zzz | ナノ

「おはよう」
 挨拶が聞こえて聞き慣れない声だから自分に言われたわけじゃないと思いつつ声がした方向を向いた。でもそこにいた女子はこっちを見ている。朝練に参加するにも早い時間にまさか自分以外に誰かいるとは思わなかった。少し迷って周りを見てみるけどやっぱり自分しかいない。
「おはよう…ございます、」
 靴箱から上履きを取って履き替えながら背中側で同じようにしてるその人を記憶の中から探す。でも見つからない。背中側の靴箱は3年だから年上だ。良かった、一応敬語使っといて。全く記憶に存在しないその人はトントンとつま先で床を鳴らして上履きを履いている。
「こんな朝早く来ても朝練まだじゃないの?」
「あ、はい。えと、なんか早く起きちゃって、自主トレでもしとこうかなーって」
「へーすごい」
「………あの、ものっすごい失礼なんですけど、前に喋ったことあります?」
 肩にかけた鞄をかけ直そうとして持ち手を掴んだままピタリと止まった。
「あーそっか、話すのは初めてかも。でも私は君を知ってるよ。野球部2年のエース、高瀬準太クン」
「なんで」
「この学校の有名人ですからね。それだけでもないけど」
「え?」
「分からないことは先輩に聞いてみるのがいいと思うよ、じゃあね」
 手を振ってその人は歩いていってしまった。よく分からないけど、とりあえず同じ3年に聞けってことなのか。誰に聞こうか部室までの道のりに考えて、やっぱり慎吾さんかと思う。でも朝練が始まればそんなことは考えられないぐらい動いて疲れて授業が始まってまた部活して終わって部室で着替えてるときにふと思い出した。
「あっ慎吾さん。3年でこんくらいの身長でこんくらいの長さのボブの人って知ってます?」
「何?惚れたの?」
「違いますよ!今日朝に話しかけられて」
「ふーん、こんくらいの身長のボブの子ねー」
「先輩に聞いてみたらって言われたんすけど。誰かの知り合いなのかなーって」
「それってキサじゃね?」
「あー確かに確かに」
「キサ?」
 ヤマさんが言って慎吾さんが納得したように頷く。名前を聞いてもやっぱりぴんとこない。
「誰すか?」
「えっ準太知らねーの?」
「まあ自分から言わなそうだもんな、アイツ」
「だから誰すか」
 慎吾さんがきょろきょろと誰かを探してるみたいに辺りを見る。でも見つからなかったみたいでオレを見た。
「和己の彼女だよ」
「えっ!?知らないっすよ!そんな情報!」
「彼女つか嫁だな、嫁。すでに熟年夫婦感すげーもん」
「和さんに彼女って…んな話誰もしたことないじゃないすか」
「んなこと言ってもアイツらもう冷やかすこと何もねーし。騒ぎ立てるような感じじゃねえもんな」
 なんか、なんか変な感じだった。オレの知らない和さんがいて、知らない和さんを知ってる人がいる。変な感じだ。
「やっ、高瀬準太クン」
 何週か経って、廊下で声を掛けられた。和さんの彼女に。
「…ちわ」
「私が誰か分かった?」
「和さんの、彼女さんすか」
「そうそう…ってなんか改めて言われるとむず痒いね。河合本人から聞いたの?」
「いや、慎吾さんとヤマさんが」
「そっか」
 和さんには何も話してない。この人に話しかけられたことも彼女がいたって知らなかったこともそれについてオレが思ってることも。あの2人が言うには中学から付き合ってるらしい。尚更なんで話してくれなかったんだって思ってしまう。そんなに長い間黙ってられて、いやな気分。
「河合そういうこと自分から言わないもんね。人に聞かれてもごまかして逃げたりするし。でも準太には話してると思ってた」
「…名前」
「あ、ごめん。河合のが移っちゃってる。いつも準太準太って言ってるから」
 笑って謝られた。オレの知らないとこでオレの話をされてる。何を話してるのか、和さんはオレのことどう思ってるのか、全部この人は知ってるんだ。じゃあね、と名残惜しさなんて微塵も感じさせずにその人はまた立ち去った。それからもたまに廊下とか靴箱とか食堂で会っては一方的な二三言の会話をしてはさっさといなくなった。回数を重ねるごとに小さな不快感が蓄積されていく。それは会う度にオレの知らない和さんの話をしてくるからだと分かっていた。
「この前盛大に転けたんだって?ふふっ河合が面白そうに話してた」
「……和さん何でもオレのこと喋るんすね」
「そだね、見てて飽きないって。勿論ピッチャーとしてもね」
「2人は、一緒に帰るとか、しないんすか。…そういうの全然見たことないから」
 全然、をちょっとだけ強調する。
「だって河合待ってたら確実に遅くなるし」
「でも他の彼女さん待ってたりしますよ」
「私らは私ら、人は人ってやつ。帰り道逆方向だしね」
「学校でもあんま一緒にいないっすよね」
「毎日何かしら顔合わせてんのにそれ以上一緒にいてもしょうがないじゃん」
「…そういうのって、付き合ってる意味、あるんすかね」
 その言葉を自分でも自分が言ったのか一瞬分からなかった。でもその人の顔を見て少しだけ見開かれてる目で確かに自分が言ったのだと知らされる。
「…もしかしてさ、そうなのかなーってのは思ってたけどさ、私って嫌われてる?」
 肯定も否定もせず目を逸らした。
「うわー当たっちゃった。ねえ、私も1つ言っていい?準太って性格悪いよね」
「なっ」
「だって河合と私の関係が不服そうだし、それにそれを遠回しに非難してくるとか。あっ河合を私に取られて悔しいの?でも残念、私のが付き合い長いもん」
 ふふん、と勝ち誇ったような目で笑った。性格悪いってどっちがだよ。
「今私のこと性格悪いって思ったでしょ」
「うっ…」
「正解。性格悪いの、私」
「和さんがかわいそうだ…」
「それは不正解。私の性格の悪さ知ってて、それが好きで河合は付き合ってんの。あーでも準太いじめてるって知ったらさすがに怒られるかな」
 それでも全然悪びれてることもなくてむしろ楽しそうだ。なんか、変な人。
「でもさ、口を開けば準太の話ばっかされてる私の身にもなってほしいよね。さすがに嫉妬しちゃう」
「オレの話?」
「男相手に嫉妬してるなんてバカみたいだけど、そんぐらい準太の話ばっか。あと野球の話」
 そういえばこの人はいつも和さんから話されたってオレの話をしてた。オレはそれがオレの知らない和さんがいるようで居心地が悪かったけど、単にオレの話をよくしてくれてるんだってことなんだ。それもこの人に妬かれるほど。
「おっ準太ー」
 背中側から声を掛けられた。オレが影になって姿が見えないこの人は体を斜めに倒して声を掛けてきた人を見る。お互い見なくても分かってるけど。
「えっ?!何でお前準太と一緒にいるんだよ」
「最近準太と仲良しなんだ、私」
「まじで?」
「…まじっす」
 ちょっと焦った顔の和さんはオレとこの人を見比べて作り笑いをする。
「えーと、まあ、なんだ。仲良いことはいいこと、だよな」
「んなことよりちゃんと準太に紹介してよ。ちゃんと言わないから準太が僻んで私の当たりがキツいんだもん」
「キツくないすよ!和さんがオレの話ばっかするって妬いてきたのはそっちでしょ」
「うーわ後輩にそんなこと言われるとかショック」
「ホントのことですし」
「…お前ら仲良いな」
 今更ながら和さんの口からお互いの紹介をされてよろしくと握手をした。ちょっと痛いぐらい力を込められたことは黙っておこう。並んで3年の校舎に戻ってく2人とは逆方向に歩きながら聞こえてくる会話に耳を貸してしまう。離れていてよく聞き取れなかったけど、あの人が和さんのことを「カズ」って呼んでんのだけは聞こえた。

- ナノ -