zzz | ナノ


「いらっしゃいませ、一名様ですか?」
「ええ」

 身に染み着いたマニュアル通りの会話、それが私とあの人の最初の会話だった。見た目は完璧な外国人なのにその薄い唇から出てきた日本語がとっても流暢で私の方が驚いた。金髪、色付きのサングラス、真っ白なスーツ、この島国日本では有り得ない姿で私は一度見ただけであの人の姿を記憶した。それから週2で来店するもんだから余計に覚える。仕事の休憩時間でティータイムでもしてるのかな?チェーン店のファミレスで?なんて想像しながら私は営業スマイルで注文を取りに行く。何度目かの来店で私は話しかけられた。

「いつもステキな笑顔をありがとう、お嬢さん」

 お嬢さん、なんてむず痒くなるのを感じながら笑顔を貼り付け、られなかったようだ。不意打ちでそんなことを言われたものだから素の私がにょきっと出てきて、

「は?」

 と言ってしまった。鳩が豆鉄砲って顔をした後に爆笑されてしまって私はますます意味が分からない。それが私とあの人のマニュアル以外の初めての会話。それからはあの人は気さくに私に話しかけるようになった。お仕事は何をされているんですか?と言う私の質問に外交官ですよ、なんて本人は真っ白な歯を見せて言った。外交官、エラい人だ、と頭悪い解釈をして私は頭のメモ帳の端っこに外交官と記した。それ以上は知らない。名前も、何人なのかも、何も知らない。ただ、来店するといつも禁煙席と指定するクセにたまにタバコの匂いをさせている矛盾を持ち合わせている。近くに喫煙者がいたのかと思うが、一度だけあの人のポケットから見たことのない銘柄のタバコが見えて本人が喫煙者なのだと知った。でも来店したときは決まって喫煙席から一番離れた席を指定する。不思議な人。日が昇らない未明と呼ばれる時間、その日のバイトを終えた私は帰り道に様々な憶測を立てた。 例えば、日本のタバコの匂いは嫌いだから離れたい。喫煙者でない私は匂いに違いがあるのか全く知らないけど。例えば、禁煙中で匂いを嗅ぎたくない。けど、あの人はタバコの匂いをさせてるし持っていた。例えば、あの店では吸いたくない気分。なんだそれ。結局答えは出ないまま、私は人気のない大通りから近道のビルとビルの合間の道へと逸れた。まだ私の憶測は続く。例えば、私の前では喫煙者でないフリをしている。自意識過剰もほどほどに、ね。例えば、…と続けようとした思考をブツッと遮ったのは目の前に落ちてきた人。それも見事に着地をして。えっ、と上を見るけど両脇のビルはどちらも20階以上はあるはず。どこから降ってきたのかと、その突然現れた人とビルを交互に見た。舌打ちが聞こえて、その人は私に向かって走ってきた。ヤバい不審者。私に向かって伸びる腕に危険を感じてカバンから催涙スプレーを出そうとした。でもその前に私の視界は真っ白になった。気絶した、とかではなくて全身を暖かいものが包み込んでいる。

「そのまま、目を閉じて」

 耳元で聞こえた聞き覚えのある声。そして誰かの手が耳を塞ぐ。何が何だか分からずぎゅっと目を瞑る。でもなぜなんだろう、私は目を開けなきゃと急かされる。開けちゃダメ、開けろ、ダメ、開けろ、開けろ、…目を開けて、恐る恐る上を見ればそこにはあの人がいた。名前も知らない外交官。私は向かい合う形であの人の腕の中にいた。そしてまた急かされるようにさっき私に手を伸ばした人がいる背中側を振り返る。有り得ない光景がそこにあると予想もせずに。私は思わず目の前にある胸を突き飛ばした。有り得ない、人が冷凍庫に入れられたみたいに氷付けになってるなんて。有り得ない、それがさっきまで私の前にいた人だなんて。有り得ない、名前も知らないあの人の体の周りがよく分からない光に包まれてるなんて。怖くなった。これは夢なんだと言い聞かせる。でも後ずさって躓いて転んだ痛さは本物だ。大丈夫ですか、といつもの笑顔を貼り付けるあの人の伸ばされた手が怖くて、払いのける。いつの間に雨が降ったんだろう。ここの周りだけ地面が濡れてる。それも通り雨のような激しい雨。だってこんなにも服が水を吸い込んで重たくて冷たいんだから。重たくて冷たい服が私の意識も深く深く沈めていく。


***


「いらっしゃいませ、三名様ですか?」

 私は笑顔を貼り付けていつものマニュアル通りの会話をする。ここのバイトはもう長い。高校のときからだから6年はいることになる。バイトでは一番の古株で、嬉しい半分面倒くさい半分、店長からも大切な仕事を任されたりする。来店したお客さんを指定された喫煙席から一番遠い禁煙席に案内して、メニューを手渡す。

「只今の期間限定メニューになります。お子様のスプーンやフォークもお持ちいたしましょうか?」
「ええ、お願い」
「かしこまりました。…とっても日本語お上手ですね」
「仕事上ね」
「そうなんですか。では、メニューがお決まりになりましたらこちらのボタンでお呼びください」
「お嬢さんは、笑顔がステキですね」
「……ありがとうございます」

 綺麗なブロンドの男の子と、黒人の派手な髪と服の女性と、紳士を思わせるスーツの男性。二人ともかなり日本語が流暢でびっくりする。しかし旦那さん、奥さんがいる前で社交辞令でも私みたいなの誉めちゃダメでしょ。しかもお嬢さん、なんて言われ慣れないむず痒くなるような、あれ?前も同じようなことなかった?その思考を遮断するピンポンという店員を呼ぶ音に私は気持ちを切り替えて走っていく。

「はーい、只今お伺いします」

 長年の経験から学んだマニュアル通りの会話とそれ以外とを組み合わせて私は今日もこの店で働く。