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「ティカ様ァア!」

 治安維持機関パンドラ本部内を歩いていると、前から叫びながら走ってくる男がいた。レインズワース邸に訪れたときにだろうが知らぬ間にピエロがポケットに入れた飴を口に含み、ころころと転がしながら向かってくる男を待つように足を止める。

「何だレイム君、藪から棒に」
「どこに行っておられたんですか!ザークシーズからティカ様がレインズワース邸に来られたと聞き、探し回りましたよ!」

 余計なことを、とティカは内心思いながらレイム=ルネットを宥めるべく、まだポケットに残っている飴を一つ手渡した。焦りで気が動転しているのか素直に飴を受け取ったレイムにティカはぷっと笑ってしまう。

「なに、散歩に行っていただけじゃないか」
「ティカ様の散歩は数週間もかかるんですね!」
「嫌味な言い方だな。やはり類は友を呼ぶ、ということか」
「何がですか」

 肩を竦め、ティカは再び歩き出す。その一歩後ろをレイムも同じように歩いてついてくる。

「いらっしゃらなかった分の仕事はきっちりこなして頂きますからね!」
「そんな仕事ばかりしていられるか。私はレイム君と違って仕事人間ではないのだ」
「散歩で充分休養できたのではないのですか?」
「はぁ、レイム君は散歩するだけで体を休められるのか?私は無理だ。できても気分転換ぐらいだな。…そうだな、やはり数ヶ月のバカン」
「ティカ様?」

 レイムが今にもブチ切れそうなのを我慢しながら必死で笑顔を取り繕い、精一杯気持ちを抑えてティカの名を口にした。いつものことながらレイムは胃がギリリと痛み始める。どうしてこうも自分を振り回しまくる人間ばかりが現れるのかと己の人生を丸投げしたくなる。

「冗談だよ。レイム君はもっと柔軟な考え方をしなければいけない」
「……善処します。ところで、どうしてまたレインズワース邸へ?」

 今まで前だけを見て歩いていたティカが突然立ち止まり、レイムを振り返る。その冷ややかな視線にレイムはびくりと体を微かに震わせた。こうして人をからかうような軽口をたたくこともあるが、やはり相手はそれなりの地位にある者。高貴な存在が元来持ち合わせる威圧感を感じずにはいられない。と、思った矢先にティカはにこりと笑顔を見せた。ふっとその瞬間、肩が楽になる。

「大した用ではないよ。シェリーちゃんのお見舞いと、少し気になることがあったからね」
「気になること、ですか」
「まだレイム君には秘密だよ」

 悪戯っぽく笑って人差し指を口元に当てる。そしてまた歩き出し、上機嫌なのかブーツの音が軽やかに聞こえる。レイムは弾かれたように小走りをして距離が開いてしまったティカを追いかける。

「……しかしティカ様、スキップはさすがに恥ずかしいのでやめてください。あと人差し指を口に当てるのもどうかと思います」
「相変わらずレイム君はハッキリ言うな」
「付き合いが長いですからね」
「付き合い自体は短い君の友人は嫌味なくらい遠回しに言ってくるがな」
「スミマセン…」

 自室の扉を開ければ、デスクには山積みになった書類が遠慮なく置かれているのが目に留まり、ティカは隠しもせず溜息を盛大に吐いた。勿論、後ろにいるレイムに向けてだ。レイムはそんなことは気付かないフリをして更に手元に抱えていた書類を一枚ティカに見せる。

「次の会議について記されていますので目を通しておいてくださいね」
「やれやれ、会議などして何になるのやら」
「そんなこと私に言わないでくださいよ」
「そうだな、しがない中間管理職に愚痴っても仕方がない」

 デスクとセットのチェアに腰を掛け、山積みの書類と向き合う。レイムは静かに退出し無駄に広い部屋で一人になる。さほど乗り気ではないため書類一枚手に取っただけで集中力はぷつりと途切れた。ふとデスクにずっと置いたままの本に手を伸ばし、表紙だけを捲る。表紙につられてぱらぱらと数ページ捲れるが、別段その本が読みたいわけではないので気にはしない。また一息吐いて、本を閉じ書類に目を滑らせる。


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