Ilmatar | ナノ
長い夜

 焼け焦げる臭いに鼻が刺激される。ジュードとエリーゼ、そしてマシュアがミラの原型の留めていない脚に治癒術を施す。こんな場所では満足に治療もできず、応急処置にしかならない。

「ミラ!目を開けてミラ!なんで……?なんで、こんなことに……!?」

 追っ手が迫る中、応急処置さえもできなくなる。

「非常態勢だ!ゴーレムを起動させろ!」
「馬車があるわ、あれに乗りましょう!」

 ジュードがミラを抱え、マシュアがエリーゼの手を引いて馬車に乗り込む。ゴーレムが本格的に起動してしまっては逃げることもできなくなる。ローエンが手綱を握り、カラハ・シャールへと全速力で戻る。馬車の中でも治癒術でミラの脚の止血と最低限の応急処置をする。


***

 カラハ・シャールに到着し、シャール家に運び込むとミラの治療のためすぐに医師を呼び寄せた。まだ油断を許さない容態に完全には安心しきれないが、とにかく安全な場所に来れたことで少しだけ気を緩める。

「術による早期の止血と、医療の心得がある方がいたのが幸いでした。ですが、とても体力を消耗しています。これから数刻が峠になるでしょう」

 医師の説明に皆暗い顔を見せる。

「みなさんは、お休みください。あとは私が……」
「先生も休んでください。精霊術を使い続け、相当疲れているはずです」
「何を言う。君こそ……」
「……任せましょう。先生、どうぞこちらへ」

 ローエンが医師を部屋へと案内するために立ち去った。ソファーに座っていたマシュアは立ち上がり、ジュードに近付く。

「さぁ、みんなもう休んで」
「わたしも……手伝います」
「ありがとう」
「私も少しぐらいなら力になれるかしら?」
「お願いします」
「門外漢の俺は休ませてもらうよ」
「うん」

 ジュードとエリーゼと共にミラの眠る部屋へと向かう。固く閉じられた瞳と荒く上下する胸元にエリーゼがぎゅっとマシュアに抱きつく。気丈に振る舞ってはいるもののジュードも辛そうな表情を一瞬浮かべる。些細な変化も見逃さないために三人で見守っていたが幼いエリーゼは睡魔に勝てずにいつしか床で寝てしまった。

「マシュアさんも休んでください」
「じゃあ少しだけ。何かあったらすぐに呼んでね」

 エリーゼを抱きかかえてマシュアは用意してもらった部屋へと移動してベッドに横になる。隣で静かに寝息を立てているエリーゼにブランケットをかけ、自身も瞼を閉じた。短く浅い眠りを取り、まだ寝ているエリーゼを起こさないように部屋を出る。エントランスまで降りて、近くにいたメイドに水が欲しいと頼んでソファーに身を沈めて待つ。近付く足音にメイドが来たのかと見れば、そこにはローエンがいた。その数歩後ろにはミラを治療した医師も立っている。

「もう少しお休みになられた方がよろしいのでは?」
「いいえ、いつもよりは長く睡眠を取らせてもらったから大丈夫よ」
「そうですか。……失礼しました。まだちゃんと自己紹介をしていませんでしたね、シャール家にお仕えしていますローエンです」

 丁寧にお辞儀をするローエンにマシュアは立ち上がって自分も名乗る。

「マシュアさん。失礼ですが、あなたはナハティガルとはどのような関係で……?」
「どのような関係、と言われると何て説明すればいいのかしら……」
「マシュアさんはイル・ファンの研究所で無理矢理働かされてたんだよ」

 階段を降りてきていたジュードがマシュアの代わりに答える。ジュードの言葉をローエンが反芻してそうですか、と納得したように微笑んだ。

「峠は越えたようですね」
「はい。呼吸も落ち着いたしもう大丈夫だと思います」

 医師から今度はジュードが休む番だと言われ、ジュードは大人しくそれに従った。だがその前に、とマシュアはジュードを呼び止める。

「私、ここでお暇させてもらうわね」
「えっ、もう少し休んだ方が」
「大丈夫、充分休んだわ。ミラさんが目覚めてから、とも思ったけどあんまり初対面の人の家に長居するのも申し訳ないもの」

 そう言えばジュードはもう引き留める言葉も出さなくなる。

「あの……マシュアさん」
「何かしら?」
「……どうして、ミラを助けてくれたんですか?一度はナハティガルに付いていったのに」

 そんなこと?とでも言いたいかのようにマシュアは目を丸くした。同時にローエンの視線も感じる。

「目の前でミラさんがあんな状態になっているのに見捨てていけるほど、私まだ軍に染まってないの」

 ジュードはハッとする。何も特別なことはない、普通の人間としての判断なのだと気付かされる。困っている人がいれば何があったのかと聞く、転んだ子どもがいれば手を差し伸べる、ただそれだけのことだと。だがマシュアの場合、そんな単純なことではない。困らせた張本人でなくとも荷担した、また転ぶように仕向ける指示をした、そんな人間がわざわざ手を差し伸べている。実際はおかしな話だが、そんな事実を知らぬジュードはただマシュアの言葉だけをそのまま受け取った。

「あ、私もローエンさんに聞きたいことあるの」
「私に、ですか?」
「ええ。『指揮者イルベルト』、歴史に興味がない私でも知っている名前よ。ナハティガル王の傍から離れて、だけどこんなシャール家というナハティガル王と密接に関わっている場所にいたのはなぜ?どこかでまだナハティガル王に未練でもあったのかしら?」

 真っ直ぐに疑問をぶつけてくるマシュアにローエンは絶句する。まるで傷をじくじくと抉られたかのような感覚になる。それを遮ったのはやはりジュードだった。

「マシュアさん!そんな話、今することじゃないでしょ!」
「…あら、ごめんなさい。何だか聞いちゃいけなかったみたい。深い意味なんて全くないの、ただ不思議に思っただけだから」

 謝ってはいるが悪びれる風もなくマシュアは笑っている。立ち去ろうと振り返れば、エリーゼとドロッセルが不安げに見つめていた。じゃあね、とエリーゼに別れを告げてマシュアはシャール家から出て行く。
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