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 後ろ手で閉めた扉に少しだけ凭れかかり、息を吐く。自分の爪先を見つめながらティカはこれからのことを思案する。自らでも情に流されやすい性格であることは把握している。ただそれは本来の目的を達した上での話である。やるべきことも成せていなくてどうして自らの思いを優先したのだろうか。今思えば軽率であったとティカは反省する。“ティカ=バルマ”である限り、最優先事項はルーファスの言葉である。もう一度息を吐いてティカは仕切り直すために目を閉じた。しかし間の悪いことに己の存在を示すかようにカツンと響く靴音が聞こえた。

「こんばんは」

 瞼を開き、近付いてくる靴音と声のする方へ視線を向けた。闇を纏う通路で浮かび上がる金色にティカは肩を竦める。

「ヴィンス君か」
「此処はバルマ公の部屋ですよね?こんな時間に何かあったんですか?」
「いや、私用があったので訪ねたんだ」
「へぇー」

 さほど興味がない癖に笑顔だけを取り繕うヴィンセント=ナイトレイにティカも笑みを見せる。ナイトレイ家の養子、ギルバートの弟、だが彼だけはいつも異質さを醸し出している。

「ヴィンス君はこんな時間にどうしたんだ?」
「昼寝をしていたつもりだったんですけど、いつの間にか夜になっていて」
「エコーちゃんも連れていないのは珍しいな」
「エコーは今お使い中ですよ」
「そうか」

 こんな夜中に?という言葉をティカは口にしなかった。何を言っても真実を口にする相手ではない。話を切り上げてティカは自らも就寝しようと私室へと足を向けた。

「では、私は部屋に戻るよ」
「あ、ティカさん、僕が眠くなるまでで少し話し相手になってくれませんか?」
「私が?構わないが、君からそのような申し出をされるとは驚きだな」
「ティカさんの部屋に前から興味があったんです」
「私の部屋など、飾り気のないつまらない部屋だぞ」

 ティカが歩くその後ろをヴィンセントは静かについてくる。さてどうしたものか、ティカは後ろから纏わりつくような靴音に首の辺りがチリチリと痛むのを感じながら考え巡らせる。私室の扉を開き、ヴィンセントにソファーへ座ることを促してからミニキッチンに向かう。こんな時間に紅茶もどうかと思い、ストックしていたミルクを鍋で温める。そこに砂糖を少し加えて煮立つ前にカップへと移す。不自由だと感じていたが右手が使えないこともそろそろ慣れたものだ。

「ありがとうございます」
「いや、気にするな。………」
「何ですか?」

 じぃと自分を見つめるティカにヴィンセントは首を傾げる。

「初めて会ったときはこんな小さかったのに時が経つのは早いものだと思ってな」
「あはは、年寄り臭いですよティカさん」
「煩いぞ」

 金色と赤のオッドアイ、兄であるギルバートとは似ても似つかない金色の髪。ギルバートは人嫌いさを全面に出しているがヴィンセントは人懐っこい笑みを見せるのが得意だ。本当に対照的な兄弟である。

「ねえティカさん、もし願い事が一つだけ叶うとしたら、ティカさんは何を願います?」
「願い?そうだな…、とりあえず仕事全部消えるように願うな」
「ティカさんらしいですね。でもそういうことじゃなくて、誰かを消すことも過去も未来も思い通りになるようなそんな巨大な力に願うとしたら?」
「それは、アヴィスの意志に何を願うと聞いているのか?」

 にっこりとヴィンセントは笑みを見せて肯定を示した。何となくティカはティーカップの白い世界に目を落とす。

「考えたことありませんか?もし願いが叶うなら、って」
「そうだな。誰しも一度はそんな思いを抱くだろう。例に漏れず私もな」
「ティカさんの願いは何ですか?」
「私の願いは、…私の存在を初めから無かったものにしてほしいこと、か」

 ヴィンセントは微かに目を見開きその顔から笑みが消えた。だが俯いていたティカはそれを知らず、ただカップの中のミルクが作りだした薄い膜をを見ていた。

「しかし叶いもしない仮定を述べるのは浅はかだ。アヴィスの意志など不確実な者に願うこともな」
「なるほど、やはりティカさんは面白い人ですね」
「誉めているのか?」
「勿論」

 不服そうにティカはミルクを飲む。向かい側に座るヴィンセントは瞼を閉じて同じようにカップに口を付けている。長い睫が影を落とし、妖艶さを纏う。ふと瞼を開いた瞳と視線が交差する。にぃ、と言うようにヴィンセントは笑み、薄い唇を開く。

「添い寝でも、しましょうか?」
「ん?」
「ティカさんが望むなら添い寝だけじゃなくても、別にいむぐ」

 喋っている途中でヴィンセントはティカに鼻を摘まれた。自分の鼻先にある手に視線を向けてそこから伸びる腕、肩、顔と順番に視線を滑らせた。少しだけ目を細めた無表情がヴィンセントを見つめている。

「生憎、添い寝が必要な年ではないからな」
「…気分を害させてしまいましたか?」
「いや、そうでもない」

 ヴィンセントの鼻を離したティカは立ち上がり、ベッドへと歩み寄りながら衣服を脱いでいく。点々と足跡のように置かれたドレスやブーツを気にせず下着姿のままベッド脇のクローゼットを開いて寝間着を取りそれを着た。結んでいた髪を解き手櫛で梳く。

「君のことはこんな小さな頃から知ってるからな、異性としては見れないんだよ。そうだな、これが母性と言うものなのか…無性に頭を撫でたくなる」
「………………」
「ということで私は寝るぞ。今からナイトレイ家に帰るのが面倒ならベッドを半分分け与えてやってもいいが?何なら寝れるまで肩を叩いてやろうか?」

 飽く間でも優位な立場からティカはヴィンセントに問いかける。ソファーに貼りついたように動かない呆然としたヴィンセントにティカはぷっと笑いを堪えきれずに吹き出した。

「冗談だ。まあとにかく私は寝る。帰るなり此処で寝るなり好きにしてくれ」

 ベッドに潜り込んだティカはそれっきり何も言わなくなった。暫くして衣擦れの音がし、靴音が近付いてきてからベッドが少し沈んだ。

「ヴィンス君、君には…君たちには母親の存在の大きさは分からないだろう」
「………」
「どんなときにでも自分の味方であってくれる確固たる存在だ。君の前にもそんな人が現れてくれればいいのにな」

 それから静かな規則正しい寝息が聞こえてきた。ヴィンセントはまだ冴えている瞳を閉じてその寝息を聞き、頭の中に次々と浮かび上がる情景に眉を顰めた。


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