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 ユラ邸での事件の翌日から、ティカは休む間もなくパンドラ本部やバルマ邸を行き来していた。いつまでも引き摺ってはいられない、長年生きてきて感情が鈍麻している証拠なのかもしれないがティカは構わずに普段通り働く。いや、従者のレイムが負傷したために普段ならば彼が処理してくれただろう小さな仕事までが回ってきて普段以上の忙しさになっている。エリオット、その母、姉の死、ナイトレイ家当主とヴィンセントの失踪、ゴタつくナイトレイ家の処理も他の三大公爵家の仕事である。そしてこの事件の真相を恐らく一番に理解しているリーオはパンドラからの尋問を受けていた。少しずつではあるが自身の知り得ていることを語っていると報告を受けている。今回、目にした全てのことを語り終えたティカは向かい合って座るルーファスを見据えた。

「ふむ、ご苦労だったの」
「いや。結局のところ、不可解な事が増えただけだ」

 終息したように感じる今回の事件だが、バルマにとってはそれだけではない。イスラ=ユラがアヴィスに拘った理由、オズのこと、ヴィンセントのこと、謎は増える一方だ。

「それに、ナイトレイ公の行動も理解できない。聞くところには、リーオ君を従者に据えることを彼も反対をしていたそうだ。それが、エリー君の命がハンプティ・ダンプティによって繋ぎ止められていると知った時点から容認した。エリー君の命とリーオ君の従者の話、辻褄が合わない」
「確かにの。ナイトレイ公には似合わぬ選択じゃ」

 二人の知るナイトレイ公爵は、情に流されるような男ではない。エリオットとハンプティ・ダンプティが契約したからと言ってそれを唯一知っているリーオをエリオットの傍に置く理由にはならない。むしろ、秘密を知るということではリーオは邪魔な存在ではないのか。

「そして今回の失踪だ。何か他にも裏がありそうだな」
「あの従者から目を離すでないぞ」
「分かっている」

 ソファーに凭れかかり、ティカは体を沈める。ふぅ、と長めの溜息を吐いて体から力を抜く。

「何じゃ、疲れておるのか?」
「ずっと気を張っていたんだ。レイム君のことも…」
「レイムの命に別状はないと聞いておるが?何を気に病む必要がある」
「………」

 分厚い遮光カーテンの隙間から差し込む日光が室内の埃を反射してきらきらと輝いている。それを暫く見つめていたティカは間を置いて少しだけ口を開いた。

「私が、………レイム君には、バルマのために死んでもらおうと思ったんだ」
「!」
「ザク君が、レイム君は死んだものだと思い仇討ちのために命を削りチェインを使っていた。それを見た時にレイム君には悪いがこのまま死なせ、そしてあの邪魔なチェイン共々ザク君にも消えてもらおうかと考えた。レイム君をあのまま放置していれば致命傷は無くとも出血死していただろうからな」
「汝にしては珍しい考えじゃ…」

 ふっとティカは自嘲するかのような笑みを見せる。

「だが、出来なかった。レイム君の言葉を笑顔を、聞くことも見ることも出来なくなってしまうのかと考えると恐ろしくなったんだ…やれやれ、甘ったれた人間に成り下がったものだ」
「うむ……汝らしい決断だったのではないか?」

 ルーファスの言葉に顔を上げたティカは信じられないと言うように目をぱちくりと瞬きを繰り返す。

「何じゃその顔は」
「いや、ルーファスから私らしい、などと言われるとは思わなくて…」
「何じゃ、相変わらず失礼な奴じゃ!」
「すまないな、失礼な奴で」

 ルーファスなりに励ましているつもりだったのかもしれない。レイムを一瞬でも死なそうと考えたがそれを躊躇したティカを、正しい判断だったと遠回しながらも告げているのだろう。何となく、ルーファスがそんな行動を取るのが面白くてティカは笑ってしまう。

「ありがとう、ルーファス」

 それへの返答はないがティカは満足する。見ていないように思っていたがルーファスはしっかりと自分を見ていてくれた。だから『ティカらしい』と言える。そう思い、ティカは妙に頬が緩んだ。

「あ、まだこの話をしていないと思うのだが」
「まだ話があるのか?さっさと言え」
「ルチルが帰ってくる」

 その瞬間、ルーファスが固まった。相変わらずの反応にティカは肩を竦め、しょうがないと言ったように息を吐いた。

「数日ほど此方に留まるようだ。まあ、私も注意はするが嫌なら会わないようにルーファスも努力しろ」
「分かっておる!あの小娘が帰ってくるなど…考えただけでも恐ろしい!」
「酷い言いようだな…」

 ルーファスに告げることを全て報告し終えたティカは立ち上がり、部屋を出ていくために扉に向かう。また私室に戻れば机上に処理しなければならない書類が増えているのかと思えば憂鬱だがそうも言っていられない。ルーファスに手だけ挨拶をして部屋を後にした。パンドラ本部内は以前にも増して慌ただしい雰囲気になっており、仕事を放棄してゆっくりと散歩に耽ていた日々が遠くに感じられる。一度、リーオの様子を見ていこうと思い立ったティカは私室とは反対の廊下を歩き出した。


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