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 とても綺麗に晴れた日だった。ここ数日で貯まっていた仕事を全て片付けたティカは清々しい気持ちで紅茶を飲んでいる。下瞼には疲れを象徴する隈がうっすらと見えてはいるが、ティカにとっては書類が手元に一枚もないということが何よりも嬉しく、疲れはさほど感じていなかった。仕事の合間を縫って読んでいたイスラ=ユラの資料が視界の端に写り、そういえばこれも返さなければと思い出す。ぐいっと紅茶を飲み干し、資料を荒々しく掴んだティカは鍵を持ち扉を開けた。

「あっ!」

 開けた扉のすぐ前にオズの姿があった。ノックしようとしていたらしく右手が変に宙に浮いている。ティカは少し驚き、まだオズからは死角になって見えていないはずの資料をそっと自分の背中に回してにこりと顔を作った。

「どうしたんだ?」
「今日、オレたち自由行動させてもらえることになって、ティカさん最近ずっとパンドラに缶詰めだーって言ってたから一緒にどうかな?って」
「ああ、そうか。自由行動の日は今日だったか」
「うん!まだ忙しい?」
「いや、とりあえず落ち着いたのだが、これからルーファスの所へ行かなくてはならないんだ。せっかく誘ってくれたのに悪いな」

 オズは嫌な顔など微塵も見せずに笑顔を見せて首を横に振る。少し離れた場所にギルバートとアリスの姿を見つけ、ティカは何か思い出したかのように部屋へと戻った。不思議そうに部屋を覗き込むオズは、戻ってきたティカの手には木のカゴに入ったスコーンがある。それをオズに渡し、次に綺麗な橙色をした小瓶も手渡した。

「ルチルが来たときに一緒に作ったマーマレードなんだ。アリスちゃんと食べてくれ」
「わーありがとう!そういえば、ルチルさんは?」
「元から数日だけいる予定だったからな。昨日帰ったんだ」
「そっか。ちゃんと挨拶できなかったなぁ」
「伝えておく。さっ、せっかく自由なのだから早く出かけないと」

 ティカに背中を押されたオズはギルバートとアリスの方に走っていった。オズの持つ物を確認したアリスは目を輝かせ、ティカに向かって感謝の意も込めて大きく手を振る。それに胸の前で小さく手を振り返事をし、オズたちの姿が見えなくなってから自身も通路に出て扉を閉めて鍵をかける。スタスタと足早にルーファスの私室に向かったティカは、ノックをするとすぐに部屋へと踏み込む。

「あらあら、ティカちゃん」
「やあ、シェリルちゃんも一緒か。ルーファス、遅くなって済まなかったな」
「うむ、構わん」

 ルーファスの私室にいたシェリルと軽い挨拶をして、ユラの資料を渡した。そっとシェリルがティカの頬を触れて心配そうな顔を見せるのでティカは固まる。

「あんまり無理させちゃダメよ、ルー君。お肌に悪いわ」
「ティカが勝手にやっておることじゃ!」
「ならちゃんと止めてあげないと、ね?」
「うっ………」

 シェリルに笑顔で睨まれたルーファスは何も言えずに口を噤む。相変わらずシェリルに対して頭が上がらないルーファスはバツが悪そうにそっぽを向く。

「そういえば、ルチルちゃんが来ていたらしいわね」
「ああ、シェリルちゃんに挨拶もせず帰ったのか?まったく…」
「よっぽどティカちゃんと一緒にいたかったのかしら?ふふ」
「そんなことはないだろう。…そうだ、ルーファス、いつ訪ねても留守だと怒っていたぞ。一度ぐらいは会ってやれ」
「あの五月蝿い小娘には会いたくないのじゃ!」

 ティカがわりと自由に育てたためかルチルは物怖じのしない天真爛漫な性格になった。バルマ家当主のルーファスに対しての態度も変わらず、ズバズバと何でも遠慮なく言ってくることや若い女性特有の無意味な明るさがルーファスにとって苦手と分類されているようだ。だからルチルはルーファスから避けられている。結局両者は一度も顔を合わせないままルチルは帰っていった。

「楽しい家族ね。さあルー君、少しお散歩に付き合ってくれないかしら?」
「……分かった」
「ティカちゃんも一緒にどう?」
「いや、少しレイム君の様子を見てこようと思うから、また後で」
「そう?じゃあ行きましょうか」

 シェリルの車椅子をキィとルーファスは押し、ティカも共に部屋を出る。そこから途中までは一緒に歩き、シェリルとルーファスは庭園へ、ティカはレイムのいる部屋へと向かうために別れた。少しずつではあるが落ち着きを取り戻しつつあるパンドラで、ティカは何となく深呼吸をした。

「失礼」

 短く断りを入れてから部屋に入ると、未だに意識を取り戻さないレイムが静かに寝息をたてながら眠っていた。致命傷は一つもないことが不幸中の幸いか、しかしまだ目を覚まさないことに誰もが不安を抱いている。ベッド脇の椅子に座り、閉じられた瞼をティカは見つめる。規則正しく上下するブランケットだけがレイムがまだ生きていると示してくれている。

「済まなかったな、もう少し早く、決断すればよかった」

 語りかけるようにティカは呟いた。返答はない。レイムのさらりとした髪に触れて、ゆっくりと撫でる。

「君にはちゃんと、君の味方になってくれる存在がある。だから、大丈夫だ」

 目を細めて微笑み、ティカはすっと立ち上がった。もう一度だけ、深呼吸をする。目頭がツンと刺激をされるが気にせず、入ってきた扉に向かって歩き出す。ドアノブに手を掛け、顔だけ振り返る。変わらないレイムの姿に眉尻を下げ、口角は上げる。

「ありがとう、レイム君」

 静かに開けた扉からティカは迷いない足取りで去る。パタンと扉は閉まり、レイムの眠る部屋は再び一人だけの音を響かせる。扉の閉まる音に呼応するかのように微かにレイムの指が動いたが、重い瞼が開かれることはなく、また誰もそれを知らない。


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