だって、今でも好きなんだ。


お名前変換
─────────────────




私の幼馴染である白石蔵ノ介は、先程からずっとこの調子だった。


「なあ、なんで怒ってるん?教えてや」


「だっから、私は怒ってなんかないて!」


私をじっと見つめ、目を合わせようとしてくる蔵ノ介に思わず口調が荒くなる。
当然だろう!私になんの連絡も入れず、いきなり高校の校舎まで来たのだから。
四天宝寺の中高はすぐ隣に校舎がある。が、それぞれの校舎がそれなりに広大なことと、ちょうど真反対に校門があるお陰で行き来するのには少々時間がかかる。
お昼休みとはいえ、わざわざこちらの校舎、しかも私のクラスまで直々にお出ましとは。
幸いにも、私のクラスの次の時間は体育だった。まだ急がなくては行けない時間ではなかったが、委員会の集まりでお昼ご飯を食べるのが少々遅くなった私しか教室に残っていなかった。だが、これもたまたまだ。その類稀なる容姿でどこに行っても注目を集める蔵ノ介だが、次の時間も普通の授業で、大勢が教室にいたらどうするつもりだったのだろうか。
蔵ノ介の学年より一つ上の私たちの学年の人たちの中で、中学から四天宝寺にいる人で蔵ノ介の存在を知らない人はいないだろう。でも、高校から四天宝寺に入ってくる人も少なくないから、大雑把に言ってクラスの半分は蔵ノ介を知らない、と言うことになる。
まあ、いきなり高校の校舎に現れたら普通は大騒ぎだという訳だ。……


前述したように、私は今日の昼休みは委員会があったために、教室に帰ってきたのはつい先程だ。そして、教室の扉がいきなり開いたと思えば、蔵ノ介が顔を覗かせたのも。ほんの5分前のことだ。まるで私が委員会であることを知っていたかのようなベストタイミングである。
状況が理解できなくて形容しがたい顔になっていただろう私に、蔵ノ介が一番最初にかけた言葉は「なんや名前、怒っとるん?」だった。


(いや阿保か!……阿保か!)


心の中で二度もツッコミを入れたのはついさっきのこと。
私たちは10年来のそこそこ長い付き合いだけれど、蔵ノ介のやることは時々わからないことがある、だなんて。しれっとこの教室に居座っている、無駄に整った蔵ノ介の顔を横目で見ながら思った。
本当になんなんだこの男は。
私の気も知らずに……だなんて、私が言えたことではないのだけれど。


「もしかして、名前が怒っとるの……俺が他の女の子からチョコレートいっぱいもらったからなん?」


「……なんでッ!!それで私が怒らんとあかんねん!」


蔵ノ介はおそらく冗談のつもりなのだろうが、今の問答には関係ないにしても、そういった感情がないとも言い切れないのもあり、強めの口調で言い返すことになってしまった。まあ、私はそれに対して怒るわけではないのだが。だって、私は蔵ノ介のただの幼馴染だから。
中学に入ってからかなり男性らしく成長したとはいえ、幼い頃から蔵ノ介は本当に整った容姿だったことは間違いない。


「ま、それはせやな」


昔からそうだった。
毎年のこの時期……そう、バレンタインデーには、天国を通り越して最早地獄といっても過言ではないほどの量のチョコレートをこの男は貰ってくるのだ。
でも、蔵ノ介の容姿しか見ずにキャーキャー言ってる子は勿体ない。……蔵ノ介のいいところ、なんて容姿以外にも沢山あるのに。
面倒見がいいところ、怒るときにはちゃんと怒れるところ。部員のことを一番に考えているけれど、自分の練習も怠らないところ……
小さく溜息をつく。こんなことを考えているのが恥ずかしくなって、こほん、とわざとらしく咳払いをして蔵ノ介に向き合った。



「それはそうと……ほんまは何しにきたん?まさか何もないのにここまで来たわけやないやろ」


「それはまあ……置いといて。それよりこれ、食べへん?一緒に食べよ思って持って来てん」


とにもかくにも蔵ノ介がここにいる理由を聞かなければと、私の所まで来た本当の理由を問いただそうとしたものの、その話題はそのままはぐらかされた。蔵ノ介が机に置いたのは、紙袋いっぱいに詰め込まれたチョコレート。
食べ物で釣ろうとしても私ははぐらかされたことに気づいてるからな。……
そのチョコレートは全て蔵ノ介が先日女の子から頂いたもので、何の嫌がらせかわからないのだけれど、総数がこの紙袋5個分ぐらいはあるチョコレートを1人では消費できないからと毎年私の元へと持ってくるのだ。全く悪びれる様子のない蔵ノ介の笑顔に断れもせずいつも受け取ってしまうのであった。消費しきれない、というのは間違いないだろうし。
謙也とか光とかのテニス部にも一緒に食べて貰えばいいのにと思うが、年頃の男の子たちにはバレンタインの話題はもしかしたらシビアな問題なのかもしれない。
それでも、蔵ノ介のこの行動はどうかと思う。毎年毎年ぎっしり詰め込まれたこのチョコレートたちの中には少なからず本命らしきものがあって、手紙が付いていたり、などである。流石にそれは蔵ノ介に押し付けるけれど、蔵ノ介は決まって微妙な顔をするのだ。
……知ってる。蔵ノ介がバレンタインみたいなイベントが得意じゃないってことは。でも、あまり蔵ノ介と面識がなくてもその子なりに想いを込めて作ったチョコレートなのだから、流石に蔵ノ介が食べてあげてほしい。

私も、そうして作ったチョコレートは蔵ノ介に食べてほしいと思っているから。

そう。私は私で、毎年懲りずに蔵ノ介にチョコレートを渡し続けていた。私たちは家族ぐるみの付き合いだし、テニス部レギュラーとも仲が良かったから、蔵ノ介に渡すことにいくらでも理由は作れたけど、私が毎年蔵ノ介に渡しているのは、紛れもない本命チョコであった。

勿論、そのことを蔵ノ介は知らない。
というより、今更言えるわけがなかった。

蔵ノ介がいちいち微妙な顔をするごとにに、その子には気がないんだと思って少し喜んでしまう私はダメな人間でしょうか、神様。
いくら数が多くて自分では消費しきれないからとはいえ、蔵ノ介宛のチョコレートが知らない女の手元にわたっているだなんて本人が知ったら発狂ものだろうな、と思いながら可愛らしい包み紙をまた1つ開いた。蔵ノ介に言われるがまま食べている私も私だ。同罪である。


「っん、!!おいしい……!このブラウニーめちゃ最高や!」


包み紙から丁寧に剥がして、口に入れる。と、ブラウニーから途端に広がる甘美なチョコレートの味。胡桃のカリッとした食感が絶妙にマッチして、……これは非常に美味だ。思わず頬に手を添えてしまう程に。


「ん?」


「ほらっ、蔵ノ介も食べてみ
めっちゃ美味しいから!」


首を傾げる蔵ノ介の口に、そのブラウニーを半ば無理やり押し込んだ。
ゆっくり口を動かす蔵ノ介を期待を込めた目で見つめる。


「ん……まあ、美味いな」


「なんやその反応」


「いや、名前が作ってくれたブラウニーのほうが美味かったなあとおもて」


「え」


美味しい、と口では言うものの、そこまで表情が変わらない蔵ノ介に問いかければ、返ってきたのはそんな言葉だった。
今更ながら、私が今年作ったのもブラウニーだったなと思い出す。
おそらく向こうは悪気なしに素で言ったんだろうが、こちらにしてみればその言葉は素直に嬉しいものだった。
まあ、そもそも私はお菓子作りには自信があるのだけれど。それでも、こんなにも美味しいものより美味しかったと蔵ノ介にそう言ってもらえるのは光栄だった。恥を忍んで作った甲斐があるってものだ。
……それと同時に、私が渡したチョコレートはちゃんと食べてくれたんだということもわかって、なんだか心が落ち着かない。心臓がどくん、と跳ねた。


「なんやその反応」


「っいや、……別に」


「……ふーん?」


さっきとは逆に、その言葉を発したのは蔵ノ介だった。
顔が熱い。蔵ノ介に見えないように咄嗟に顔を手で隠したが、……バレている、これは。
ふーん、というその声がいつもより少し低くどこか扇情的で、顔の火照りが増す。こんなことを蔵ノ介に感じている私も恥ずかしい。恥ずかしすぎる。


「……、」


「蔵ノ介っこれ、本命っぽい!!!」


その声のままで私の名前を呼ぼうとした蔵ノ介に、私の手元にあった本命らしきチョコレートをおしつけた。
蔵ノ介は一瞬だけ驚いたように目を見開き、不満そうに眉を少し寄せたが、あのまま名前を呼ばれていたら──
あの日、私が知らないふりをした意味が無くなってしまう、だなんて自分勝手が過ぎることを心の奥深くで考えて、また蔵ノ介に笑いかけた。


「ほら、どうしたん?
ちゃんと食べたりーや」


「ちゃうちゃう……ちゃうん」


手に持ったまま開けようとせず、心なしか顔色が悪く見える蔵ノ介に呼びかければ、蔵ノ介はちゃう、と繰り返し首を降る。その様子に思わず溜息をついた。


「何がちゃうねん」


「俺、こないな子は好きやないねん、知っとるやろ?」


「……はい?」


「せやから、……逆ナンしてくるような子は苦手やねんて」


再び蔵ノ介から私に手渡されたそのチョコレートに記された女の子の名前を見て、ふと気づいた。


「あ、海のときの……」


「学校近くやったらしいわ、出待ちされてること多くてなあ」


夏休み、四天宝寺のテニス部レギュラーと私で海に行ったとき、蔵ノ介に声をかけてきた複数の女の子のうちの一人の名前だった。私もよく覚えていたものだ。
まあ、そんなことは蔵ノ介にとっては日常茶飯事である。その時は適当に対応していたのだが、学校も近くだったこともあり、事あるごとに校門近くで蔵ノ介を待っていたらしい。


「全然、そんな子には見えへんかったんに……可愛かったし、」


思わずそう呟いた。その子……正確にはその子たち、はいかにも派手という訳ではなく、むしろ蔵ノ介が好きそうなタイプだった記憶だ。
はああ、と長い溜息がでる。
自分で言っておいてダメージを受けてしまって、嫌気がさした。今日は溜息が多い日だ。


「人は外見ちゃうで、名前」


「お前が言うか!」


「俺はな」


多分、私みたいな普通の人が言ったのなら納得できるのだろう。蔵ノ介が言うと駄目だ。嫌味にしか聞こえない。思わずツッコミをいれてしまった。
そんなことはおかまいなしというように、蔵ノ介はじっと私を見つめる。
どうかしたのだろうかと思っていると、ぐっと顔を近づけられた。


「っ!?」


「あんな子らより名前のほうがかわええと思うんやけど?」


すぐに理解ができなかった。頭を撫でられるような感覚がした後、蔵ノ介の手には私の髪の毛の一束があって、蔵ノ介はそれの匂いを嗅いで……嗅いで!?


「く、くら、……っ!?!」


「それに……俺は名前の匂いが好きや、俺に寄ってくるんみんな香水臭いねん」


蔵ノ介どうしたん、らしくないやん……と、言いたかったことの10%も口に出すことはできなかった。
それに、彼が発した言葉。
蔵ノ介は香水嫌いである、というのも、知らなかったわけではない。バレンタインデーは例外だが、普段蔵ノ介に声を掛けてくる女の子はみんなキラキラしていて、中学生、また高校生の中でも今時な子達ばかりで、近くにいてわかるくらいには香水の香りを漂わせていた。先ほども言っていたように蔵ノ介は逆ナンされるのが大の苦手だから、その逆ナンしてくる子に共通している香水、というものが嫌いになるのも無理はなかった。
問題はその前だ。
私も人並みに身だしなみには気を遣っているつもりではあったが、バイトをしておらず、日々お小遣いで生きている私にとっては、まだ香水にまで手を出す余裕はなかった。興味がなかったわけじゃない。……でも。

(それって、どういう、)

蔵ノ介の口から発されたかわいい、と好き、という言葉が忘れられなかった。
あくまでも蔵ノ介が好きだと言ったのは私の匂いである。私のことではない。
可愛いと言ったのも、いわゆるじゃれあいのうちではないだろうか。普段、蔵ノ介が冗談でもそんなことを言わないからこちらが勝手に戸惑ってしまっているだけで。……そうだとしても、いきなり蔵ノ介がそう口に出した意図はわからなかった。
頭で色々考えているうちにいつのまにか距離をさらに詰められていて、気付いたときには蔵ノ介の吐息が感じられる程に密着していた。


「ちょっ、蔵ノ介!?近ッ……!!」


慌てて顔全体を手で覆った。焦りと羞恥心で恐ろしいくらいに心臓が跳ねた。何にしても今の私の顔は真っ赤っかだろう。
隠しきれていないのはわかっている。これだけ近くにいるのだから、蔵ノ介はとうの昔に気づいているだろう。それでもなお見られたくないのは、一種の意地、というやつだろうか。
せめてもの抵抗として口で何か文句を言おうと思っても、至近距離に感じられる蔵ノ介の感覚と、匂いと、耳をかする吐息がそれを許さない。


「蔵、」


「名前」


「っ、!」


名前を呼ぼうとするのを妨げたのはさっきとは逆に蔵ノ介で、いつもより心なしか低い声で名前を呼ばれたからかなんなのか。心臓と一緒に、びくんと体が跳ねた。


「……名前の本命って、誰なん?」


「っ!?!?」


蔵ノ介がゆっくりと言ったその言葉。驚きのあまり、目を蔵ノ介の方へ向けてしまって、ばっちりと目が合った。
慌てて目を逸らして顔を手で隠す。


「なあ、……教えてや」


「なんで、そのこと知って……っ」


「謙也がゆーとってん」


「謙也がっ!?」


謙也め……!!!!
ギリィ、と音が出そうなくらい歯を食いしばった。
謙也は蔵ノ介と仲がいい。……そして、私がいつも蔵ノ介について相談するのも謙也だった。
四天宝寺のみんなとはそれぞれ同じくらいに仲がいいと思うけれど、恋愛ごととなると専ら謙也を頼ってしまうのだ。
蔵ノ介と同じクラスだし、接点も多いし、なにより光という可愛い可愛い恋人がいるのだから。謙也は人が良いし、相談しやすいというのもある。
その話をしたのはついこの間会った時だ。言わずもがな本命というのは蔵ノ介のことなのだけれど、なんでよりにもよって本人に言ってしまったんだ!
驚きと憎しみと……その他もろもろでわなわなと身体が震えた。
……絶対、捕まえて問いただしたる。


「その反応はほんまみたいやなあ……今日は名前が白状するまで帰らへんで?」


「あっ、」


私が復讐の炎に燃える中、蔵ノ介は少し眉を寄せ、真剣な様子でそう言った。しまった、と思ってももう遅い。
本名という言葉を聞いて動揺してしまった時点で、明確な本命がいるということにその通りですと言ったようなものだった。次に私が考えるべきはどうこの危機を乗り切るか、だ。
それにしても、この状況は本当にどうしたものか。言葉だけだと冷静に見えるが全くそんなことはない。顔を見られたくなくて何をすることもできず、絶賛顔を手で覆ったままフリーズ中である。
目で見なくても耳に降りかかる吐息でまだ密着していることがわかって、なお恥ずかしい。こんなの、どうしろというんだ。


「誰なん?言ってや」


「ちゃ……っ、ちゃうから!」


「なーにがちゃうねん……そんな顔して」


「っ!?」


見えてたのか、と反射的に顔を上げてしまえば間近に蔵ノ介の顔があって、顔から離れた両手をそのままがっしり掴まれた。これで顔を隠す事ができなくなり、あたふたと慌てていると、ばっちりと目が再びあってしまう。さっきのように逸らそうとするが、それは叶わなかった。蔵ノ介のひどく真剣な様子が私に逃げることを許してくれなかった。


「目、そらすな。……誰や」


「……っっ」


眉を寄せた蔵ノ介の鋭い眼差しが私の瞳を射抜く。聞いたこともないような、先程よりさらに低い声と、いつもとはどこか違う瞳。
まさか、これって……?
そんなことを考える暇もなく、見たことがない蔵ノ介の姿に支配されたように身体が動かない。操られるように唇が開いた。


「……くら、」


「白石ー!!!ちゃんとやっとるかー??」


「「!?!?」」


と、その時。聞き慣れた声が静寂を破った。蔵ノ介も驚いたようで顔の距離が少し離れる。二人して音のした方を見れば、案の定、だった。
なんで今なんだろうか。
彼には全て知られてるからこそ、なお恥ずかしかった。


「おっ!?……とお、」


「謙也っ!?」


「な、なんか邪魔してもーたみたいやな……んじゃ俺はこれで」


「ちょっっとまったァ!」


なんで蔵ノ介だけではなく謙也までここにいるんだというツッコミはひとまず置いておいて。私たちの今の状態を見て何か察したらしく、そのまま教室を出て行こうとした謙也を必死で呼び止めた。
案外あっさり蔵ノ介の腕から抜けられて拍子抜けする。蔵ノ介も驚いていたから、腕を掴む力が一瞬弱まったおかげかもしれない。
私の大声で後ずさった謙也の元まで大股で歩き、腕をぐわしっと掴んで、教室の中まで引き摺り込んだ。


「謙也……覚悟しい」


「えっ、ちょ……なんでやねん!」


「ほんま先輩らうるさいっすわ」


狼狽える謙也を無理やり椅子に座らせると、背後から聞こえるまたもや聞き慣れた声。


「光っ!?!?」


「名前さん、お久しぶりっす」


嬉々として振り向くと、やはり光だ。
こちらに軽くお辞儀をしてくれる姿はいつも通り可愛い。光は私の中で一番可愛い後輩と言って間違いなかった。


「なんや、謙也だけとちゃうくて財前まで……」


立ち上がった蔵ノ介が溜息をついた。その姿に先ほどのことが思い出されて、少し顔があつくなる。
私の本命だとかどうとかを蔵ノ介に告げ口したことは思いっきり根に持っているが、あの状況を打破してくれたことは謙也に感謝したい。


「いやあ、どうなってるかなておもて」


「それで、わざわざ光まで連れてきたんか?」


にこにこといつもの笑顔で答える謙也は通常運転で、なんだか色々と私が馬鹿らしく感じた。
思わず口から出たその言葉は、思い通りにいかないことへの八つ当たりではない……多分。


「なんやなんや、機嫌悪いなあ」


「……謙也」


こいつ、わかってないな……!
思わず歯を食いしばりそうになって、ぐっと握りこぶしを強く握って耐えた。
悪気があった訳ではないだろう、だって謙也はいい奴だ、とても。
最も、今の状況では悪気がないからこそ、なお悪質でもあるのだが。
即座に光に視線を飛ばして、お願い、というように小さくジェスチャーをした。


「……白石部長、ちょっと自販機行くの付き合うてくれません?」


「俺か?……まあ、ええけど」


光はそれだけでちゃんと私のお願いを理解してくれたようで、蔵ノ介に呼びかけ、徐に教室の外へ歩き出した。
蔵ノ介は自分が光に呼ばれたことに戸惑っているとような反応だったが、素直に着いていってくれたようだ。


「ああ……白石か?」


「……うん」


謙也も流石に察したらしい。
こちらに体を向けた謙也は、さっきのはなんやってん、と私に問いかけた。


「本命……」


「本命?」


────


数分後。私が一通り話を終えると、謙也はにやけるのが止められないというように緩んだ口元でこう言った。


「はよお前らくっつき」


「!?」


ぼんっと効果音が鳴りそうなほどに一気に赤面した自覚がある。


「お前ら見てるとなあ……なんか身体中むずがゆくなってくんねん
それに、本命が誰か聞くまでほんまに帰らへんであいつ。覚悟決め、な?」

誰のせいだと!!!!!!!
叫びたくなるのを必死で抑えるかわりに謙也の肩をばしばしと叩いた。


「謙也のあほあほあほ……ほんまあほ……」


「ちょっ、いた、名前!すまんて!」


「ほんま何で言ってしまってん……」


次に出た私の右手が力なく謙也の肩に伸びて、それは触れることなく宙を仰いだ。
俯きながらそう呟く。呟いたというより心の声が漏れた、が正しいのだが。


「でも、好きやろ?」


「……好き」


ふと訪れた沈黙が続く。謙也も私の返答についてか考えごとをしているようで、私といえば、先程の蔵ノ介の余裕なさげな顔が脳裏に焼き付いて離れなかった。


「なんでそんな頑なに拒否するねん」


「……っ」


顔をあげた謙也は私の目を真っ直ぐに見て問いかけた。言葉に詰まる。
私の瞳の奥には、あのときのことが鮮明に映っていた。


────


それは、おおよそ一年前のことだった。


「蔵ノ介、はよ!こっちこっち!」


「ちょおまってやあ……
まったく、はしゃぎすぎとちゃう?」


蔵ノ介の手を引っ張り、立ち入り禁止の看板をくぐって屋上へ出た。
胸には花飾り。そして、私のもう片方の手には卒業証書。
そう、あれは卒業式の日のことだった。


「だって、最後やねんで……一緒にこの夕焼け、同じ学校の生徒として見れんのは」


今度は私が手を引いてもらって、給水タンクの上に2人並んで座る。
空には真っ赤な夕焼けが広がっていて、午前中の清々しい空の下での卒業式の雰囲気はもう残っていなかった。
はしゃぐ私にため息をついた蔵ノ介にゆっくりと言葉を紡ぐ。柄にもなくしんみりとした様子で物を言う私を蔵ノ介はまじまじと見つめた。


「……なんやいきなり」


「別に!!ちょっと感傷に浸ってただけですー」


「別に名前が外部の高校に行くわけやあらへんやん、来年なったらまた一緒の学校や」


「なんや蔵ノ介わかってへんなあ」


まだ涙の跡が残る頬に手で触れる。
少し、この屋上で過ごした日々を思い出していた。
卒業式の後、すぐにテニス部を訪ねた。訪ねた……というよりは、みんなが来てくれた、と言った方が正しいのかもしれない。卒業式の直後で感極まっていたのか、不覚にも泣いてしまった私に。彼らは笑いながら口々に「卒業おめでとう」と言った。

私がまだ四天宝寺中学に在学していた頃、この屋上が学年の違うみんなと私の集合場所だった。
私たちはたびたびこの屋上に忍び込んでは、みんなでご飯を食べたり、試合の反省会をしたり、全校朝礼をサボったり、……きっと今もそうなのだろう。兎にも角にも、この屋上はテニス部のみんなと私の思い出の場所だったのだ。
私は女子テニス部の選手でも、男子テニス部のマネージャーでもなかった。だからこそ、少し違う視点からアドバイスができたのだと思う。むしろ、私がこれだけテニス部と仲がいいのにテニス部に入らなかった理由はそこにある。その他多数と同じ視点からだと、効果的なアドバイスができないと思ったのだ。
だからなおさら、学年が違う私たちは普段学校内で会うことはほとんどなかった。故に、この屋上は私とテニス部を繋いでいたと言っても過言ではなかったのだ。
それに加えて、ここには私と蔵ノ介以外誰も知らないであろう絶景ポイントがあった。それが、この給水タンクの上だ。ここなら四天宝寺中学の校舎を全て見下ろす事ができた。この辺り一帯で一番、夕陽に近い場所。ここが私のお気に入りの場所だった。蔵ノ介の入学式。文化祭の後夜祭。1ヶ月に渡る大喧嘩に終止符を打ったのもここだった。何かあれば2人で必ずここに来て、蔵ノ介の髪が夕焼けに溶けるのを眺めながら、暗くなるまで何時間も話をした。
私がこの学校から去る前に、どうしても2人で来たかった。だから無理を言って、その日の部活を早く終えてもらったのである。そもそも卒業式だったので、その日の練習は自主練に近い感じだったみたいだけれど。


「蔵ノ介、今までおおきに。
みんなと、……蔵ノ介と一緒に過ごせて、楽しかった」


蔵ノ介の肩にもたれかかるようにして、そう告げた。蔵ノ介の顔は見えない。


好きだった。中学の間も、その前からずっと、ずっと。
学年という壁はあったが、確かに私たちは仲が良かった。
蔵ノ介は昔から、どこに居ても、どこに行っても女の子に囲まれることになり戸惑っていたけれど、それを側から見ていた私は蔵ノ介にとって、勝手に特別なんだと思っていた。

でも、その特別が、蔵ノ介にとって良い意味ではなかったことに気づいた。
私が中2で、蔵ノ介が中1の時のある日。私は蔵ノ介のことが好きだという先輩何人かに呼び出された。
そういった類いの呼び出しは過去にも何度もあったし、特に蔵ノ介が中学に入学してからの1年間はうんざりするくらい多かった。別に大したことはされないし、適当にあしらうことは慣れているのでさっさと相手をして戻ろうと思っていた。行かないという選択肢はなかった。面倒なことは先に処理しておいたほうが後々楽だからだ。
でも、その時投げかけられた言葉は思いの外深く、私の心を抉るものだったのだ。


「あんたが白石くんの邪魔をしているんやないの!?」


それまで多種多様な罵倒を受けたことはあったけれど、別に気にならなかった。
でもその言葉だけ、は頭に残って消えることがなかったのだ。
私がいることで、もしかしたら蔵ノ介の色々な可能性を潰しているのではないだろうかと、そんな考えが頭をよぎった。
そうだ。蔵ノ介がもし、……好きな人ができて、それが私以外だったら。私の存在は邪魔だろう。私たちは家族ぐるみの付き合いだから、下手に疎遠にすると面倒なことにもなる。
その時は考えすぎなのかもしれない、とそれで片付けた。蔵ノ介が私のことで自我を失うだなんて考えられなかったし、蔵ノ介にとっての私がそこまで大きな影響力を持っているわけでもないだろう。……


その矢先、蔵ノ介は事故にあった。
正確には、車に轢かれかけた私を庇った蔵ノ介が……というもので、幸い車とはかすった程度で軽い捻挫だった。それに加えて、秋の新人戦が終わった直後で試合も直近にはなかったために、大事にはならなかった。それでも、部活は2週間休まなければならなくなり、完全な復帰までには1ヶ月の期間を要した。
蔵ノ介は私のせいじゃないと言ったが、その怪我は間違いなく私のせいだった。その実力よろしくテニスが大好きで、毎日の練習を怠らない彼が1ヶ月も満足にテニスができないのはたいそう辛かっただろう。
これでも、あの時は運がよかったのだ。私を助けたことによってテニスができない身体になってしまっていたかもしれないし、テニスができないどころか、最悪の場合も想定できた。
私が、蔵ノ介を……邪魔している。
この言葉が頭で何度も反響して、私を責め立てた。

必要以上に蔵ノ介に近づいては駄目だ。
これが私が出した答えだった。
でも、それは不可能に近かったのだ。今更この想いをなかったことにするなんて、……できなかった。
だから、最大限の努力はしようとした。蔵ノ介には気づかれないように少しずつ、少しずつ後ろに下がろう。密かに、できるだけ気づかれないように彼を想っていよう、と。──



────



「……好きや」


それはもう、今までに見たことがないほどに美しい夕焼けで。
静かに屋上に響いた蔵ノ介の言葉は、私が最も望み、そして恐れていたものだった。


「冗談、やろ?」


静かに首を振る蔵ノ介のその真剣な瞳に、私は拙い笑みを浮かべることしかできなかった。少しでも言葉を発したら、泣いてしまいそうだったから。
やっぱり、駄目だった。隠しきれていなかった。蔵ノ介も、私が蔵ノ介に抱く感情が何なのかわかっていたのだ。……
私も、わかっていた。蔵ノ介はそんな悪趣味な冗談なんて言うはずないから。
にわかには信じ難いことだったが、私が蔵ノ介と出会ってからの10年間、ずっと求めていた言葉であることには間違いなかった。


「……そろそろ学校、締まってまうで」


でも私に、その言葉に答える勇気はまだなかった。
涙が溢れそうになるのを必死で堪え、何事もなかったかのように作り笑いを浮かべた。そうして蔵ノ介に背を向けるように、すとんと地面に飛び降りた。長い長い沈黙を打ち破った私の声は震えていた。


「返事、まっとるから。……ずっと」


上から降りかかる蔵ノ介の声に頷くことはできなかった。
ああ、私ってやつは。
なんて意気地なしなんだろうか。
どうか忘れてくれますように。今日のことも、私の想いも、全部。明日になったら元通りになっていますように。
こらえきれずに頬をつたって落ちた一粒の涙を見られていませんように。


「帰ろか」


伸びをして先を歩いていく蔵ノ介の後ろ姿を追いかけようとしたが、すぐにはできなかった。胸がくるしくて、切なくて、……どうにかしゃくり上げそうなのを抑えて、無理やり涙を拭って。走って蔵ノ介を追いかけた。
後悔なんてしてはいけない。全部私が選んだことなのだから。私が蔵ノ介のことを踏みにじったんだ。
いっそのこと、嫌いになってほしい。嫌いにならせてほしい。蔵ノ介は優しいから、きっと今までと同じように接してくれるだろう。私たちの関係は元通りになるに違いない。

帰り道、最初に話を振ったのは蔵ノ介だった。蔵ノ介はまるで、先程のことなんてなかったように振る舞った。私の予想通りだった。今まで通り、2人で他愛もない話をして、笑いながら帰路に着いた。私の家の前まで来ても、話し足りないと言うように、毎日テニス部のみんなに会うことができなくなるのを残念がって少し話をして、いよいよ家に入ろうとしたその時。


「ほな、また……!」


蔵ノ介に背を向けて、玄関の扉を開けようと手を伸ばしたその手を捕まれ、振り向かされたのだ。


「……っ!?」


口に触れる、温かくて柔らかいもの。
それは一瞬だったけれど、確かにそのとき、私の唇に触れていたのは蔵ノ介のそれだった。どうにか抑えられたと思っていた感情が、その瞬間溢れ出してしまったのだ。この一瞬だけじゃなくて、永遠にその時が続いてほしいと、そう思わざるを得なかった。


「また、今度な」


蔵ノ介は呆然と立ち尽くす私の頭をぽんと撫でると、どこか切なげに微笑んだ。
その瞳に見入っているうちに蔵ノ介は背中を向けて歩き出していて、当の私はそのまま地面にへたり込んだ。


なかったことにしたのは私の方なのに、蔵ノ介の方が辛いはずなのに、私に後悔する権利なんてないはずなのに。両目からは大粒の涙がいくつもいくつも零れ落ちた。



────



ふと唇に指で触れる。
あの日からほどなくして私たちは会うことになったけれど、蔵ノ介の態度は以前と全く変わらなかった。それに酷く安心したのは、私があのときからまだ逃げ続けていたから。
それに、私が中学から高校に上がったことで、蔵ノ介と一緒にいる時間が今までよりぐんと減った。蔵ノ介は中学の集大成としてテニス部の活動に打ち込んでいたし、私は私で勉強に忙しかった。たまにテニス部のオフの日にいつものメンバーで遊びに行くこともあったが、みんなが居てくれたおかげで気まずい雰囲気になることはなく、蔵ノ介と二人きりになるのはそれこそ登校の時ぐらいだった。それでちょうどよかったのかもしれない。元来の私の望みのように、気付かれないように、少しずつ、距離を置くことができているはずだったのに。
何故だか切なかった。くるしかった。
蔵ノ介が二度とその話をすることはなかったけれど、それは私が返事をしないから?それとも、もうあの日のことは忘れてしまったから?
蔵ノ介の隣に恋人として立てる選択肢を消したのは私なのに、まだ諦めきれず、空虚な期待をしている。
そんな自分が見苦しくて、嫌になる。
記憶から消そうとどんなに頑張っても、あのときの唇の感触は1年経った今でも忘れることができなかった。
だって、今でも好きなんだ。
……でも、だからこそ。
その言葉に私は頷くことはできない。


「名前」


気づけば涙が一筋流れ落ちていて、私が考えていることを察した謙也が私の頭をがしがしと撫でる。それでリミッターが外れたかのように一気に涙が溢れ出した。惨めだ。全部、中途半端で。これならいっそ、はっきりと断ればよかったのに。それができなかったということは、私がまだ期待しているんだ。蔵ノ介が私を受け入れてくれていることに。私をまだ好きでいてくれることに。


「名前は自分勝手やなあ」


「……わかっとる」


「白石の気持ちはなんにも考えてへん」


「……!!」


「言ったんか?白石が名前は邪魔やって」


「言ってへん、言ってへんけど……っ」


「お前、今めっちゃダサいわ。下手な嘘つくぐらいやったら素直になったほうがましやっちゅーねん」


「っ……!」


謙也が強い口調でそう言った。謙也とも付き合いが長いが、こんな風に言うなんて珍しい。でも、謙也が怒っているわけではない事はわかった。口調とは裏腹に、声色は私を諭すように落ち着いていたからだ。
確かに、そうだ。謙也の言う通りだ。
蔵ノ介からはそんなこと一言も聞いていない。そもそも、謙也と光以外、私が悩むきっかけになった出来事を知らなかった。蔵ノ介はいつだって呼び出された私の行方を探してくれていて、あの日だって先輩に詰められていた私の居場所を見つけて助けてくれた。でも、私の心を引っ掻いたその言葉は聞いていなかっただろう。その時の蔵ノ介は息も荒く、走り回って探してくれた事がわかったからだ。……
そうだ。全ては私の勝手な思い込みだ。
そんなこと、わかっている。でも気にせずにはいられなかったのだ。実際に、その言葉通りのことも起こってしまったのだから。むしろ、彼女らには気づかせてくれてありがとうとお礼を言いたい。そうして身を引こうとするには、もうとっくに遅かったかもしれないけれど。
私が言葉に詰まったのを見て、謙也はさらに続けた。


「お前のことを待ち続けとる白石が可哀想でしゃあないわ。名前が返事せん事が白石の優しさ踏みにじっとんねん」


「……」


何も言えなかった。
蔵ノ介はやさしい。優しいから、あの時逃げた私を責めなかった。あの日から一度も話題に出すことすらしなかった。たいそうな喧嘩をしたこともあったけど、その時でさえそのことで私を責めなかった。
でも、その優しさが……辛い。私にとって、蔵ノ介の優しさは毒だ。私のやるべき事とは裏腹に、蔵ノ介の側に居たいと、そう願ってしまうから。


「いい加減、覚悟決めや」


「……あかんねん!私が蔵ノ介の側に居続けたら!!蔵ノ介がそう思ってへんくても!!」


──そろそろ、潮時かな。
謙也にも随分と迷惑をかけた。いつまでもこうしてみんなに甘えている訳にはいかない。
蔵ノ介との関係に、蔵ノ介の優しさに、私の弱さに。終止符を打たなければならないと、そう考えた。その時だった。


「なんであかんの?」


「!」


背後から聞こえたその声。誰のものかなんて言うまでもなかった。
驚いて謙也を見れば、目配せをされる。
なるほど、そういうことかと考えたものの、頭がこんがらがって全く理解ができなかった。……
今のを、聞かれてしまっただろうか。
声をかけられるまで全く気づかなかった。少し考えればわかることだが、聞かれていないわけがなかったのだ。
微かに聞こえた足音と共に私たちがいる机まで寄ってきた光を見て、確信する。
後ろは向けない。涙で濡れたこんな酷い顔、見せられたものじゃないから。


「ほな、後はお二人でごゆっくり」


「あっ、ちょ……!」


涙を必死に指で拭う私を見て謙也は笑うと席を立った。
帰ろか財前、と光に声をかけ、私たちに向かってひらひらと手を振る。


「そろそろ、素直になってもいいんやないですか」


「!」


戸惑いを隠せないまま光に視線をやっても、その口元には優しげな笑みがあって、そう優しく諭されるだけだった。私の静止の言葉も届かず、2人は教室を出て行く。
残された私たちの間に沈黙が続いた。


「名前」


「な、なに」


蔵ノ介が徐に私の名前を呼ぶ。柔らかい声だった。いつもの蔵ノ介のように。
慌てて返答したが、私は蔵ノ介とは打って変わって戸惑いを全く隠す事ができていなかった。先程まで泣いていたせいで声も震えていた。
けれと、そんなことを気にすることなく、蔵ノ介は私の名前を呼んだ。何度も……何度も。


「こっちむいてや……名前」


「……っ、無理……」


「なあ、名前」


一度は断ることができたけれど、駄目だった。そんな声で私を呼ぶなんて。耐えられなかった。気づいた時には、勝手に身体が動いていたのだ。


「……っっ!」


「名前」


振り向いた途端に痛いくらいに強く抱き締められて、蔵ノ介の温もりがじわじわと私の身体に広がった。
驚いて言葉も出ない私は、ただその温もりを受け入れることしかできなくて。
切なげな蔵ノ介の声にあの日のことが思い出されて、瞳が涙で潤むのを感じた。


「なんで自分が俺の邪魔になるなんて思ってん……」


その瞬間、ああ、聞かれてしまっていた、と確信する。
彼は気づいていたんだ、やっぱり。私の気持ちに。あの日から全く変わらない私の想いに。
普段の蔵ノ介とは明らかに違う、小さくて震えた声。彼もまた、私と同じなのかもしれない。


「蔵ノ介は知らんくてええよ……」


平然を装って返答する。……きっと、全くできていなかったのだろうけれど。
私の頬には堪えきれなかった数粒の涙が伝っていて、それに気づかれたくなかったから、顔を蔵ノ介の胸に埋めて静かに泣いた。


「俺、まだあのときの返事聞いてへんで」


「……っ、ごめ…….っ!」


大きな手が私の頭をゆっくり撫でる。口を開けば嗚咽が止まらなかった。
返事をしなかったことに対してか、告白に対してなのかどちらともとれない言葉を返せば、スッと離れていく温もり。名残惜しくて手を伸ばすが、その手は届かない。その代わりに、向き合った蔵ノ介の手が頬に添えられた。


「なんちゅう顔してんねん」


くしゃりと困ったように微笑んだ蔵ノ介の顔に、今まで必死で心の奥底に押し留めて、ずっとずっと我慢していたなにかが溢れ出した。
好き。蔵ノ介が、好きだ。これ以上なんてないと思うくらいに。


「すき……っ、すきで、ごめ…、ごめん……!」


途切れ途切れに伝えた言葉。
ずっと押さえつけていた。それは抑えきれていなかったかもしれないが、私は意図的にこの気持ちを封じ込めていた。蔵ノ介の前で素直になってはいけないと思っていた。
とめどなく溢れて止まらない涙が私の皮膚を濡らす。蔵ノ介が言うように、今の私はきっと酷い顔なのだろう。


「……やっと言ってくれたなあ」


その言葉と同時に再び強く抱き締められる。震える両手を蔵ノ介の背中にまわした。どくんどくんと心臓がうるさい。
今になって、言ってしまったことを自覚する。
隠そうと努力しても、結局、どうしようもなく好きだった。好きで好きで仕方がなかった。こんな気持ちを隠し通せるわけがなかったのだ。本当は最初からわかっていた。
私はなんて都合のいい人間なんだ、とほとんど機能していない頭の片隅で考える。自分勝手で、周りの人を振り回して、蔵ノ介にも迷惑をかけて。……
自分が弱いだけで。素直になれないだけで。覚悟を決める勇気がなかっただけで。


「誰が何言おうと関係あらへん、俺の側におってくれ、名前……好きなんや」


懇願するような声に静かに頷いた。
もう蔵ノ介への想いを隠す必要はなかった。ここまで来て、隠せるはずもなかったのだけれど。
顔を上げ、蔵ノ介の目をじっと見つめた。


「私も、好きや」


私の返答を聞き、らしくもなく頬を染めて笑った蔵ノ介の目も硝子玉みたいに透き通って見えた。


「あー、長かったわあ、ホンマ。」


しばらくの間幸せを噛み締めるようにしてお互い見つめ合っていたが、突然、蔵ノ介が緊張の糸が解けたように脱力し私にもたれかかった。そして、そう小さく呟いたのだ。
蔵ノ介と出会ってから10年が過ぎた。蔵ノ介と一緒に過ごした記憶がある頃からずっと、私は蔵ノ介のことが好きだった。
蔵ノ介と私がこうして結ばれるまで、10年かかったのだ。私たちの人生の半分以上だった。


「……待っとってくれておおきに、蔵ノ介」


今、こうして蔵ノ介と抱き合っていることが現実だとは到底思えなかったのだ。
今までの10年間、私が悩んできたことの全てが走馬灯のように思い返され、この瞬間が幸せすぎて恐怖さえ覚える。
自然と滲んだ涙が蔵ノ介の制服に染みを作った。


「ま、俺は名前を手に入れられるんやったらいつまでも待っとったやろけどなあ」


顔を上げた蔵ノ介が、そう言って眉を下げて笑う。頬に添えられた手が涙を拭って、そのまま上を向かされた。


「俺はずっと好きやった。名前と初めて会った時からずっと」


「……私も、」


唇に降りかかる吐息を感じて、静かに目を閉じた。







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