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 膨大な量の本を収納する本棚に囲まれて、本を読みながら泣いている少女がいる。ぽたぽたと膝の上にある本に染みを落としながらも読み進める。あちらこちらに跳ねた深い紅の髪が俯く少女の顔を隠している。奇妙だ。少女の全体像を見ているはずなのに、染みが作られる紙面もイメージとして映る。一体自分の立ち位置は何処なのか、少女から離れているのかそれとも間近にいるのか。少女の嗚咽が微かに聞こえる。そして、嗚咽の狭間に母を呼ぶ。ああそうだ、あれは、…―私だ。

「ティカ様…?」

 薄暗い部屋で、どことなく見慣れた天井が視界に映った。柔らかい毛布の感触と、聞き慣れた声。ティカは上半身を起こそうと肘を立てる。すぐに誰かが体を支えて起きやすいようにと介助してくれる。

「すまない。レイム君」
「いえ、具合はどうですか?」
「…私は、どうしたんだ?どうして、此処に?…それに、オズ君たちは」
「突然倒れられたのですよ。すぐに此方にお運びして、…オズ様たちもお帰りになりました」

 未だ覚醒しきらない脳でティカはレイムの言葉を一つ一つゆっくりと咀嚼する。倒れた、運ばれた、帰った、ああ、歌劇場にいたはずなのに何故見慣れた天井なのかと思えばバルマの屋敷に連れられたのかとティカは納得する。レイムから水の注がれたコップを受け取り、一口飲み思い巡らす。

「医師に診てもらいましたが、暫くは絶対安静だそうです」
「…そういえば、何故私は倒れたんだ?」
「腕ですよ!腕!ザークシーズを庇ったときに倒れられたでしょ?治りかけていた腕の骨がまた折れたときと同じ状態に戻ったそうです!いつも、言っているじゃないですか、…無理はしないでくださいと」

 レイムの頭に巻かれた包帯に目がいく。無理をするなと言うが、それは本人にも言ってやりたいものだ。他人のことばかりかまけるお人好しのレイムをティカはいつも冷や冷やして見ている。ティカは決してレイムのように他人のことばかり考えているわけではない。むしろ利己主義だ。

「心配を、かけたみたいだな」
「いえ…」
「それにしても、私に幻滅したんじゃないか?」
「え」

 だから、自らの目的を果たすためなら誰かを傷つけることに何も感じない。騙し、欺くことを厭わない。

「私がただの気まぐれで仕事を放り出し、オズ君たちの元に行ったと思ったんだろ?残念だが違う。全てルーファスの指示だ。オズ君やザク君、アリスちゃん、彼らの情報を集めるのが私の役目。不思議に思わないか?殆ど表に姿を見せないルーファスが、接点も持ち合わせていない人間の情報をどうしてああも持ち得ているのか」
「………」
「全て私が裏で働いているんだよ。皆が知らないところで私の目的は達成される」

 自然と込み上げる笑いにティカは逆らおうと思わない。レイムの顔は自身の髪で遮られて見ることは叶わない。

「どうしてティカ様がそんなことを…」
「理解できないか?できなくて良い。レイム君に影は似合わないからな。だが、それが私の生きてきた道だ。バルマ家の人間だと言われたときから、レイム君の生まれるずっと前から、私はそうして生きてきたんだ」
「…ティカ様は、それで、よろしいんですか?」

 やっとティカは顔を傾けレイムを見据える。目が合えばレイムは少し怯えたように肩を震わせた。

「私が喜んでしていると思うか?レイム君、私と何年付き合っているんだ。こんな面倒なこと、辞められるのなら今すぐにでも辞めたいに決まっているだろ」
「はぁ…」
「ルーファスは、私が奴の期待する成果を上げなかったためにあんな意地の悪いことをし、私の地位を貶めたんだ。オズ君たちから非難されるように仕向け、結果ルーファスの思い描いた通りになった。しかし何もかもルーファスの思い通りになるのが悔しくて最後は自分から暴露してやったがな!……だが、出来るなら…もう少し、仲良しごっこをしていたかったな…」

 立てた膝に顔を埋めて最後は小さく呟いた。目的は、非道な物だったかもしれない。しかしティカはそれでもあの穏やかな空気の中にいることが心地良かった。一生懸命に生きている彼らを見ているのが楽しかった。

「全く、あなたというお方は…」
「なんだレイム君。先程までの腑抜け面がいつもの顔に戻っているぞ」
「腑抜け…っ、コホン。それで、いつパンドラにお帰りになるのです?」
「は?」

 予想外の質問にティカは暫し静止した。

「ですから、いつパンドラに」
「待て。私の話を聞いていただろう?私はルーファスの諜報員のような者だぞ。それを知って、まだ私に関わろうと思うのか?」
「私は、バルマ家にお仕えする者ですから。ルーファス様だけでなく、ティカ様にもお仕えしているのです」
「馬鹿なのか、君は…」

 自分の情報を他人に流す人間の傍に好き好んでいれるわけがない。バルマ家に仕えているとは言え、レイムも一人の人間だ。それを好ましく思うはずがない。

「ティカ様は、私が生まれたときからずっと傍にいるお方です。稀に耳を疑う発言をされますが、それでも私はティカ様を尊敬しております」

 そっとレイムはティカの左手を自分の両手で包み込む。

「ですから、これからもお傍にいさせてください」
「……〜〜っ!本当に!此処まで馬鹿だとは思いもしなかった!」
「知らなかったのですか?ティカ様は私と何年お付き合いしていらっしゃるのです?」
「今の、何処ぞのピエロに似ていたな」

 ふん、と鼻で笑いティカはベッドに寝転がって毛布を頭から被った。レイムは笑って、その場から立ち去るためにティカに背を向けて扉の方を見た。だが歩こうと一歩踏み出すとくいっと後ろに引っ張られ、腰から下に温かさと柔らかい感触がした。首だけを動かして後ろを見ればティカがレイムの服を掴み、腰の辺りに頭を当てていた。

「…少しだけ、背中を貸してくれ」
「はい」

 嗚咽は聞こえない。ただ静かにティカはレイムに縋りながら呼吸をしているだけだった。暖炉の薪がパキッと乾いた音を響かせるまでの数秒間、ティカとレイムは静寂の世界にいた。


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