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 ルーファスを追いかけ、一階席まで降りてきたところで今まで見えていた景色がさぁと砂塵のように消えていった。劇も、観客も、自分たち以外の物は全て消えていく。きらきらと輝いていた煌びやかな劇場さえも全て作られた世界。本当は、誰もいない静まり返った薄暗い歌劇場。ブレイクがルーファスの幻影を切り裂き、仕込み杖で床を突いた瞬間、それが見えてきた。少し離れたところで冷ややかにティカはレイムと共に見ていた。

「…やれやれ…我が心を込めて作った幻影が台無しじゃよ。まこと、嫌らしい力じゃのう、帽子屋よ」

 現れたその姿は、シェリルの車椅子を押していたあの赤髪の男であった。

「ゴホッゴフッ」
「!」
「ブレイク…!!」

 咳き込むブレイクの口からは赤い血が共に吐き出された。駆け寄るオズとブレイクの間にルーファスは立つ。

「不様じゃのう。無闇に力を使うからそういうことになるのじゃ」
「これは…本物…?」

 ブレイクが何かをルーファスに向かって投げる。それをパシッとルーファスは受け止めるが忌々しげに見つめた。

「幻影はしょせん幻影。実在する物に干渉することなどできはしない。ただの子供騙しですよ」
「言ってくれる。幻影といえど相手をショック死させることとて可能じゃ。人間相手に無能な汝のチェインと一緒にするでないわ」

 優美にルーファスは扇を広げる。

「まずは見せてもらおうかの」
「……」
「―汝が、ケビン=レグナードであるという“証”をな…!」

 ルーファスはブレイクに向かって扇を振り下ろした。それをブレイクは受け止め、薙払う。隣にいたレイムはそれを見て即座に間に入った。

「お止めください!ルーファス様―」

 しかしルーファスは躊躇なくレイムを殴る。ティカは一歩出た自身の足を見つめ、それ以上進むことを迷っているようだ。自分に何ができるのか、こんなことをして良いのか、何も答えが出ない。だが、ティカは駆け出した。

「契約の影響でガタがきていると―、本気で信じておるのか?違うよなぁ…?汝の場合はそれが、」

 再びブレイクに向かって走り扇を振り下ろしたルーファスの前に、ティカが立ちはだかった。振り下ろされる扇は止まることなくティカの左頬にガツッと嫌な音を出して当たった。扇が当たった勢いでティカはその場に右肩から倒れ込む。

「……っつ」
「つくづく、我の周りは馬鹿が揃っておる」
「ティカ様!」

 倒れたときに床と衝突したのだろうティカは蹲りながら右腕を抱え込み、唇を噛み締めて痛みに耐えている。レイムがティカの体を支えながら起こした。つぅと左頬から血が流れていく。

「役立たず共め。ティカ、汝は自らの役目も果たさずよく我の前に姿を現したな」
「…煩い」
「汝を何のためにオズ=ベザリウスの元にやったか忘れたか?」
「黙れッ!」

 突然名前を出されたオズは事態が把握できずに、ただ俯くティカを見つめる。ギルバートも、レイムでさえも同じだ。

「どういう…こと、ティカさん…」
「このティカという女は我が汝らの情報を仕入れるために遣わした者じゃ。だがそれも満足にできぬ無能じゃがな」
「つまり…ティカさんは」
「スパイ、のようなものだよ。オズ君」

 ティカは肩を掴んでいたレイムの手を払い、自分で立ち上がる。まだ痛みがあるようで額には冷や汗が滲みでている。やっとオズと目を合わせ、薄く笑った。それは今まで見たことのない冷淡な感情さえ見ることのできない笑みである。

「これで満足か、ルーファス。お前の望むように私は四面楚歌になったぞ」
「ふん、つまらんのぅ。自ら言ってしまうとは。だが忘れるな、汝は我の手足じゃ。これ以上の不様な姿は見せるな」
「……」
「興が冷めたが、」

 皆の意識がルーファスから逸れた瞬間、再びルーファスの扇がブレイクに振り下ろされた。

「やはり、二度目だからじゃな」

 ザッとブレイクの左胸の服が切り裂かれ、服の裂け目から見えた刻印に目を見開く。それは違法契約者の刻印。

「ほう…一回りすると刻印はそうなるのか。不様で…歪で…罪人(うぬ)に似合いの烙印じゃのう」
「は…そんなこと…言われ…なくても…」

 ブレイクの体が揺らぎ、そのまま倒れていく。レイムが駆け寄りその体を受け止めた。

「…レイムよ、汝はその刻印のことを知っておったのか?」
「…いいえ。…いいえ…」
「だがこの名は…“ケビン=レグナード”の名は知っておるじゃろう?」

 ルーファスがす、と扇を舞台へと向ければ幻影が現れる。

「…今から50年程前、一人の違法契約者が夜な夜な街を徘徊し、自らの欲のために出会う者を次々とチェインへの供物に捧げていたそうじゃ。闇夜に浮かぶ紅い瞳が人ならざる者のようだと恐れられ、こう呼ばれておったそうじゃ。紅眼の亡霊―…と」

 ルーファスの祖父はその罪人を捕まえるために様々な手を尽くしたが報われることなく一生を終えた。そして犠牲者を116人も出した紅眼の亡霊もアヴィスへと堕とされた。

「…なんだ、その話は。そいつのことなのか…?」
「ブレイクが…違法…契約者…?」
「…それで?貴方の望みはブレイクを犯罪者として捕まえることですか?バルマ公爵」

 オズは冷ややかにルーファスを見やる。

「…それはそれでおもしろそうじゃがのう。我が求めるのは情報。そやつがアヴィスに堕とされてから再びこちらに戻ってくるまでの空白の時間、我はこう思っておるのじゃ。引きずりこまれた深淵で、そやつは目見えたのではないかと。我々が求めし存在…アヴィスの意志に―!!」


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