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 かつん、と豪奢な廊下にブーツの音が規則的に木霊する。静寂に包まれた廊下の窓からは燦々と日の光が差し込み、暖かい空気を作り出す。近頃の天気はあまり良くなかったため、久しぶりの気持ちがいいぐらいの晴れた空だ。思わずブーツでリズムを取りたいほどの高揚感を抑え、誰が見ているか分からないためなるべく平静を装いながら歩く。一つの部屋の前まで着くと、その少し重たげな扉を押し開ける。かつん、一歩部屋に進み、少しだけ自然と前進しようとする後ろの足を躊躇させた。部屋にいるだろうと思い描いていた人物ではない誰かがそこにいたからだ。年は十五、六だろうか、綺麗な金髪の少年の綺麗な翡翠の眼が此方を不思議そうに驚いたように見つめている。その数歩後ろにいる黒髪の愛らしい顔をした少女は、その顔に似合わず物凄い目つきで睨んできていた。

「此処はシャロン=レインズワース嬢の部屋では?」
「シャロンちゃんなら今バルコニーに…」
「誰だ、お前」
「こらっアリス!いきなり失礼でしょ!」
「うるさいっ!」

 少年と少女は何やら言い争っているがそれを後目にバルコニーへと足を進める。再び扉を押し開け、バルコニーにあるシャロンお気に入りのティータイムを過ごすテーブルでやはりシャロンはティータイムを満喫していた。向かい合うように座っている飄々とした男を一瞥してから、満面の笑みをシャロンへと向けた。

「まあ、ティカ様」
「シャロンちゃん、久方振りだな。ザク君も」
「相変わらずお美しいですネ」
「ザク君が言うと嫌味ったらしく聞こえるんだが?」
「気のせいですヨー」

 にやにやと男は笑って角砂糖をそのままがりっと噛んだ。後ろからぱたぱたと落ち着きない足音が二つ近寄り、振り返れば先程の少年と少女がいた。

「シャロンちゃんのお知り合い?」
「ええ、こちらは、」
「自分の名を名乗るときは自らしなければ失礼だろ。私はシャロンちゃんの友人のティカだ。どうぞ、お見知り置きを」

 一見、厳格でいて冷ややかな印象を受ける女性だが、手を差し伸べる笑みは優しげであり少年は迷わず手を握った。

「オレはオズ=ベザリウスです。こっちはアリス、……?」

 少年オズが名乗った途端にティカの表情が変わった。握られたままの手に少しだけ力が込められる。一瞬、何か探るように目を細めたティカだがすぐにまた先程の優しげな笑みに戻った。

「そうか、オズ=ベザリウス。初めまして、深淵の堕とし子」
「―ッ?!」
「ティカ様っ!そのようなこと!」

 オズは何も言葉が出なかった。深淵、つまりはアヴィス、ティカは自分が何者かを知っている。オズがアヴィスから帰還したことを知る者は此処にいる人間だけのはずだ。ベザリウス家といえば公爵位であるからアヴィスへと堕とされたオズ自身の話が広がっているのは当然のこと。だからこそ、目の前にいる生きているオズを見た人間ならばもっと疑い、むしろ信じようとは思わない。だが探るような視線を一瞬向けただけであっさりとティカはオズを受け入れた。全てを事情を知る者でなければそのようなことはできないだろう。迂闊にファミリーネームまで名乗ったことにオズは後悔する。握られた手が熱く感じる。否、オズの手が冷たくなっているだけだ。

「そんなに警戒しないでくれ。何も取って食おうなどと思ってはいない」
「意地が悪いですネ、ティカ様は」
「えーと…」
「オズ様、困らせてしまって申し訳ありません」
「ティカ様は悪い人間じゃあないですから、安心して大丈夫デス」

 にこ、とティカの笑みに心なしかオズはどきりとする。自分よりも年上であり頭一つ分以上背の高い女性。美女とは言い難いが飾り気のないすっとして整った顔(かんばせ)、厳格な印象を受けたのは少しつり目がちだからだろうか。柔らかそうなウェーブのかかった深紅の髪に目が惹きつけられる。しかしながら、傍にいるとどこかほっとするのは何故だろうかとオズは自問する。

「それで、ティカ様?此方にお越しいただいたご用件はなんでしょう?」
「あーそうだ、忘れるところだったな。あまりにもオズ君のインパクト大きかったものだから」
「物忘れが激しい…なるほど、老化ですか?見た目はお若いのに災難デスネー」
「ザク君、喧嘩売ってるのか?」

 からかうようなザークシーズ=ブレイクの言葉にティカは妙に反応をして笑みを取り繕いながらもブレイクの襟をギリギリと怒りが籠もる手で握っていた。ティカは仕切り直すために咳払いを一つしてまたシャロンに向き直る。

「先日の蟲(グリム)の件なんだが」
「!」

 オズがあからさまに反応を示した。これはオズとは関係のない話であると思っていたティカにとってオズが反応を示す理由が見当もつかず首を傾げる。

「っティカさん!その話は…っ」
「おおっギル君、いたのか。いつから?」
「……ずっといましたよ…」

 悪びれる風もなくティカはいつからいたのか認知できないギルバートに謝った。いやしかし影が薄いのは確かだ。シャロンはくすりと微笑む。

「ティカ様、そのお話でしたらまた後日に此方から伺わせていただいたときでも宜しいですか?」
「…ああ、構わん。その件は此方に来るための口実でもあるからな。最近は忙しくてろくにシェリーちゃんに会いにも来れなかったから、今日のところはシェリーちゃんに挨拶だけして帰るよ」
「はい、母も喜ぶと思いますわ」
「では失礼する」

 シャロンの要求もあっさりと受け入れてティカは来たときと同じようにブーツを鳴らして部屋から立ち去った。束の間の静寂にブレイクががりりと飴を噛み砕く。

「さすが、ティカ様ですネ。察しが良い」
「本当に。オズ様、あまり気になさらず、ティカ様も納得してくださいましたので」
「……っごめん」
「オズ、気にするな。ティカさんは冷たそうに見える人だが…いや本当にたまにかなり冷たい薄情な人だが…っ優しい人だ!」
「そっか、ギルがそこまで言うんなら確かなんだろな」

 にへらとオズは笑って立ち去った後ろ姿を思い描いていた。あの腰にあったのは確か、レイピアだった気がする。簡素なドレスに不釣り合いなその姿をオズは自然と瞼に焼き付けた。

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