人いない明るい道端で、靴下のまま抱きあう俺たちのラブシーンは少し滑稽なものだっただろう。観客がいたならばコメディ映画だと笑いを買うに違いない。しかし幸せだった。シュウのぬくもりを、匂いを、息遣いを感じる度に、鼻の奥が少しだけつんとした。
 俺はあの日を一生忘れない。



 恋人同士となった俺は、初めて、シュウの家を訪れた。僕のうちに来ない、と帰り道に唐突に告げられ、俺は二つ返事で頷いた。シュウもこんな気持ちで快諾したのかもな、と薄っすらと考える。
 夏休みを控えた期末テストの期間中だった。一応テスト勉強をするという名目で、俺はマンションの一室に上がりこむ。いつもシュウから香る匂いが部屋中を満たしていた。
 「おかえり、お兄ちゃん」アジアン雑貨で囲まれたリビングの中心で、真っ赤なランドセルを抱いた少女が笑顔を咲かせた。その顔を見てぎょっとする。あまりにもシュウに似ている。
 ただいま、とシュウが彼女の頭を撫でるのを見て、そういえば彼には妹がいるということを思い出した。大体一週間にいっぺんは「妹がね」で始まる会話をするというのに、すぐに思い出せないあたり、俺はなかなか緊張しているらしかった。
 シュウによく似た――違うのは髪留めがないことと、髪を結んでいることくらいだ――妹は、俺を見て目をぱちくりと瞬かせる。その仕草も、よくシュウに似ている。

「お兄ちゃんのお友達?」
「うん、そう。白竜だよ」
「ああ、あの白竜さん!」

 あの。ということは、シュウは俺の事を家族に話しているらしい。恥ずかしいようなうれしいような、なんとも言えず体がむず痒くなった。
 シュウに勧められて彼女の隣に座ると、シュウの妹はじっとこちらを見つめてきた。赤いランドセルということは、小学生なのだろうか。背丈もシュウより大分小さく、ミニチュアのシュウと接しているような気持ちだった。シュウとミニチュアのシュウに囲まれる俺。悪くない。全く悪くないシチュエーションだ。

「白竜さんて、本当にカッコイイんだね!」
「そうだねー」
「でも私お兄ちゃんがイチバンカッコイイと思うよ」
「僕もお前が一番可愛いと思うよ」

 なかなか危ない会話を目の前で繰り広げる兄妹。前々から思っていたが、この状況を見て確信した。シュウはシスコンだ。
 納得したと同時に、静かに嫉妬心が現れる。大分収まったと思っていたが、俺の汚い部分はまだまだ浄化されていないらしい。まさか肉親にまで嫉妬を起こすなんて思わなかったが、やはりどうしようもないものだった。
 会話の節々に感じられる妹への溺愛。家族愛は恋愛とは違うものだとわかってはいるが、そのくらい、俺もシュウに愛されてみたい。白竜と名を紡ぐだけでシュウが破顔するくらいに。ただ話しかけただけで、顔を紅潮させるくらいに。
 俺はといえば、勿論シュウをこの上なく愛している。世界で一番、恐らくシュウのご両親にも、妹さんにも負けないだろう。ずっと手に入れたかった大切な宝物だから、という思いもあるのだろうが、俺はきっと、生涯シュウを愛すだろう。紆余曲折もあり、織田信長の言葉を借りてもまだ人生の4分の1強しか生きていないが、そう言い切れる。なんたって俺は。
 そこまで考えた所で、シュウの妹が袖を引っ張ってきたので、俺は現実に引き戻された。考えにのめり込むのは俺の悪い癖である。どうやらシュウは飲み物をとりに行ったらしい。何だ、と子供用のできるだけ優しい声で尋ねると、彼女はにっこりと笑った。

「あのね、お兄ちゃん、中学校に入学してからずっと白竜さんのことばっかり話すの」
「……え」
「白竜は凄くサッカーうまいんだよ、とか、性格ちょっと悪いけど、とか。すっごく楽しそう。きっと、お兄ちゃんは白竜さんが大好きなのね」

 体が震えた。先ほどの嫉妬心は今度こそ浄化されたらしく、俺は彼女に土下座をしたくなった。ああ、その笑みの向こうに後光が見える。
 俺は今、天使というやつを見たのかもしれない。彼女はその言葉が、俺にとってどんな意味を持つか、きっと知らないに違いないけれど。純粋無垢な女の子は、澄んだ瞳で俺を見ている。
 全身が熱い。シュウが、俺のことばかり話しているだなんて。

「俺も、シュウが大好きだよ」

 その言葉を聞いた妹さんは、やっぱり意味を素直に受け取ったようで、花が咲いたように笑った。

「あー! 白竜、何してるんだよ!」
「シュウ」

 りんごジュースを両手に持ったシュウが血相をかえて飛んできた。「なんで白竜顔赤いの」じとりとした目で睨まれて、そこで初めて俺は顔も熱くなっていることに気がついた。シュウからしてみれば、可愛い妹の前で顔を赤くさせる友人(いや恋人か)。成程、怪しい。
 シュウは無理やり俺を立たせると、僕の部屋で勉強しよう! と俺を引っ張った。妹さんが可愛らしく唇を突き出す。

「なんで、ここで勉強しても私、邪魔しないよ」
「お前はだめー。ていうか、白竜がだめ」
「えー、お兄ちゃんだけずるい!」

 はたから見れば俺の取り合いのようだ。しかしそうではない争いの中で俺は冷や汗をかいた。妹を守ろうとするシュウと、俺ともっと話したいシュウの妹。修羅場だ。
 結局兄の言うことには逆らえないようで、ぐちぐちと文句を吐きつつも彼女は退いた。後ろ髪惹かれる俺に、シュウの妹は笑顔で手をふってきた。

【続】

「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -