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 馬車から降りてきたティカの顔には疲労困憊という文字がありありと書かれていた。深く長い溜息を一つ吐いてとぼとぼと目の前の建物の中へと入っていく。三角巾で包まれて吊られた右腕が鬱陶しげで、使い慣れない左手で扉を開ける。そのまま付き人も無しにふらふら蛇行しながら目当ての部屋へと向かう。自分の背よりもずっと高い窓から差し込む日差しを今日ばかりはちょっと鬱陶しく感じた。太陽は残酷だ。いつも変わらずどんな者にも平等に接する。それに救われる者もいればそうでない者もいる。今のティカは後者だ。そんなことを考えながら扉をまた押し開けた。その瞬間、どんよりとしたその部屋の空気に自然と眉を顰める。何事だと状況把握をすれば、そのどんよりとした空気の根源は二箇所。ソファに座っているオズと一人用のチェアーに寄りかかるギルバート。

「何だ。やけに重い空気だな…」
「あらティカ様、お帰りなさい。お医者様は何と?」

 シャロンとブレイクがティータイムを過ごすテーブルに同じく席に着き、ティカは自分の不自由な右腕を一瞥して肩を少し上げる。

「綺麗に折れていると。暫くは使い物にならんな」
「まあ…何か必要な物がありましたら遠慮なくおっしゃってくださいね」
「すまない」
「それにしても、ティカ様が負傷するとは珍しいこともあるもんですネ。バスカヴィル相手とは言え…何があったんデス?」

 ティカは一度目を伏せて何かを思案する。それからまたブレイクを見て少しだけ笑った。それだけでブレイクとシャロンはティカが何を言わんとしているかを察する。

「その話はまた後日するよ。……それよりもレイム君だ」
「レイムさん?」
「医者に診せる前から帰りの馬車に乗って別れるまでずっと説教だ。その間ずっとだぞ。まだレイム君の小言が耳に纏わりついている…」
「ですから顔色があまり優れないのですか」
「いきなり失踪したかと思えば怪我して帰ってくるもんだからレイムさんも怒りたくなりますヨ」

 レイムがティカへと説教する場面がまざまざと思い浮かぶ。どうしてあなた様はそう軽率なんですかご自分のお立場は分かっていますか心配するこっちの身にもなってください本当にもういい加減にしないと…みたいなことを延々と言われたのだろう。しかしそんなことも慣れっこでいちいち聞き入れているティカでもないため、相変わらずレイムの苦労は無駄となるんだろう。

「ああ、そうだ。ラトウィッジの校長に今回の件について説明する手紙も送ったから、もうすぐオスカー君も帰ってくるだろう」
「ご苦労様デス」
「本当にな。…それにしても、アリスちゃんはどうしたんだ?何を苛ついている?」

 ブレイクの淹れてくれた紅茶に口を付け、ティースタンドに並べられた様々なスイーツをばくばくと食べ続けているアリスに目をやる。

「本当に…アリスさん、何をそんなにむくれていらっしゃいますの?」
「うるさい。私はいつも通りだぞ」
「そうですヨネェ?相も変わらず大食らいなだけの役立たずデス」
「なんだとピエロ!!」

 アリスが手を出す前にシャロンがスカートの中から取り出したハリセンでブレイクを黙らせた。

「お黙りなさいブレイク。さあアリスさん、何かお悩み事があるのでしたら話してみてください」
「だから…別に悩みなど…」
「ね…?」

 シャロンの有無を言わせない恐怖の笑顔にアリスは従わざるをえない。

「怖いよ、シャロンちゃん…」

 アリスはすごすごと何が気に食わないのかを説明する。それはオズに対してのことだった。

「オズ様が」
「かまってくれない?」
「ちがうっそんなことは言っていない!私はただ最近あいつに私の下僕としての自覚が足りないと言ってるだけで…」

 最近の行動でオズが様々な人と関わったことをアリスは嫌なんだと言う。ブレイクのこともエイダのことも、エリオットのこともオズが他の誰かのことを考えているのがアリスにとって不愉快のようだ。それはアリスがオズを誰かに取られるのが嫌だと言っていて、つまりはアリスがオズのことを、…

「ス・テ・キ…」

 シャロンがきらきらと輝き始めた。

「おじょ…」
「素敵ですわアリスさん!乙女ですわかわいいですわまさに胸キュンですわ!!いいですかアリスさん、その感情は嫉妬(ジェラシー)と呼ばれるものなのです」
「ジェ…?なんだそれはうまいのか?」
「いえ、どちらかといえば甘酸っぱいものと聞き及んでおりますわ」

 ブレイクとティカはロマンチストなシャロンの乙女スイッチが入ったことに苦笑する。こうなれば無理矢理にでも何かしら関わらされるために早々に退却しようと立ち上がったが、勿論それをシャロンが見過ごすわけもなくがっしりと肩を掴まれて止められた。

「お待ちください!私達はちゃんとアリスさんの力に…」
「おいふざけるな!私は別におまえ達の力な…ど!?」

 次はシャロンの泣き落としだ。名前を呼んでくれないアリスに対して“シャロンお姉様”と呼ぶようにせがむ。それを拒もうとするとやはり笑顔で説き伏せる。恐ろしきレインズワース家の血筋である。

「シャロン…お姉様…?」
「聞きましたかブレイク!!ティカ様!!私…まるで妹ができたかのような気分ですわっ!!」
「良かったなー」
「はっはっはっご安心を。どこをどう見ても若い子にちょっかい出したがるオバサンにしか見えませんから」

 またもやシャロンの鉄槌がブレイクに下る。血を吹き出すブレイクにティカは憐れみの視線を送った。

「ザク君も適当に流せばいいものを」
「いやはや正直者なのでネ…」

 とにかく二人はシャロンとアリスの“お勉強”の邪魔にならない位置に移動して、トランプで遊び始めた。とりあえずスイッチの入ったシャロンの気が済むまで放っておくしかない。

「キスのことか?」
「キッ!?」
「私とオズだってそのくらいしたことあるぞ?」

 しかしアリスの言葉で般若の顔になったシャロンはオズに向かって走り出した。ウサギの皮をかぶった狼ですわーと叫びながらオズをハリセンで叩き続けるシャロンをブレイクとティカは離れたところで合掌しながら観賞していた。


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