ねことわたし
「今日は家に帰るよ。」
それから大した間も開けず、赤葦くんは手を離した。少しずつ遠くなる距離、複雑な顔と目が合う。
まるで何事もなかったように離れていって、それなのに温もりだけは微かに残っていた。
少し先を歩く赤葦君を、少し離れたまま追いかける。何もかける言葉が見つからず、気がつけば家の前まで来ていた。
じゃあね、
それだけでいいのに。望んだ言葉は吐き出されず、家の門を開けて待ってくれる。
『嘘じゃないから。』
呪文のように響く。
違う、頭に言い聞かせる。
都合良く解釈してはいけない。
勘違いだとわかった時、羞恥心が身を支配するだろうから。
「宇多川さん。」
門を開けて待っている彼。わかっている。
はやく鍵を開けて、彼と解散するんだ。
・・・解散したらどうなる?
今日は家に帰る、って、見つかったらどうするの?
「貸して。」
簡潔に言った赤葦君は、握っていた鍵を取ろうと手に触れてきた。触れた途端、とっさに手を引っ込めてしまう。
がちゃん、と虚しく鍵が落ちる音がした。
「・・・」
「ご、ごめ、」
「・・・いいよ。」
落としたのは私なのに、しゃがんで彼は鍵を拾い上げた。空気が重たい。この空間だけ、酸素が少ないみたいだ。
触れた右手を、左手で包む。
静かに鍵の回る音がする。
扉が、開く。
「ちゃんと、鍵閉めるんだよ。」
最後の最後まで、気遣い。
ずっと迷惑かけて、失礼な態度を取っているのに、何も言わない。
その気遣いが、重たい。
「・・・うん。」
今日、このまま終わってしまったら、どうなるのだろうか。明日は来てくれるのだろうか。また、来てくれるのだろうか。
「・・・宇多川さんは。」
「・・・うん。」
あと一歩で玄関に入る。入ったら終わる。
「俺のこと・・・嫌い?」
「え・・・」
悲しそうな顔と目が合う。
そんなこと、ないよ。寧ろ、その逆だ。
・・・好きだ。単純に三文字。
その三文字が言えない。好きな人がいる人に、言えっこない。
でも、そんな風に困らせる態度、取ってるんだよね。
「・・・違う。」
「じゃあ・・・好き?」
ストレートな言葉に返事が返せなくなる。
好きだよ。好き。好きになっちゃったの。
そう言えれば、どんなに楽か。
でも、また、困らせてしまう。もう困らせたくない。
「俺は好きだよ。」
「え、」
「世辞とかじゃなく。純粋に。」
純粋に?
「確かに、その場しのぎで付き合ってることにしたのは、悪いと思ってる。ごめん。」
「いや、」
「普通なら気味悪がるのに、何日も泊めてくれて。それだけじゃない。ご飯作ったり、変に気を使ってくれたり。放っておけばいいのに。」
「それは・・・困ってたから。」
「確かに困ってたよ。でも、普通はそこまでしない。」
目の前の彼は言う。
「たぶん頼まれたら嫌って言えない性格なんだろうね。宇多川さん。」
「そ、そんなこと」
「この体質が、俺じゃなくて違う人でも、同じことしたでしょ?」
語るように言う。
「もしそれが、俺じゃない他の人でも、宇多川さんは変わらずに部屋貸したんだろうね。」
「ち、ちが」
「優しいけど、警戒心がなさすぎる。家の安全考えて、同じ部屋に鍵かけて寝る、とか。普通は身を案じないと。」
少し笑いながら彼は続ける。
最初の方に聞かれた。どうして同じ部屋で寝かせるの?と。リビングでも構わないのに、と。
失礼な話、俺男だよ?発言を破壊神と勘違いしていたからだ。
そうですか、と短く答えられ、それにソファは体痛くなるよ、と付け足した。
別にベッドじゃなくてもいいのに、と苦笑いされたけど、負けじとベッドに寝かせていた。
それでも朝になると場所が入れ替わってて、私が戸惑ったけれど。
「お礼で買ったはずのケーキを1つ渡されて、さらには食べさせてくれたり、」
「そ、それはごめんなさい。」
「たぶんと友達とかにやって怒られて、慌てて謝ってきた。」
「・・・うん。」
「頭撫でたり、抱きしめても熱のせいだって言った。」
「それは・・・。」
今までの赤葦君、そんなことしないし。
寝ぼけながらやられたらそう思う。普通は頭なんて撫でない。親戚とか、年上の人なら、なんか頭撫でてきたりしそうだけどタメだし。ハムって言ったし、風邪ひいてたし、覚えてなかったし。
「そんなわけないじゃん。」
「え、」
「誰彼構わず頭なんて撫でない。宇多川さんは撫でる?」
「・・・わかんない。」
「名前で呼べば、恥ずかしいって照れたのに。」
そこで言葉が止まる。
彼の目が私を捉える。
動けなくなる。
「今度は呼ばないでって。」
「・・・だって。」
「好きだから呼んだ。」
また、好き、と言った。
「照れてる顔が可愛くて呼んだ。どんな反応するかと思って電話した。頭も撫でた。抱きしめた。」
赤葦君は続ける。
「最初はいい人、それだけだった。でも、好きになっちゃんだ。もう誤魔化せない。誰かに取られたくない。例えそれが、すごく性格がいい人だろうと。」
多分、それは先ほどの人のことを言っているのだろう。山中先輩はいい人だと思う。凄くいい人。
「詳しく説明なんてできないよ。好きになることに、理由なんていらないんじゃない?好きだと思ってしまったんだ。認めたくなかったけど、本気で、君が好き。」
「・・・それは、」
「嘘なんかじゃない。いい加減理解して。」
「嘘の、」
「2人きりで、誰もいないのに嘘なんてつかない。俺は、少なくとも。」
ーーー好き。
何度も何度も頭の中を過った言葉。
胸が苦しくて、張り裂けそうで、伝えたくて。
でも好きな人がいる彼に、言ったら重荷になるからって。
「電話で聞いたね。好きな人いるのかって。」
「・・・うん。」
「今目の前にいるよ。この関係を早く終わらせようとしてる、女の子が。」
「それは・・・」
「いいよ、終わらせよう。この関係。」
「え」
「俺の気持ちは言ったから。振るなら今思い切り振って。」
それだけ言って彼は口を閉ざした。
終わる?私の答え次第で?
もう、終わるの?
「わ、・・わたし、」
「・・・うん。」
ーあなたが好き。
簡単なのに出てこない。
代わりに出たのは、彼を困らせてばかりの、涙だけ。ひっ、と小さく嗚咽が出る。
「わたし・・・っ」
すき、・・・好き、・・・大好き。
喉をつっかえて出てこない。
終わりなんて嫌だ、
私だって、終わらせたくないのに。
「・・・わかった。」
もう、いいよ。
小さい声で彼は言った。
「あ、」
「やっぱり俺は君を困らせることしかできないみたいだから。」
「ちが、」
「・・・帰るよ。」
最後に彼はそう答えて、一歩ずつ後ろへ下がって行く。とっさに腕を掴んで、引っ張った。
「まっ・・・?!」
「あぶなっ!」
引いた力が強かったのか、後ろへ身体が下がって行く。玄関の段差に足をぶつけて、そのまま倒れて行くのがわかった。
「・・・っ、」
「・・っぁ。危ないだろ!怪我したらどうすんの!」
想像した痛みはなく、頭を抑えられているのがわかった。
気がつけば赤葦君は私の下にいて、床に倒れていた。
とっさに庇ってくれたんだろう。
「い、いかないで。」
「守れたからいいけど、頭打ってたらどうすんだよ。」
慌てて彼の上から退く。
「ごめんなさい。」
「・・・怪我は?」
「・・・ごめんなさい。」
「宇多川さん。」
「ごめんっ・・・」
ちがう。
謝りたいんじゃない。
こんなこと言いたいんじゃない。
「・・・すき、」
やっとの事で絞り出した言葉。
力が抜けて座り込む。
「すき。っ好き。」
嗚咽を交えながらに何度も言った。
「・・・宇多川さん、」
「こんなに優しくされて、
好きにならないわけないじゃん!」
撫でられた時の感触も、抱きしめられた時の温もりも。全部。
全部私を狂わせる。
高鳴る鼓動と、認めたくない気持ちと。
全部が混ざって、好きなんだ。
「よかった。」
身体が引き寄せられる。
彼に、抱きしめられる。
「っわたしと、」
「うん。」
彼の背中に腕を回す。
少し止まってから、強く抱きしめ返される。
「っ・・・付き合って・・・くださ、」
「・・・喜んで。」
少し身体が離れて、彼と目が合った。
秋、
優しい声で呼ばれる。
ああ。これを望んでいたのだろうか。
涙が溢れて視界が歪む。
優しく笑う彼の顔が見えなくなる。
「、また泣く。」
「っ。ごめんなさい。」
困った顔、でも優しい顔。
優しい手つきで頬に触れられる。
恥ずかしくて目を瞑る。
きっと、
この先はー・・
ねことわたし
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