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「ではシャロンちゃん、また後日」
「はい。お気をつけてお帰りください」
「レイム君は遠慮なく使ってくれ。あの通り頭でっかちな男だがな」
「承りましたわ」

 ティカは呼び寄せた馬車に乗り込み、シャロンに手を振って別れた。狭い車内だが、一人で乗るには充分な広さだ。カタカタと不規則的な揺れが体に響く。窓越しの煌びやかな街灯がするすると流れていく様はとても綺麗で、ティカは暫く無心で見つめていた。流れる景色の中に数十年前に別れた母の幻影がぼんやりと浮かび上がる。よく、笑う人だった。死別してからの年月が思い出を美化しているだけかもしれないが、記憶の中の母は笑っている。母を思い出すことさえ、久方ぶりだ。いつしか無意識の内に記憶の隅に追いやっていた自分をティカは叱咤する。そこで丁度馬車が停車したため、ティカはゆるりと馬車から降りてパンドラへと足を踏み入れる。向かう場所は他のどこでもない、ルーファスの私室である。夜も更けているためルーファスの私室までの回廊で誰一人として人に会わなかった。仮にこんな時間にまだパンドラ内を歩いているのはよっぽどの仕事大好き人間だろう。自身のブーツの反響音だけを聞きながらティカはルーファスの私室まで辿り着き、ノックもなく扉を開いた。

「無礼な奴じゃの」
「お互い様だろ」
「汝と我とでは立場が違う。一緒にするでない」
「一々煩い奴だ」

 広げた書物から全く目を離さずにルーファスはティカを招き入れる。ルーファスの傍に置かれたランプだけがこの部屋を灯している。窓枠に沿って設置されたソファーに腰掛けているルーファスの前まで歩いていき、そのまま床にどかりと座り込んでティカは散らばった書物やらから手近の書簡を手に取った。難解な言語で書かれているそれはきっと100年前に関わりのある物だろう。今のティカには到底理解ことできないが。

「まず、礼を言う。恐らくこんな事がなければもっと母様の記憶が風化していったと思う。思い興すキッカケを与えてくれたことに感謝する」
「うむ、汝から素直にそう言われるのは気持ち悪いものじゃ」
「素直に言ってるのだから素直に受け取っておけ」

 相変わらずひん曲がった性格だとティカは思う。思えば、ルーファスとの付き合いもバルマ家に来てからずっとであるから長いものだ。お互いにチェインとの契約の影響で見た目は変わらないが、それでも長い年月を共にした実感は薄々ながら感じる。

「…今まで、バルマの人間として生きてこれたのはルーファス、お前のお陰だ。お前の言った言葉が私を今もバルマに繋ぎ止めている」
「………」

 “所詮低俗な卑しい娼婦の娘”その言葉がティカを“ティカ=バルマ”として生きていく決意をさせた。残酷な蔑んだ言葉だが、それを口にしたのは他でもないルーファスだ。そしてその言葉には続きがある。

『此処で逃げ出せば周りの者から汝も汝の母もそう称される。それでも良いなら逃げ出すがよい、だが汝がバルマに居続ける限り汝も母もバルマ家の高位な者として扱われる。どちらが利口かは汝が選べ』

 そしてティカはバルマ家に留まることを決めた。今のティカがあるのはルーファスがいたからこそと言っても過言ではない。

「可愛げのない小娘じゃったの」
「かく言うルーファスは陰険そうだったな」
「年を重ねればどうにかなると思っておったが、変わらず可愛げがないの」
「そっくりそのままお前に言ってやるよ」

 ランプの炎が微かに揺らめいた。同じようにルーファスの影も揺らぎ、ティカは目を細める。

「ルーファス」
「……」
「私は、バルマが続く限り、私がこの世にいる限り、お前の目であり耳であり腕であり脚であり、お前の意志だ。私はお前が命じればそれを何よりも尊重しよう。今まで通りその対価として、母の名を汚さぬよう頼む」
「分かっておる。これから先、どのようなことがあろうとも汝は我の物じゃ」

 固く結ばれた契約はティカのアイデンティティの一部へと化し、重くのしかかることがあれどもそれがあることでティカは今を生きていられる。


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