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「なあレイム君」
「何ですか」
「確かに私は暫く仕事をしていなかったが、それが丸ごと残っているとはどういうことだ」
「まだ以前逃亡したときよりは少ないじゃないですか」
「そういう問題ではなくてだな、一応ルーファスの指示で動いていたとレイム君も分かってくれたわけだ。どうにかならなかったのか?」
「なりません」

 相変わらずのデスクを埋め尽くす書類にティカは意識を飛ばしたくなる。歌劇場での事があってから数日してパンドラに戻ってきたティカだが予想通りの仕事の山にやはり帰ってこなければよかったと思う。

「ああ、ザークシーズやオズ様も今はパンドラにいらっしゃるそうですよ」
「…そうか」
「会いにいかれないんですか?」
「会いにいって、素直に話を聞いてくれると思うか?胸糞悪いルーファスの親族であり、今まで騙していた人間だぞ、私は」

 チェアーの手摺りに肘を突いてティカは片方の口角を上げて笑った。

「一度壊れた信頼ほど修復が難しい物はない。皆がレイム君みたくお人好しでもないんだ」
「……」
「レイム君が一緒に行ってくれると言うなら、私も心強いんだがなー」
「子どもみたいなこと言わないでください。年考えてください」

 チッと舌打ちをして左手でペンを握った。力の使い方が分からず、慣れない手でペンを持つのにかなり苦戦する。それを見かねたレイムが呆れ顔で半分の書類を抱えて持ち上げた。

「今回だけですよ」
「そうは言わずにこれからも頼む」
「調子に乗らないでください!」

 書類を抱えたレイムはそのまま部屋から出て行った。やはりお人好しだと再確認して、ティカはペンを投げ出し背凭れに寄りかかる。ギィと軋んだ音を奏でるチェアーだがあまり気にしない。この専用の私室に置かれている家具ともう数十年の付き合いの物もある。それは同時に、ルーファスに遣わされてからほぼ同じ年数が経っているということ。それまでは誰にも知られたことはなかったのに、今になって自分の行動する目的を知られてしまった。今は極一部とは言え、これから広まる可能性もある。そうなるとパンドラさえも居辛い場所になるかもしれない。マイナスな事柄しか見えてこない結果にティカは自然と溜息が零れる。ふと、デスクの端に置かれた懐中時計が視界に入った。

「あれはレイム君の」

 忘れていったようで、それを手に取りしみじみと眺める。すぐに立ち上がり、懐中時計を手に部屋を出た。あの書類の束を持っていくのだから恐らくはレイムの自室に行ったのだろう。回廊を進み、レイムの自室へとティカも向かう。途中、何人かと挨拶を交わしながらも規則正しくブーツを鳴らす。前方に見慣れた後ろ姿を見つけ、思わず足を止めた。レイムではない、白髪の猫背、だがその人物の前には床に這いつくばるレイムの姿も見えた。何も戸惑うことはない、いつも通りでいればいいとティカは自分に言い聞かせる。

「何をしているんだ?通行の邪魔だろ」
「オヤ、ご機嫌麗しくティカ=バルマ様」
「私をバルマの名で呼ぶなと何度も言っただろう?ザク君」

 お互い笑顔を見せているがそれが上っ面だけだとすぐに分かる。間に挟まれて倒れている生気のない顔をしたレイムが小さく呻いたことでそれはひとまず中断する。

「何があったんだ?そんな顔をして」
「オズ様が、おそらくサブリエに…」
「サブリエ?どうしてまた」

 サブリエは100年前の事件があって以来、パンドラの特別な監視下に置かれている。表向きは有毒なガスが蔓延しているために立ち入り禁止となっているが、それをオズが鵜呑みにするわけもないだろう。また、勘が鋭いオズだ、何か裏があるとすぐに察したのも予想がつく。

「で、ザク君はそれをみすみす放っておくわけもないだろう?」
「当然デス」
「ならば、私も共に行こう」
「なぁに言ってるんですカ。貴方の目的を知って、大人しく同行させるとでも?」

 嫌味のふんだんに含まれた言葉をブレイクは笑みと共に吐き出す。それをティカは乾いた笑みで受け止め、同じように表情とは裏腹な感情を乗せた笑みを見せた。

「君はそんな感情論で動く人間だとは思いもしなかったな。『利用出来るものの全てを利用してみせろ』…そう、ギル君に言ったのは君のそのよく回る舌じゃなかったか?」
「……さすが、無駄に情報を持っているのはあのアホ公爵の親族ですネ」
「私もザク君の言葉に習って、利用しているだけだ。それに、私がいればザク君もチェインを使用する負担が軽減するだろう?」

 静かなる冷戦は終わり、納得しきれない部分もありつつブレイクはティカの要求を飲んだ。

「すぐに出ますヨ」
「ああ」

 利害の一致、ティカは自室に戻りサブリエへ行く準備をする。必要最低限な物だけを身に着け、ブレイクと再び落ち合う。サブリエ、悲劇の場所へと向かう。


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