zzz | ナノ


 廊下を通る度に聞こえる誰かの咳き込んでいる音に最初は何も思いやしなかった。風邪でも流行ってんのか程度にしか思わなくて、でもよくよく聞けばその音は一人の人間の物だった。変わらぬ音程と同じ部屋から聞こえるからそうなのだと分かった。そうしてその音の主が誰なのかも。ああそういえば最近姿を見ないなと思ったらこんな場所に閉じこもってんのか。そんな程度の感想だけど。ある日私はいつものように廊下を歩いているとその天照みたいに閉じこもって出てこなかったそいつを目前に見つけた。お天道様の光が降り注ぐ中庭の見えるそいつの部屋の前の縁側でそいつは足を投げ出して座っていた。傍らには今淹れられたらばかりなのか湯気のたつお茶がある。

「岩戸隠れは終わったのか?」
「なんだ、君か」
「なんだとは何だ。久しぶりに顔を合わせたというに、もちっと他に言うことあるだろ」
「生憎、何にも思わなくてね」

 相変わらず愛想の悪いそいつの横に座って私は間にあるお茶を勝手に飲む。ちらりとそいつは私に視線を送るがくつくつ笑うだけだ。

「何が可笑しい」
「いや、君は変わらないなと思ってね」
「当たり前だ。私は私だぞ。早々に変わるか」
「他の連中は俺の部屋の前も疎遠にして歩こうとしないのに、歩いてもまるで鬼でもいるかのようにそろりと歩くのに、君はいつもずかずかと遠慮なく歩いていく」
「むっ、私が歩いてるのを知ってたのか?」

 そいつはこくりと頷いて肩に申し訳程度に掛かっていた羽織を肩に掛け直した。そしていつもの咳。何となく、その羽織に触れて私はどきりとした。羽織が邪魔していたがそいつの肩はとても痩せていて、元々女みたいな華奢な体つきだったが前にも増して薄っぺらくなっている。そいつはもう一度咳をして、私に笑みを向けた。私は何故だか恐ろしくなって手を勢いよく離す。

「そんなに驚かなくてもいいじゃない」
「……労咳」
「当たり。もう良くはならないだろうってさ」

 初めて会ったときから、どこか線が細い気がしていた。飄々としているようで本当は誰かに必要とされたいような、そんな印象を受けた。今にもぷつんと命の糸が切れそうで恐ろしい。

「あーあ、もうちょっとだけ、せめて秀吉様の天下、見たかったのになー」

 後ろに倒れて寝そべるそいつの言葉に私は自然と眉間に力を込めた。

「信長様が天下を目前にしていると言うに、お前は羽柴殿が天下を望むと言うのか?!羽柴殿は信長様の家臣だぞ!家臣が主君を蔑ろにして天下を取るなど…有り得ん!」
「君はほんと、分かってないな。信長の天下なんて興味ないよ。俺はさ、笑って寝て暮らせる世が良いんだから」
「信長様では、そんな世は作れないと…?」
「そうだよ」

 私は憤慨した。この無礼な奴を許そうと思う寛大さを私は生憎持ち合わせていない。私が日々、女の癖にと嘲笑されながらも戦に赴くのは全て信長様の天下が見たいからだ。信長様の圧倒的な強さに魅入られ、少しでも傍に、少しでも近く、とそう願い刀を振り下ろしている。だと言うのにそいつの言葉はそんな私への侮辱だ。羽柴などという、足軽上がりの家臣のためなどでは一切無い。

「私は、お前が、…大嫌いだッ!」
「…そう、残念」
「例え労咳が治ろうとも羽柴殿の天下など見られるわけがない。そんな物この世に存在しないのだからな!信長様の天下布武により天下は統一され、羽柴殿は未来永劫織田家に仕えるのだ!羽柴殿に伝えおけ、ご自分の身分を弁えろとな」

 私はその場にいることさえ嫌悪を覚え立ち去ろうとそいつに背を向け歩き出す。

「そういう、己の感情に素直なところ、俺は好きだよ。否、羨ましい…かな」

 振り返るが、そいつは寝そべったままで空を見ていた。何を考えているか、私には全く分からない。ただそいつを疎む思いだけを抱えて私はその足で戦地へと向かった。そしてそいつが死んだと聞いたのはその数日後だった。最後は陣中にて息を引き取ったらしい。それでも世は何事も無かったかのように流れる。たかが一人が死んだ程度で世は変わらない。私達のような者が死んでも変わりはしない。そう、主がいなくなれば世は変わる。信長様が明智殿の謀反によりお亡くなりになり世は再び混沌へと戻る。後継者として柴田殿と羽柴殿が賤ヶ岳の地で争い、私は柴田殿に味方として参陣したが結果は柴田殿とお市様は自害し、羽柴殿の世となった。捕らえられた私はねね殿の助けにより打ち首だけは免れた。羽柴殿の目の届く場所に幽閉されるという屈辱と引き換えに。もう刀を握ることさえせず、用意された着物を身につけ、出される食事に箸を伸ばし、戦など無縁のただの女になった。

「秀吉様の、笑って、寝て、暮らせる、世」

 もうこの世にはいない男が望んだ世が来た。もう誰も戦で死ぬことはない。悲しみの連鎖も断ち切られた。目の前で死にゆく者を見て明日は我が身と怯える日ももう来ない。それは、あまりにも、つまらない世だ。何か物足りない。与えられる物だけを咀嚼する毎日は砂の味しかしない。これで私は生きてると言えるのか。変わらぬ毎日を繰り返すことに私は、辟易する。

「余計なことは考えるんじゃねーぞ」
「ひでよし、さま…」
「お前さんが何でここにいるか、も一度よーく考えるんさ」
「…そんなもの、考えなくとも知っておる。天下人に飼われた牙を抜かれた獣だ」

 このまま腐って虫に喰われるのを待つだけの能無し。

「やれやれ、お前さんは何も分かっちゃいねぇ。半兵衛も報われないな」

 何を、と問いたいのに口が思うように動かなかった。その名を聞いたのはいつぶりだろうか。私の頭の中でそいつの表情が、飄々とした姿が、何度も映し出される。私がそいつと共にした時間はとても短く、友と呼べる間柄でもないのに、どうしてか私はこんなにもそいつを覚えている。

「半兵衛はな、最期にお前さんのことを言っておった。不器用で己が苦労するような道ばかり選んでしまいきっとわしの前に立ちはだかることもあるじゃろと。しかしそれもこの国を思てのこと、目指す物は違うが、慕う者の世を望むということでは同じなのだとな」
「そんなもの…」
「半兵衛にとって、お前さんは同志じゃったんだろ。じゃから、もしお前さんがわしの前に立ちはだかったときは自分に免じて許して欲しいとわしに言ったんじゃ。だから、」
「嘘だ…そんなもの、どうして信じろと?私は奴が嫌いだ。生きている私が望んだ世はもうどこにも無いというに、死んだ奴の望んだ世が存在する。皮肉なものだな。…羽柴殿、身分を弁えろ。そなたは運良く天下人にのし上がれただけ、所詮は足軽風情が生まれながらにして武家の私を易々と手込めにできると思うな」

 私はそう吐き捨て、自室へと足を運ぶ。しかしそれも与えられた物であり、私の場所は此処にはない。私が生きてられるのは乱世か、信長様の世なのだ。此処では私は生きていけない。だからこそ私は天下人に向かってあんな言葉を吐いた。あの場で斬首されても良い、そう思ったんだ。何よりこの命が私が嫌って仕方がないそいつにより生かされていると知ってしまっては、羞恥以外の何者でもない。

「どうしてお前は死んでしまったんだ。あの時、私の命をお前にあげることができれば良かったのに。そうすればお前はお前の望む世で生きられ、私は私の望む世が夢幻であったと知らずに死ねたのに」

 私は空蝉だ。乱世に見離され、この世で彷徨うことしかできない脱け殻となった空蝉だ。