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 君との出逢いは今でもしっかりと記憶に刻まれている。触れれば壊れそうなその小さな手を必死に伸ばして、私の袖を掴んだ。戸惑いながら、その手に触れると君は私の指を握った。弱々しいながらも強く強く、握ってくれた。だから私は、その小さな手を、君を守ろうと決めたんだ――

「ティカ様」
「……………」
「チッ…」

 茫然と座り込んだまま反応のないティカをブレイクは守るように前に立つ。引き抜いた剣を構え、様子を窺っているのだろうバスカヴィルと睨み合う。ティカを守りながらではブレイクに不利であることは明確なため、何とかティカが自ら立ち上がってもらいたいと考えていたブレイクの背後でゆらっと気配が動いた。衣擦れの音、スッと刃物を抜く音、そしてティカの呼吸。ブレイクは振り返り、其処に立つ強い気配にティカを感じた。

「すまないな、取り乱した」
「いえ」
「見えなくとも闘えるか」
「はい、気配で分かります」
「分かった」

 ティカは首から吊っていた右腕の布を外し、邪魔にならないように布で右腕全体を覆い、胸の前で固定させる。ナイフを左手に握りしめ、キッとバスカヴィルの民を見据えた。

「行くぞ」

 地面を蹴り、ティカは素早く少女の姿のバスカヴィルにへと向かった。しかし相手も黙って見ているわけもなく、反撃のために傍らにいる黒い犬を模したチェインをティカに向かわせる。だが、ティカはそれが狙いだった。

「親愛なる姉君(シスター)」
「……っバンダースナッチ?!」

 突如、ティカの背後に現れた女性の影にバスカヴィルのチェインが動けなくなった。まるで上から押さえつけられているかのように地面に平伏している。ゆるりとティカはそのチェインに近付き、見下ろす。

「私のチェインは、私が指定する一定の範囲内のチェインの能力を無くすものだ。ザク君のように滅する能力はないが、これで充分だ」

 ティカがチェインに向かってナイフを振り下ろす直前に、少女は自身のチェインを消した。空を切っただけのナイフにティカは舌打ちをして少女に向き直った。ブレイクと交戦していたもう一人のバスカヴィル、ファングに抱きかかえられた少女は悔しそうにティカを睨んでいる。

「おまえなんかキライだ!」
「ああ、私も君が嫌いだ。私の大切な物を奪った君が」

 ファングが近くの扉を大剣で吹き飛ばし、屋外へと移動する。すぐにその後を追っていくブレイクだが、ティカはその場から動きはしなかった。するりと手から滑り落ちたナイフがカランと無機質な音をたてる。重い足を引きずりながら、横たわるレイムに歩み寄る。動きはしない、生きている人間ならば行う呼吸のための胸の起伏も見られない。

「何故、君なんだ…」

 レイムの傍らに座り、衣服が血で汚れることも構わずレイムに縋る。何も聞こえない。驚くほど心には何もない。大切な物を奪われた怒り、悲しみ、許せないという感情は確かに先程までは溢れんばかりにあったはずなのに、目の前にするとどうしてこうも消えてしまうのだろうか。

「だから、君は来るなと言ったんだ。君には戦う術がないのだから…」

 決して戦闘に慣れてるとは言えないというのに無理をするからだとティカはレイムを諫める。

「……っ!まさかッ」

 ティカはふと浮かんだ考えに顔を上げる。レイムは戦えない。彼が契約しているチェインも戦うための能力は持ち合わせていない。だがもし今その能力が発動している状態なら、とティカは微かな希望を見つけた。同時に、もしその考えが間違っていれば絶対的なレイムの死を意味している。ティカは目を瞑り、大丈夫だと自分に言い聞かせる。そして自らのチェインを再び呼び寄せて、この場のチェインの能力を無効化させた。

「お願いだ…目を、開けてくれ。レイム君…っ」

 冷たいレイムの手を握りしめる。生きていると信じて何度も何度もレイムの名を呼ぶ。

「…レイム君」
「………………ティカ…さ、ま…」
「…っ!?レイム君!」

 うっすらと開いた瞼と、掠れている声にティカは目を見開いた。苦痛の表情を浮かべながらも上半身を起き上がらせて、周りをきょろきょろと確認するレイムにティカはつんと鼻の奥が痛くなる。

「あ…れ?リリィは……わあっ?!!」

 ティカはまだ冷たいレイムの体を温めるように抱きついた。突然のことに戸惑うレイムを無視して何も言わず、ティカはレイムを抱きしめる。

「ティカ様!?なっ何をしてらっしゃるのです…っ」
「生きてる、本当に…生きてる……」
「…ティカ様」
「もう止めてくれ、こんな思いは沢山だ」
「申し訳…ありません…」
「無茶はするな、私に心配をかけるな」
「…はい」

 良かった、と消えそうなティカの言葉はレイムの耳元で呟いたためにしっかりとレイムに聞こえていた。

「……そうだっ、早く手当てをしなければ。それに君が死んだものと思い、バスカヴィルと交戦しているザク君の援護にも…」
「ッティカ様…一つ、お願いがあります…」
「何だ?」
「…私を、ザークシーズの所へ…連れて行って、ください」
「なっ君は自分がどのような状態か分かっているのか?無茶をするなと今言っ」
「お願いします…!」

 血に汚れたレイムの全身をティカは苦々しく見つめる。すぐにでも手当てをさせたい。手当てをしなければならない。これ以上無理をすれば、助かった命を落とす可能性も大いにある。首を横に振ろうとするティカの手をレイムはぎゅっと握った。

「…………っ、分かった…。だが、君の頼みを聞くのはこれきりだ」
「はい…!有り難うございます」

 立つのもやっとなレイムの体を支えてティカはブレイクたちが出て行った屋外への扉に向かって歩く。荒いレイムの息遣いにティカは心臓を掴まれているように落ち着くことができなかった。振り返れば点々と染みを作っているレイムの血に見ぬフリを決め込んだ。


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