なんのために存在しているのか分からない、無駄にさえ思える時間だった。恐らく他の生徒だってそう思っていただろう。しかし教壇に立つ男はまるでそれを話すことが健全なる学園生活を送るための儀式だと信じているかのように饒舌で、その口は止まることを知らない。
 ホームルーム終了予定時間はとうに過ぎ、廊下からは微かに生徒たちが動く音がする。係決めをしなければならないのに、この老いた教師は何故、あらゆる書物から引っ張って不細工に塗り固めたであろう実のない持論をいつまでも振りかざしているのか、そればかりが気になって欠伸さえでなかった。
 俺は頬杖をついていた腕をかえる。視線の向きが、窓から隣の机へと移動する。また窓に戻してこの長い時間をやり過ごそうとした時、机の端に乗せられた小さな手に気がついた。震えていた。
 そのままなんとなく腕をたぐって、気付かれないようにそっと隣の奴の顔を拝んだ。普通男女が隣同士になるはずだったが、男子が多いこの学校で、男同士がペアになることは珍しくはなかった。奴の褐色の肌の肌は青ざめており、黒いまつ毛に縁取られたまぶたは伏せられ、静かに呼吸を繰り返していた。暑さからではない汗の流れる筋を、俺は今でも覚えている。
 誰がどうみたって気分が悪いのだとわかる様相だった。しかしそいつは誰にも気取られぬようにと必死に体の震えを抑えているのである。教師の長広舌をせき止めるのに気が病むということではないだろう。そいつは気づかれたくなかったのだ。
 しかしただひとりそれに気づいてしまった俺は、正直狼狽した。教師に告げるかどうか迷ったが、そいつが血の気がひくまで拳を握り締めているのを見て、やめた。
 えっと、こいつの名前はなんて言うんだっけ。先程自己紹介の時間をとった筈なのに、俺はすっかり隣の奴の名前を忘れてしまっていたので、賢明に思い出そうとした。えっと、確か、サ行がついたはずだ。確か、確か――シュウ。苗字は全く思い出せないが、名前だけは当惑する脳みそが必死に搾り出してくれた。しかし名前だけを思い出してどうするというのだ、親しい間柄でもないのに。
 けれど俺とそいつが出会うのは運命だったに違いない。
 「――シュウは保健委員ということで」と、いつのまにか係決めに移行していたらしい、自主性を重視させたのに手を上げようとしない生徒たちに業を煮やしたのか、勝手に委員や係を決めていた教師の声が俺の耳に届いた。残念ながら苗字は聞こえなかったが。
 俺は間髪入れず立ち上がった。

「先生。気分が悪いので保健室に行かせて下さい」
「ん。わかった、保健委員、早速仕事で申し訳ないが連れて行ってやりなさい」

 突然立ち上がった俺に一瞬教師は困惑したようだったが、決まったばかりの保健委員にすぐに仕事を促した。隣のシュウが立ち上がり、俺の腕を取る。その裾がぎゅうと握りしめられているのを、俺は見た。
 仕事をとられた女子の保健委員は恥ずかしそうに席に座る。教室のあちこちから、無遠慮な視線が、新学期早々保健委員に連れられて保健室へと向かう俺に向けられていた。なるほど、確かに。こんなに注目されるのではいかにも病人といった様子のシュウとしては辛いだろう。
 廊下にでて、一瞬体勢を崩しかけたシュウを支える。触れた手首の熱に驚いた。風邪を引いているのだ。
 「ありがとう」と、シュウはそこで初めて喋った。その顔には弱々しい笑みが浮かべられている。「君、ホントは具合悪くなんかないんでしょ」

「君のお陰で、注目されなくてすんだよ。そういうの、苦手なんだ」
「風邪を引いているんだったら、休めばよかっただろう」
「新学期早々休んだら、それこそ注目されちゃうじゃないか」

 二人きりになって、気が抜けたのだろうか、病人にしてはやけに饒舌に喋った。しかしその体は確かに病んでいて、シュウは今や俺の支え無しではろくに歩けないような状態だった。必然的にシュウが寄りかかってくる、お香のような匂いが俺の鼻をくすぐる。嫌いではない。
 誰もいない廊下を、密着した男子二人が歩くというなんとも寒々しい状況の中、俺たちは改めて自己紹介を交わした。

「僕はシュウ。よろしくね」

 その日から俺たちは友達になった。



 お邪魔します、と恐る恐るといった口調でつぶやくシュウを笑うと、シュウは礼儀は大事なんだとむくれた。家には誰にもいないのだから、そんなに畏まらなくてもいいのだが。今俺の自宅には、俺と、シュウの、二人きり。それを再確認した途端、手のひらに汗が滲んだ。
 俺の家に来ないか、と誘ったのは放課後で、今まさに靴を履き替えんとしていたシュウは突然の申し出にきょとんとしていたが、あっけなく「いいよ」と快諾した。断られるだろうと半ば諦めかけていた俺のほうが仰天したくらい、あっさりと。思わず期待してしまう。
 道中、白竜のうちはどんなんだろうな、とか、僕は友達の家に行ったことないんだ、とあれこれ夢想するシュウの横で、若干危惧感に見まわれていた。こいつホイホイ他の奴の家に遊びに行って、悪い目にあったりしないかという独占欲にも似た思いと、俺のこと。
 玄関口での様子はどこへ放り投げてきたのか、初めてだというのにシュウは俺のベッドに寝そべって、のんびりと漫画を読んでいる。俺はシュウが聞きたいといっていたCDをコンポにセットし終え、ベッドに背を預けて雑誌をひたすらめくっていた。内容なんか入ってくるはずがない。穏やかなジャズが響く室内とは裏腹に、俺は喉がひどく潤いを求めているのに気がついた。

「ちょっと飲み物、とってくる。何がいい」
「何でもいいよ。白竜と同じもの」

 何でも。その言葉が一番困るのだが、階下に降りた俺は無難な麦茶を冷蔵庫から取り出した。適度に冷えたペットボトルが、手のひらに気持ちがいい。コップの中で波打つ茶褐色の液体を見て、俺はシュウの細い手足を思い出していた。よく俺の腕と比べたがり、並べては「白竜はいいなあ」と恍惚とした声色でつぶやくシュウの、唇を俺はいつも見ていた。あの弾力のある唇に触れられるなら、俺は太陽真っ盛りの下での校庭20周なんて、喜んでやるのだが。サッカー部のあれは厳しい。
 煩悩にそれた麦茶が、ほんの少しコップからこぼれた。まずいまずい。

 友人として一緒に過ごすうちに、いつしか俺はブラックベリーの中に隠した黒真珠を守っている盗賊のような気持ちを胸に宿していた。シュウが注目されることを嫌がる性分で良かったと心の底から感謝するくらい、俺は、シュウの純真さに時折山椒のようにピリッとくる性格を、その愛らしさを、手先が器用なところを、世間から必死で覆い隠していた。シュウの魅力的なところを余すところ無く、俺だけのものにしたかったのである。恋と名付けるにはにはずいぶんと腐った、小さな、激しい独占欲だ。
 しかしやはりシュウの魅力に気づく奴は少なからずいるようで、シュウは俺の知らない友人を持っていた。俺もシュウの知らない友人が多数いるので俺が言えたことではないのだが、それでも、クラスの離れてしまった俺からは歯がゆい思いなのである。暗い。あまりにも暗い思いに、思わず自嘲の笑みが溢れるくらいに。
 けれども、シュウにはこの一面を見せるわけにはいかない。俺は揺れる麦茶がぼんに零れないように注意しながらドアを開けた。

【続】
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