前編


お名前変換
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──淋しい朝を迎えるようになって久しい。

U-17日本代表合宿。この合宿に中学生代表として蔵ノ介や四天宝寺テニス部のみんなが呼ばれてからおおよそ1ヶ月が経とうとしていた。
もうすぐ師走の風が吹く。いよいよ朝の空気は肌寒く、外に出るのが億劫だ。
こんなにも学校に行くのに乗り気になれないのは、毎日会っていた蔵ノ介が居ないのも理由の一つだろう。と、少しばかりの恥ずかしさを覚えつつ、今朝引っ張り出してきたマフラーに鼻を埋めた。

「みんな、ちゃんとやってるんかな……」

ぽつりと独り言。白い吐息に乗って、みんなのところまで届いたらいいのに。
その合宿に呼ばれていなかったユウジが、合宿へ旅立った小春を追って、光を連れ合宿所に向かったのを見送ったのももう3週間ぐらい前のことだった。
向こうに着いて落ち着いたら連絡してと言っておいたのに、あれから一向に連絡が来ず、二人が無事であるのかどうかすらわからない状況だ。ユウジはともかく、光が私の言ったことを忘れるなんてことはないだろう。電波が通っていないところにいるのか、はたまた携帯を触る暇もないのか。無事だったら、私としてはそれでいいのだけれど。
連絡がないのはその二人だけではない。
謙也も、さらには蔵ノ介からも一向に連絡は来なかった。
ちゃんとやれているのだろうかと心配だったが、向こうが連絡をしてこない以上、私から連絡をするわけにはいかない。
やはり私などに連絡している場合ではないのだろう。それはすなわちみんなが一生懸命にテニスに打ち込んでいるということだから、それでいい。
私はみんなの、……蔵ノ介の活躍と、帰りをただ待つしかないと思っていた。


「おーおー、白石おらんなって寂しそうやのう」


「!」


四天宝寺高校の門をくぐろうとするのを遮るように、横からいかにも胡散臭い特徴的な声で呼び止められた、その瞬間までは。


「ようやってまっか、白石部長の彼女さん」


「オサムちゃん!!!」


オサムちゃんは言わずと知れた四天宝寺中学校男子テニス部の顧問であり、国語教師でもある。私も中学の頃にオサムちゃんが国語の担当教師だったことと、オサムちゃんが私と蔵ノ介やテニス部が仲が良かったことを知っているおかげで、中学時代からこの様に声をかけられることがしばしばあった記憶だ。


「……だから、彼女ちゃいます、」


「まあまあ、そんな細かいことはええねん」


否定し忘れたそのことを遅れて否定した。オサムちゃんは細かいことだと笑ったが、私としては全く細かくない問題だ。中学の頃から何度もこういったやりとりはしたのだが、オサムちゃんが私の言うことに聞く耳を持つことはなかった。みんながいる前で同じように呼ばれて、小さな修羅場になったこともある。
──と、少し思い返した。けしていい記憶ではないが、懐かしいものだ。
でも、思い出に耽っている場合ではない、今は。オサムちゃんがなぜここに居るのかが先だ。


「ほんで、わざわざ高校の方まで来てなんの用です?」


「せや、ちょっと頼まれてや」


手招きされ、少し不審に思いながらも、人に聞かれたらまずい話なのだろうか、と周囲に誰もいないことを確認し耳を寄せる。高校と中学は遠くはないが、少々歩かないといけない距離だ。中学と高校の敷地面積は同じぐらいだから、校門までの距離はどうしても長くなってしまう。気まぐれでこちらまで来たというわけではなさそうだった。


「白石になあ、俺の全財産預けてんねや。それ回収してきてえな」


「蔵ノ介に……って、今、U-17の合宿中ですけど?」


「そらそうや。合宿所までちょっくら行ってきてや」


「……はあ?」


思わず口から漏れた言葉。テニス部の顧問であるオサムちゃんが合宿のことを知らないはずもなく。そもそも色々抜きにしても合宿所は東京だ。ここは大阪。簡単に行って帰ってこれる場所ではない。


「白石おらんなって寂しかったやろ?ちょうどええがな、会いに行くついでに回収してきてくれたらええやんか」


「えっ、ちょ……、待ってください」


「俺は学校あるから行けへんねん、ほな頼んだで」


「あっ!?オサムちゃん、私まだ行くって言うてへん……っ」


ひらひらと手を振って歩き去るオサムちゃんを追いかけようとしたその時、一限目の授業の予鈴が鳴り響いた。一瞬このまま追いかけるか迷ったが、一限目は厳しい数学の先生だと言うことに気づいてしまって、これ以上追いかけるわけにはいかなかった。
どうしよう、これ、了承したってことになってない……!?


「私も普通に学校あるのにっ!?!」


私の叫び声は予鈴を掻き消すほどのものだった。
……確かに、蔵ノ介が合宿に行ってしまって寂しくなったのも、会いに行けるのなら会いに行きたいのも事実だけれど、
東京までの交通費も安くはないし、出発前に蔵ノ介に合宿所のおおまかな位置は聞いていたにしても、詳しい場所はわからない。そもそも、部外者が立ち入っていい場所なのだろうか?
考えれば考えるほど、そんな簡単に実行できることではない。それこそ、事を急ぐ目的がなければ。でも、この時の私は、オサムちゃんが言う"全財産"の重要性を甘く見過ぎていたかもしれない。

とりあえず、学校が終わった後にテニス部の方まで行ってみよう。
レギュラーのほとんどが件の合宿に行っているため、今は副部長である健二郎が部を引っ張っているはずだ。



────


「すまん、俺からも頼むわ!」


「ええ!?」


場所は変わって、テニス部のコート。予想通り健二郎が居たので、無理を言って今朝のことについての話をした。
と、話終わった後に帰ってきた健二郎の一言目がいきなりそれだったもので、驚いてしまった。


「あんまりでかい声で言えへんねんけどな、……」


「?」


「オサムちゃんが部費使い込んでもうて、今テニス部の財政危機なんや」


「……オサムちゃんが?」


健二郎は大げさなほどに声を顰めたが、確かに聞く限りあまり人聞きの良い話じゃなさそうだ。
てっきり賭け事のための新たな資金源が欲しいだけなのかな、と思っていた。あらかたの予想では。そろそろ年末ジャンボの季節でもあるから、それかなー、だなんて。


「それがな、ほんまやねんこれが。部員から集めた部費のことすっかり忘れて持って帰って、そのまま全部競馬ですってもうたらしいわ」


「アホちゃうか」


コンマ1秒で口から滑り落ちた言葉。とんでもない顧問だ。こんなのでうちのテニス部は大丈夫なのだろうか?そんな疑問を抱いても許されるのではないだろうか。流石に。


「そう、アホやねん、ほんでその金賄うのに、白石に預けた黄金のガントレットが必要やって」


「ああ、全財産って、そういうこと……」


蔵ノ介が左手に纏っている、黄金のガントレット。外出時はもちろんのこと、家にいる時でも上から包帯を巻いていたから、その存在を知る人は少ないだろう。つけ始めたばかりの頃に見せてもらったことがある。
確かに、あれだけの金塊を売ることができたなら、失われた部費を賄うのなんて造作もないことだろう。
それにしても、ずっと着けたままで過ごせという話だったはずだが、持って帰ってしまって大丈夫なのだろうか?所有者のオサムちゃんが言うんだから、問題ないか。


「俺も行きたいんやけど、白石がおらん今俺がうちのテニス部引っ張ったらなあかん!せやから、頼まれて欲しいねん、名前!」


勢いよく頭を下げる健二郎に、流石に申し訳なくなった。そうだ、確かに、今うちのテニス部を引っ張れるのは彼しかいない。席を外すわけにはいかないだろう。

 
「……わかった、私が行ってくる。」


「ほんまか!!」


「うん、でもオサムちゃんには強〜〜く言っといてな、今後こんなことはないようにって」


「当然や、ほんまに助かるわ!」


どうやら本当に私が行くしかなさそうだ。でも、今日は月曜日だ。明日から行くとすると、最低1日は学校を休まなければならないということになってしまう。そこだけあまり乗り気ではなかったのだけれど。どうしようか。 


「やっぱり、……早く回収せんとあかんよな?」


「……今週末な、練習試合の予定やねん、泊まりで、六角と」


「六角って……千葉まで!?」


「せや、バス代と、宿代と、まだ払えてへんねや」


そこまで切迫していない状況であれば、土日に行こうと思ったのだけれど。
それは、……まずい。中々まずい。六角は千葉の中学校だ。六角も強豪校であるし、折角、前々から練習試合の日程を組んでいるのに、こんな理由でそちらまで行けません、だなんて恥ずかしくて言えない。
ここまで聞いてやっと理解した。
なるほど、部費はおそらくその遠征のために集めたものなんだろう。遠征に参加する部員の数にもよるが、そもそもうちのテニス部は母数が多いから、部費はかなりの額になっただろう。
本当に何やってるんだ?あの顧問は。
でも、いよいよ私も腹を括らないといけなさそうだ。


「明日から行ったほうが良さそうやな」


「ほんまに、すまんな……」


「健二郎が謝る必要ないねん、パッと行ってパッと帰ってくるから!時間取らせてごめんな、健二郎は練習戻ったって、」


「おおきに、頼んだで!」


コートに戻っていく健二郎に手を振って、私は自宅へと足を向けた。
まずはお母さんに話さないと。あと、休んでる間のノートを写してもらえるように友達に頼んで、蔵ノ介に連絡……
どうしようか。連絡しても見てるかわからないし、連絡する必要はないかもしれない。どうせ合宿所にいることは間違いないのだから。



────



……既にお昼は過ぎてしまった。
朝から新幹線で大阪から東京まで3時間。在来線に乗り換えてさらに1時間ちょっと。そうして到着した山ノ奥駅。
昨日帰宅してすぐ、お母さんに明日から蔵ノ介に用があるので東京に行きたいと言ったら、呆気なく了承された。昔から、こういう時に蔵ノ介の名前を出したら一発で話が通る。
でも、心配はされた。確かに私は1人で遠出をしたことがないし、若干マシになったものの昔はしょっちゅう迷子になっていた経歴の持ち主だからだ。
山ノ奥駅まで来るのは割と順調だった。思った以上に時間がかかって疲れたが、ややこしい乗り換えにも迷わなかった。
しかし、しかしだ。山ノ奥駅に着いて、駅員さんに合宿所の場所を聞いたところ、徒歩だと40分かかるらしい。しかも、かなりの山道ときた。
駅員さんには「え?1人で来たの?」と不思議そうな顔をされ、たまたま居合わせたおじさんには「女の子が歩くには中々しんどいけどなあ」と心配され。
それでも私は行くしかないから、大丈夫ですと笑って駅を合宿所に向けて出発した。……


しんどい。否、かなりしんどい。
正直山道を舐めていた。普段から運動しているわけでもない私が道もあまりよくなくて、傾斜もある道を40分も歩き続けるなんて無理な話だったのかもしれない。道中見つけた長い階段に腰掛けてため息をついた。もう11月も後半なのにすごい汗だ。寒いと思って着込んできたのが仇になってしまったらしい。
身体が少し楽になるまでそうして休んで、そのまま階段を上がってみた。駅員さんには橋があるところまで歩いて、後は川に沿って行くだけだと言われたが、階段を上がってみるとそちらの方が先ほどまでの道よりいくらか歩きやすそうだった。
その道をずっと歩いていくと、森の中まで一本道が続いていて、少し躊躇したが森に入った。行き止まりだったら引き返そうと思ったからだ。でも、幸運なことに、私が歩いていた道はちゃんと合宿所に繋がる道だったらしい。しばらく森の中を歩いた先には、開けた場所があったのだ。……しかも。


「テニスコート……!!」


森を抜けた私の視界に映ったのは、何面ものテニスコートだった。思わず笑みが溢れた。
間違いない、ここはU-17の合宿所だろう。やっと辿り着いた。長かった──
安堵の溜息を吐く。まだ日があるうちに着けてよかった。


「なんや、誰もおらん……」


とりあえずは、誰かを探さなければいけない。そうして辺りをぐるりと見渡したが、そこに人の姿はなかった。首を傾げる。
この辺りはメインで使っているコートではないのだろうか?合宿所の広さ自体がわからないからどうしようも無い。それに、何のセキュリティもなく入れてしまったが、私みたいな部外者が勝手に歩き回っていいものだろうか?……
少々疑問に思いつつも、建物が見える方へ向かって、コート沿いを少し歩いてみることにした。


……そうしてしばらく歩いていると、やっと遠くに人影を見つけたのだ。黒いジャージを着た人が二人。


「すいませーん!!!」


声が届く距離ではないようだ。慌てて後ろを追いかける。合宿所に到着するまでの道のりで既に足は酷く疲れていたが、今はその事を気にしている場合ではなかった。
力を振り絞ってなんとか近づくと、そのうちの一人は見覚えのある後ろ姿だと言うことに気づく。でも、後ろ姿で断定はできなくて、恐る恐る声をかけた。


「あのっ!!」


「うおっ!?」


「やっぱり謙也やあ!!!!!」


「名前!?」


私の大声に驚いて振り向いたのは、間違いなく謙也だった。嬉しくて思わず叫ぶ。ここにきて初めて会ったのが知り合いだなんて、もしかしたら私は相当運がいいのかもしれない。
でも、振り向いた謙也の顔には、前にはなかった大きな切り傷が三本もできていて、思わず口に出してしまった。


「謙也、顔どうしたん?!大丈夫?」


「これはええんや、それよりお前、なんでこんなとこおんねん!」


「それは……」


当然の疑問だった。正直に言うか迷う。謙也の傷を見るに、相当厳しい練習だったらしい。かなり大きなその傷を、何ともないものだと言えるほどには。
やはり大変なんだろう。彼らにあまりテニス部のことで心配をかけたくはない。……


「えーと、ちょっと蔵ノ介に用あって」


「はあ?白石?」


「謙也さん、カノジョっすか?」


オサムちゃんのことは今は言わないでおくことにした。必要に迫られたら言うことにしよう。例えば、蔵ノ介がガントレットを渡すのを渋った時とか。
と、謙也が首を傾げたのと同時に、謙也の横にいた彼が口を開いた。思わず謙也と顔を見合わせる。私が目蓋をぱちぱちと瞬かせたのと同時に、謙也が盛大に吹き出すのが見えた。


「な〜に言うとんねん桃城!そんなわけないやろ!その冗談おもろないでえ」


「桃城クン?うちの謙也がお世話なってます、こんなんやけどよろしくしたって、いい奴やから!こんなんやけど!」


どうやら彼は桃城クンというらしい。おもろないと言う割に笑いを堪えきれない様子の謙也が即座に否定した。私はというと、なるほど、謙也と光が付き合っていることをここの人たちは知らないのか。と考えていた。それならば勘違いするのも無理はない。


「なぁ〜んだ、違うんすか」


「お前なあ、なんで残念そうやねん!名前は白石にゾッコンやからなあ、俺やったら役不足やっちゅー話や」


「ちょっ!」


「そうなんすか!流石っすねえ白石さんは!」


残念そうな態度を見せた桃城クンは、間髪入れずにその態度をツッコんだ謙也の言葉ですぐに先ほどまでの表情を取り戻した。何故付き合っていることを言っていないのだろうかと少し考えていた私は、謙也からのいきなりのカミングアウトに思わず声を上げる。


「ちが……っ、!蔵ノ介はただの幼馴染やって……!!!」


「こんなこと言うてるけどなあ、……」


「謙也!!!」


まさかこんな流れになってしまうなんて!否定しようとしたが逆に辿々しく、まるで謙也が言っていることを肯定しているみたいになってしまった。それを自覚して顔を赤くする私を面白がってさらに話そうとする謙也を精一杯制止した。これ以上はごめんだ。必死な私の様子を見てか、謙也はけらけらと笑いながら謝った。


「すまんすまん、からかい過ぎたわ。
ほんでも名前、白石に用あるんやろ?」


「……ほんまや、はよ行かんと」


必死になって忘れかけていた。今日中に大阪に戻りたかったが、もう空は夕焼けが広がっている。早く会って回収しないと辺りが暗くなって、帰れなくなってしまう。


「白石は勝ち組やからメインのコートの方で練習しとるんちゃうか、連れて行ったろ」


「!ありがとう!」


蔵ノ介が居るというメインコートへの道中で、私がここまで来るのに、駅から徒歩で来たから相当時間がかかったことの話や、謙也達は崖の上で特訓していたから電波が届かず連絡ができなかったという話をした。
桃城クンのことは、話しているうちに少し考えると覚えていた。今年の全国大会で四天宝寺が敗退した準決勝での対戦相手である青学の選手だったからだ。小春とユウジと戦っていた記憶がある。すぐに気づけなかったのは、彼があの時の試合でほとんど被り物をしていたからだ。


メインコートに近づくと、テニスボールを打ち合う音が聞こえてきた。一気にコートにいる人の数が増え、私の場違いな感じも増してきた。なにせ女の子なんて一人もいない。コートから離れている場所を歩いていたし、みんな、まだ練習中であったために気づかれていなかっただけだ。


──と、コート全体を眺めていると、見慣れた人影を見つけた。髪の色ですぐわかる。蔵ノ介だ。ちょうどコートに入って打ち合いをしているところだった。私が見つけたのとほぼ同時に謙也と桃城クンも蔵ノ介を見つけたようだ。


「おっ、白石おるやん!」


「あちゃー、ちょうどラリー中っすね」


「ちょっと待つぐらい大丈夫、邪魔する訳にはいかんし……」


そう言って上から蔵ノ介がテニスしている姿を眺めた。蔵ノ介と会うこと自体久しぶりというか、蔵ノ介と出会ってからこんなに……といってもたったの3週間だけれど、3週間でさえ、会わなかったことなんてこの十数年で一度あるかないかぐらいだった。
それに、なんだかこうして蔵ノ介がテニスをしているところを見るのは久しぶりな気がする。特に私が高校生になって、少し校舎に距離ができてからは気軽に中学のテニスコートの方へ行けなくなったから、なんだか懐かしい。


「あっ、ちょうど終わったぽいっすよ!」


「ほんまやっ、白石ー!!!」


と、蔵ノ介に見惚れていると、いつのまにかラリーが終わったみたいだ。蔵ノ介がコートの外に出たところを、謙也が大声で呼びかけた。
謙也の声が届いたらしい、蔵ノ介が声に気づいてこちらを見上げる。
──その先にはちょうど私が居て、ぱっちりと目が合った。蔵ノ介が私の姿を見た瞬間、蔵ノ介の手からラケットがごとん、と滑り落ちた。呆気に取られたようにただこちらを見て立ち尽くす蔵ノ介の姿と、地面に落ちたラケットの音で周りにいた人たちも何事かとこちらを見上げた。
蔵ノ介がそんな様子だったせいで、その辺り一帯に居た全ての人の視線を全身に浴びることになった私は、たっぷり数秒間全身をくまなく観察された後、耐えきれずに逃げ出した。……謙也を盾にして。


「ちょっと謙也、あの蔵ノ介置物なんちゃうの!?びくともせえへんで!」


「お前こそ俺の後ろに隠れてどうする気やねん!!はよ用事すませて来いや!」


「むむっ……!むり!こんな人に見られてる中よう出ていかへん!!」


「名前さん、正門通らずに来たんでしょ!あんまり大事なったらまずいっすよ!!」


「あかんわ桃城、もう結構手遅れや!」


ここまで全部、小声である。一度に沢山の人に視線を向けられるのに慣れていないから、軽いパニック状態だった。
今の状況を何も関係ない人が見たらどう受け取るだろうか、と考える。
私は一体何者だと思われているのだろうか。例えば蔵ノ介の熱烈なファン……とか。
少し顔を覗かせて蔵ノ介の方を見てみたが、相変わらず人形みたいに固まってしまっていて、反応は望めなかった。
しかし、こちらから蔵ノ介の方に行くのがハードルが高すぎる。……


「……何しとるんすか」


と。前方から気怠そうな声が聞こえた。
謙也の後ろに隠れているせいでその姿は見えなかったが、久々に聞くその声が誰のものなのか、この私がわからないわけがなかった。


「光っ!!!!!!」


「「財前!」」


「!?名前さん……っ!?」


今までの躊躇はどこへ行ったのか。前にいた謙也を横に突き飛ばす勢いで身を乗り出した。私と同時に謙也と桃城クンも声を上げたが、私の声が一際大きかった。
ちょうど謙也に隠れて見えなかったのだろう、珍しく戸惑っているらしい光が私の名前を口に出す。
光が無事でいてくれたことに感極まった私は、周りなんて全く見えなくなってしまって、周囲の視線を集めていることも、先程桃城クンが言っていたことも全て忘れて饒舌に喋り始めた。


「光!!私、ほんまに心配したんやでっ!?出発してから光からもユウジからも全然連絡来んし……っ!てか謙也、光が無事なんやったらはよ言ってや!」


「俺かい!?」


「……迷惑かけてすんません、名前さん。ずっと電波届かんところおったんです」


「謙也さん、名前さんと財前も……?」


「そや、名前はウチのテニス部レギュラー全員と仲ええんや、特に財前のことはめっちゃ可愛がっとる」


私の剣幕がすごかったせいか、謙也と桃城クンは二人でそんな話をしていたらしい。私はと言えば、光が申し訳なさそうにそう謝るので、すっかり安心した。確かに、謙也も先程電波が届かないところでずっと練習していたと言っていたし、そもそも疑っていたわけではないけれど、連絡ができなかったのも本当だろう。そんなことより、無事でいてくれたことが重要だった。


「無事でほんまによかった、光……ユウジもおる、やんな?」


「ユウジ先輩も無事っすわ、……名前さんはどうしはったんです?」


光がここに居るということはユウジも無事にここまで辿り着いたのだろう。聞くまでもないことだろうと思ったが、この微かな不安でさえ払拭しておきたかった。
と、私の問いに答えた光が、今度は私に問い返した。


「私?」


「なんか理由あらへんとこんなとこまでわざわざ来ませんわ」


そういえばそうだ。光は私がなんでここまで来たのか知らない。そもそも謙也にも蔵ノ介に用事があったのだ、ということしか伝えていなかったけれど。
光と会ったことによってすっぽり頭から抜けていた。こうなるのは今日何度目なのだろうか。


「私は……蔵ノ介に、」


そう言って蔵ノ介の方を見た。そうして再び蔵ノ介と目があった時、やっと蔵ノ介が反応したのだ。


「名前、」


「蔵ノ介!」


ハッとした蔵ノ介が私の名前を呟いた。
私がそれに呼応すると、やけに真剣な顔をして、こちらへと小走りでやってきた。光が雰囲気を読んでか、私の隣を離れて謙也の方に下がるのが視界の隅で見えた。


「やっと気づいてくれた、」


私の目の前まで来た蔵ノ介に、ほんの少しの嫌味を込めてそう微笑んだ。
蔵ノ介は私をじっと見つめて、すまん、と呟いた。


「……夢ちゃうかと、思て」


「何言うてんねん蔵ノ介、そんなびっくりしたん?」


思わず声を出して笑った。こんなに驚いてくれるとは思わなかった。連絡しなかったのは大正解かもしれない。まあ、仮に連絡していたとしても、その連絡に蔵ノ介が気づくとは思えなかったけれど。だって、ずっと蔵ノ介からは連絡がなかったから。


「いや……っ会えると思うてへんかったから……!びっくりしたていうか、めっちゃ嬉し、」


「へ」


「あっ!?」


どこか落ち着きのない様子の蔵ノ介が、自分の前髪を左手で摘んで弄りながらボソボソと言葉を発した。その内容に思わず口を挟むと、蔵ノ介はあからさまに表情に出して焦っていて、その様子を見ていたら、私にまでその焦りが伝染してしまった。


「え、えっと、」


聞き間違いだろうか?蔵ノ介は今、嬉しい。……嬉しい、って。
思わず言葉に詰まる。何と言って返したらいいのかわからなかったのだ。
私も蔵ノ介も結局何も言えなかったので、妙な沈黙が続いた。


「あのぉ、いい雰囲気のところ悪いんですけど」


「えっ!?ぁ、……っ何!?」


そう私たちに声をかけたのは桃城クンだった。二人して戸惑いを隠せないままに反応すると、横から謙也が苦笑いで私たちに向こう側を見るように顎で促した。


「今めーっちゃ見られとんでえ」


「!!!」


慌ててコートの方を振り向いた私たちは、その瞬間注がれた視線から来る圧に身じろいだ。
当然だった。今はまだ練習中だというのに、よくわからない女が合宿所内をうろついていて、さらには練習中の蔵ノ介まで呼び出す始末──


やばい。迷惑をかけているどころの話じゃない。余計な心配をかけたくないだとか言って、私がここまで来た理由を言わなかったが、そんな下手な気遣いをしているところではなかった。


「……っす、」


とりあえずこの状況をなんとかしなくては、と混乱した私は、蔵ノ介の手首をがっしりと掴んで、頭の整理もできないまま大声で叫んだ。


「すんません!ちょっと蔵ノ介借りていきま……ってない!?!?」


そこで初めて見た、蔵ノ介の左腕。よくよく見なくても素手だった。いつもつけていたあの黄金のガントレットは存在しない。


「蔵ノ介どこやったん!!」


「何を!?」


凄い剣幕だったのだろう。蔵ノ介の腕を掴んだまま、そう問い詰めると、こちら側の事情なんて知るはずがない蔵ノ介が戸惑いながらに返答した。
私は私で、なぜいつもつけていたはずのガントレットがないのかわかるはずもなく、はるばる来たその道中を思い出してはそれが全て無駄足だったのだろうかと、絶望を感じ始めていたのだ。学校を休んでまで、ここまで来たのに。


「いっつも付けてたやん、ガントレット……!」


「ちょ……っどないしたん名前?」


「ガントレットが必要やねん!」


勘違いでなく、涙目になっていたのかもしれない。私の顔を覗き込んだ蔵ノ介が、慌てて私にそう問いかけた。
それでも、私が言えることはこれだけである。


「ガントレットて……なんでそんないきなり……」


「……理由は聞かん方がええよ?」


「あー、……」


戸惑いを隠せない蔵ノ介が困ったようにそう呟く。私が苦笑いでそう伝えると、はっと何かを察してくれたらしい蔵ノ介が、私と同じように口角を緩く吊り上げて横に目を逸らした。


「だいたい察したわ」


「必要やねん!今すぐに!」


「わかったわかった、……」


どうやら私が必死な理由はなんとなくわかってくれたらしい。了承してくれた後、今ここにはないこと、もうすぐ練習が終わるから、それまで待っていて欲しいことを告げられ、私は素直に頷いた。
──と、その瞬間。


"選手諸君に連絡します。今日の練習はここまで。通達事項がありますので、全員メインコートに集合してください。"


タイミングよく選手の集合を伝えるアナウンスが鳴り響いた。


「ちょうど終わってしもたわ、ほな行こか」


「私は行けん、無断で入ってきたんやもん」


コートにいた人たちが動き始めるのを横目で見て、私に行こうと促す蔵ノ介に首を振る。そばにいた謙也や光、桃城クンは先に行っとくでえ、と私たちを置いて歩いて行った。
蔵ノ介はここから動くまいとする私に対して少し強めに諭した。


「あかん、ちゃんと話して今日はここ泊まりなさい」


「泊まるて、……っ!私今日中には大阪戻りたいねん!」


「もう暗なり始めてるで、このごろ日が落ちるん早いんやから。今から山道一人で歩くん危ないやろ」


薄々感じていた。今日中にはもう大阪には戻れない、と。でも、薄々無理だと分かっていても、無理をしてでも、できれば帰りたかったのだ。
そう主張したが、蔵ノ介は首を横に振った。たしかにもうほとんど日は沈んでいる。40分かけて歩いてきた道を今から帰っても、駅に着くころには真っ暗だろう。そもそも、暗い中で駅にたどり着けるか否かも問題だ。


「でも、……学校が」


「せやなあ、真面目な名前がわざわざ学校まで休んで来てくれたっちゅーことは相当大変な状況なんやろ?ほんでも名前を暗い中帰すわけにはいかんなあ」


「……」


自分でも思う。往生際が悪い、と。こうなるかもしれないと行く前から予想はできていたのに。
言葉を詰まらせた私に、蔵ノ介は眉を下げて微笑んだ。蔵ノ介は本当に言い方がうまい。いつもそうだ。私が意地を張っているときにこうして、優しく私を諭すのだ。


「名前が心配やねん、俺のわがまま聞いてくれんか?」


「……わかった、」


全く、これではどちらが年上かわからない。こう言われてしまっては、私は蔵ノ介に反抗するわけにはいかないのだ。観念して素直に頷くと、蔵ノ介はいつものようにぽん、と私の頭を撫でて、私に歩くように促した。


「俺も一緒に話したるから、一緒にコーチんところ行こ、な」


「蔵ノ介、おおきに……」


とぼとぼと歩き出す。既にメインコートの方にはちらほらと人が集まっていて、建物のほうにはコーチらしき人が立っているのが見えた。蔵ノ介に連れられ、建物のほうまで歩く。選手たちの視線が再び私に向けられるのを感じて胃がキリキリした。


「あの……すいません、勝手に入ってきてしまって、私は四天宝寺高校の」


「元永名前さんですね、四天宝寺中の渡邊監督からお話を伺っていますよ」


「え」


帰ってきた言葉は予想だにしなかったものだった。
私も蔵ノ介も唖然として立ち尽くす。不法侵入の報告をしに行くなんて、今日一番に肝が冷えることだったからだ。
私たちがよく理解できずに顔を見合わせていると、コーチはさらに話を続けた。


「四天宝寺高校の女子生徒を一人こちらにやった、合宿所に入れてやってくれと先程連絡がありました」


「オサムちゃんこんなとこだけ準備よない……!?」


思わず口から漏れた言葉。でもまあ、とりあえず安心だ。不法侵入だが、不法侵入ではなかった。思っていたより早く話が済みそうだ。謎に準備がいいオサムちゃんのおかげで。……
でも。次の言葉で、その全てが打ち砕かれることになったのだ。


「それと、彼から伝言を預かっています。」


「?」


「"金は用意できたからもうガントレットはいい"と」


「「はあ!?」」


私たちの大きな声が響き渡った。その中でも私の声は蔵ノ介のより一際大きかった。
そんなことが。そんなことがあるだろうか。唖然と立ち尽くす、とかそんなレベルではなくなってきた。あんぐりと口を大きく開けて、顎が外れてしまうのではないかと思うくらいに。
そんな私の様子を気にすることなく、コーチは平然と告げた。


「今日の練習はこれで終わりなので自由にしていただいて構いません」


「……あ、ありがとうございます……」


そのとき私はそれしか言えなかった。それ以外に言うことなんてなかった。
怒りやら安心やら色々な感情が頭の中をぐるぐると回って、混乱したままに頭を下げた。まだ理解ができなかった。
あれ、私がここに来るまでの交通費も、へとへとになって山道を歩いたのも、全部意味がなかったっていうこと……?かな、もしかして。
そもそも"金は用意できた"というが、どこから出したんだろうか?借金?


「どうや名前、話ついたか?」


「……」


「?」


蔵ノ介に慰められながら、謙也や光がいる方へ向かう。がっくりと項垂れる私に謙也と光は二人揃って首を傾げた。


「オサムちゃんがガントレットはもうええって」


「はあ!?」


「ほんなら名前さん、ここ来た意味なくなったってことっすか」


「光……言葉にせんといて、……」


そんな私の様子を見た蔵ノ介が、苦笑いしながら私の代わりにそう説明した。驚く謙也に、容赦なく現実を突きつけてくる光。その言葉に弱々しく返答した。


「そら災難やったなあ名前、まあええやんか、一晩だけゆっくりしていきや」


「ほんでも私、学校も休んでんねんで!?……ほんまに蔵ノ介に会いに来ただけみたいになってもーた、」


「俺?」


謙也は項垂れる私を笑いながら励ます。それでもまだ現実を認めたくない私は、半ばムキになってそう言い放つが、勢い余って口を滑らせてしまったみたいだった。


「っ!?」


自分で口走っておいて驚く。蔵ノ介が首を傾げるのを間近で見て、自分はとんでもないことを言ってしまったのではないだろうか、とどこか他人事のようにそう考えた。少し横に目を移せば、やれやれといった様子で目を伏せる謙也と光の姿があった。まずい。蔵ノ介が私が言った言葉についてよく考える前に、話を逸らさなくては。……


「ちょっと!名前やないの〜!?」


「!!」


「待ってや小春〜、そない走ってどこ行くねん!」


聴き慣れた特徴的な声が横から聞こえた。その声のすぐ後に、いつものやりとりが聞こえてくる。この二人のことは見なくてもわかる。少しユウジの声は遠いが、しばらくしたらこちらへ来るはずだ。


「さっすが小春、ベストタイミングやわ!」


「名前どないした〜ん?こーんな男だらけのとこ来てもうて〜」


私の元に駆け寄ってきてくれた小春を満面の笑顔で迎える。小春はいつもの調子で体をくねらせ、冗談っぽく私に問うた。


「ちょーっとな、蔵ノ介に用あって!」


「あらー、蔵リンに?」


「名前っ!?お前、なんでこんなとこおんねん!」


「私やと気づかんとこっち来とったんかい!ほんま相変わらずやなあユウジは」


小春がニヤニヤと目を細めて笑う。まーた有る事無い事考えてるな?と苦笑いしていると、小春を追いかけてきたユウジが初めて私を認識したようだった。
本当に相変わらずだ。ユウジは基本的に小春しか見えていない。そもそもユウジが合宿所まで来たのも小春のことが心配だったからである。むしろ私としてはその理由で合宿所まで駆けつけたユウジの行動力と、それに着いていった光の優しさに尊敬するけれど、今となっては私も同じようなものかもしれない。


「とりあえず小春から離れや名前!」


「はいはい、てかなユウジ、……私はユウジが光連れて大阪出てからずーっと心配してたんやからな!」


「それは、……!すまん、」


「相変わらず小春と仲良さそうにしてて安心したわ、無事でほんまによかった」


「うちのユウくんが心配かけてほんますまんかったわねえ」


「ううん、全然ええねん!二人が仲良うしてくれてたら、私はそれで!」


「いやん、ほんまに名前ってなんてええ子なんやろ


いよいよ四天宝寺の『いつもの』メンバーが集まってきた。こうしてみんなと話すのは久しぶりだから、それだけでもここまで来た価値はあったかもしれない、とそう考えた。これは無理やりに理由づけをしているのではなくて、本心だ。


「おっ、銀もおるやん!ぎーん!」


「!名前やないか。どないしてこないなとこ来たんや」


「うん、駅から歩いてきた!銀もようやっとる?久々に銀の波動球見たいわあ」


「おう、ええで。後で見せたろう」


「やった!!」


銀の波動球は本当に凄い威力だから、この合宿でもパワーでは敵無しに違いない。小春にユウジに銀も揃い、いよいよいつもの面子、といった感じだ。
四天宝寺では、あとは──
九州二翼だった千歳クンと、赤髪の1年スーパールーキーの遠山クン。
蔵ノ介や謙也などから常々話は聞いていたが、私が高校生になって中学テニス部を訪れることがほとんどなくなってしまったために、全国大会などの試合でしかその姿を見たことはなかった。故に、話したことも一回もない。この機会に是非、顔を合わせておきたい……と、周囲を見渡していると、背後から話し声が聞こえた。


「へえ、白石の幼馴染なんだ」


「!えっと、……」


振り向くと、蔵ノ介と、談笑している二人の男性の姿があった。蔵ノ介の顔が整っているのは、ずっと隣で成長過程を見てきた私が一番わかっていることだが、この二人も負けず劣らず整った顔をしている。思わず見惚れてしまうくらいに。
二人とも、全国大会を観に行った時に見たことがある。遠目からしか観ていないから、微かな記憶だけれど。
特に茶髪の彼は、確か準決勝での蔵ノ介の対戦相手だったはずだ。名前は──


「不二周助です、白石と合宿の部屋が同じで」


「幸村精市です、俺たち、3人で同室なんです」


「不二クンと幸村クン!」


そうして私が名前を思い出そうと首を捻ったところで、彼らが自己紹介をしてくれた。その名前を聞いて、ああ!と大袈裟なリアクションをしてしまう。
そうだ。青学の不二クンだ。小柄だが、あの蔵ノ介が苦戦していたから、彼も相当の実力者なのだろう。
幸村という名前を聞いて、もう一人の彼もすぐ思い出すことができた。立海大附属の部長の幸村クンだ。
全国大会決勝戦のS1。私は観客席からその試合を見ていたのだけれど、それでも彼の雰囲気には圧倒された記憶がある。こうして近くにいると、さらに凄いオーラだ。流石天下の立海の部長なだけある。一応年下なのだが、こちらがたじろいでしまう。


「二人ともはじめまして、四天宝寺高校1年の元永名前です、いっつも蔵ノ介がお世話になっとります」


「いやいや、そんな。俺たちのほうが白石にはお世話になってますよ、なあ不二」


「うん、本当にね」


ゆ、優雅だ……
顔を見合わせてくすくすと笑う二人の姿はまるで王子様である。これでテニスも上手いのだから、世の中は不平等なものだ。まあ、それはその二人の様子を私と共に見ていた蔵ノ介にも言えることだけれど。
蔵ノ介の顔をじっと見つめた。蔵ノ介もこの二人に負けず劣らずの美青年であることは間違いない。幸村クンと不二クンの顔立ちとは少しタイプが違うと思うが、蔵ノ介もこの二人に加わったらさらに絵になる気がする。


「……蔵ノ介の部屋、顔選別なん?」


「なーに言うとんねん」


「どうかしたのかい?」


「いやなあ、名前が俺らの部屋顔選別やとか言うから」


「あっ言ったな蔵ノ介!!!」


「ふふ、面白いこと言うね」


「や、……やって不二クンも幸村クンも美人さんやから!!話すだけでも緊張しとるし、私!!二人とも敬語で喋らんといて……!」


私たちが会話していたのを見てか、幸村クンと不二クンが私たちに問いかけた。蔵ノ介が何の躊躇もなく私が言ったことをバラしたせいで、焦って弁明をする羽目になってしまった。
しかも、男性に対して美人という表現はどうなのだろうか。咄嗟に口に出てしまったが、不快な思いをさせていないだろうか。恐る恐る様子を伺ったが、じゃあご遠慮なく、と幸村クンが笑い、不二クンは私が焦っているのを面白そうに眺めた。二人とも私が言ったことを気にする様子はなかった。
……というか、顔選別だというところを否定しないのが流石だ。


「それを言ったら白石だって」


「白石と幼馴染なんだったら、"そういう"のにも慣れてるだろ?」


「……たしかに」


そう言われて思わず納得した。蔵ノ介と仲が良いというだけで私が受けた被害は数知れず。嫌がらせ、呼び出し、暴力まで様々である。
私がそんな反応をしたものだから、不二クンは興味深々の様子だった。


「白石の話聞きたいな、バレンタインとか凄いの?」


「バレンタイン……!!!!
蔵ノ介のバレンタインは半端ないで、こーんくらいのおっきな袋5個でも入り切らんくらい!毎年食べきれへんって私に回ってくるぐらいやから!」


「へえ、……」


「なるほどねえ、」


バレンタインの蔵ノ介は一日中引っ張りだこなのだ。登校中で既に一袋分のチョコをもらう。学校に着いても、蔵ノ介の靴箱には大量の置きチョコがある。授業の休み時間のたびに、息をつく暇もないほどあちらこちらに呼び出されるのだ。もちろん部活中も。今年は校舎が違うのでそれを直に見ることはできないが、あれは最早四天宝寺名物だと言ってもいい。
そう思い返していると、含みのある笑みと共に、二人の注目を浴びていたのは蔵ノ介だった。二人の刺すような視線に蔵ノ介がたじろぐ。


「な、何??どしたんや二人とも」


「……いや、何でもない」


「ああ、何でもないよ」


「?!」


なんだか、微妙な雰囲気になってしまった。幸村クンと不二クンの笑みは、何でもないと言いつつ確実に何かがあった。蔵ノ介はその何か、をわかっているのだろうか?何も言うことはなかったが、気まずそうに二人から目を逸らす。
ああ、もう!


「そ、それと!よう呼び出される!」


「どういうことだい?」


「あ、えっと……私が!蔵ノ介と一緒におると先輩とかによう目つけられるねん、特に私なんか蔵ノ介の横おったら平凡すぎてなあ、……」


この雰囲気を払拭しようと声を上げた。すぐに二人が反応してくれたので、蔵ノ介が小さく息を吐くのが見て取れた。凄いな。試合中じゃなくても、やはり強いプレイヤーになると眼圧が『違う』のだろう。……と関係ないことを頭の片隅で考えていた。


「私が蔵ノ介と同じぐらいの美人やったら何も言われんと思うんやけど」


呼び出し。これも名物だ。今時、そんなことをする人が居るかと思うが、居るのです、これが。
……そもそも四天宝寺の周りはかなりヤンチャな中学が集まっており、ガラが悪い生徒の集団もちらほらいる。ナワバリ争いなのか知らないが、何を思ってか、彼らが集団で殴り込みに来たりするのだ。校門前で乱闘になって大騒ぎというヤンキー映画のワンシーンみたいな出来事もしばしば起こる。
何が言いたいかと言うと、それは四天宝寺にもヤンキー集団みたいなものも存在していて、姉御みたいな先輩もいる、とそういうわけである。まあ、とは言ってもそんなの生徒の1割にも満たない程度で、もちろんそんな人たちに色々言われたりもしたことがあるけれど、実際には普通の女子生徒が大半だ。大人しそうな人でも数人集まれば平気で声をかけて来る。靴箱を開けたら『果し状』が入っていたなんて、懐かしい思い出である。


「そんなことないさ。名前さんが綺麗だから、白石のことが好きな女の子がみんな嫉妬してるんだと思うな」


「ゆ、幸村クン……!」


なんて、……なんて紳士なんだろうか。
自虐して言ったつもりが、こんなことを言ってくれるなんて。
ああ、違う。輝きが違う……!
感動して震えていると、不二クンが先程から黙りこくっている蔵ノ介に話を振った。


「でも、驚いたよ。まだそんなのあるんだ。さすが四天宝寺」


「不二クン、……ウチの学校のこと馬鹿にしとるやろ?」


「いいや!面白がってるだけだよ、」


「まあ、実際よう呼び出されるんや。俺がおらん時は着いて行くな言うとんのに!こいついっつも俺に言わんとひょこひょこ着いていきよるからなあ、なあ名前?」


「私が高校上がってからだいぶマシになってんけどなあ、去年まではめーっちゃ呼び出されとった!」


「なんで誇らしげやねん……」


正直、呼び出しなんて怖くも何ともない。変に目をつけられているのが気に食わないし、何かとあることないこと噂されるのはうんざりだ。こんなことで私の学校生活に支障をきたしたくない。小学生の頃は、私の持ち物を隠したり、色々捨てられてたりと陰湿なものが多かったから、それに比べたらマシなのだが。ちなみにその時は、蔵ノ介がみんなの前でブチ切れたので治まった。
何を言われても、付き合ってません、ただの幼馴染です、と堂々とそう答える。
罵声やらなんやら浴びせられることもあるけれど、気にしていない。大体が集団だから強く出れるだけで、一人の時は何もしてこないからだ。
蔵ノ介はいつも私のことを気にしてくれるけれど、大体は色々言われるだけで実害はなかった。私がこれらの呼び出しに応じているのは私自身の問題で、蔵ノ介には関係ないことだといつも言っているのに、蔵ノ介は頑なだった。私の姿を見てか、はたまたテニス部に聞いてなのか、私が呼び出されている現場に駆けつけてくることが何度もあった。何度も、と言うか、毎回。でも、蔵ノ介が来てくれると、しつこい人たちも諦めてその場を去るしかなかったし、それ以後、私が何かをされることはないのだ。その場で蔵ノ介が強く釘を刺してくれるおかげだろう。
そうやって、毎年、学年末になるにつれて呼び出されることは顕著に減って行くのだが、新学期になると、また新しい学年が入学して来るわけで、同じことの繰り返しである。そう思えば私が中2で、蔵ノ介が中1だったときが一番凄かった。
今はちょうど校舎が違うし、高校になって外部から入ってくる生徒も学年ごとに半分ぐらいいるから、そもそも蔵ノ介の存在を知らない人も多いのだろう。蔵ノ介がいないことをいいことに、私を呼び出す人たちもいるのだけれど。


「俺がこっち来てからは大丈夫なんかいな?」


「ん〜……2回ぐらい、」


「いやあるんかい!!!」


「何にもされてへんで?」


蔵ノ介が出発したのが11月の初め。そう考えると、約1ヶ月の間に2回。
うん!相当少なくなった。
蔵ノ介に聞かれて素直に答えると、盛大なツッコミが入った。どちらもほんの少しだけ強く言われただけだ。もちろん(?)いつものように言い返したし、本当に何もされてない。むしろ返り討ちにしてやったとさえ思う。


「俺がおらんときは行くなて何度も言うとるやろ!?せめて連絡してからにせえ、」


呆れた様子の蔵ノ介が、強めの口調でそう言った。まあまあ、と不二クンと幸村クンが宥めるが、ああ、まずいかも。
全くそんなつもりで言ったわけではなかったのだが、蔵ノ介の表情は真剣だった。一気に場の空気が張り詰める。
怒らせてしまったかな、もしかして。


「俺が心配しとるんわかるやろ!?何でお前はいっつも、……!」


「……でも蔵ノ介ずっと連絡くれんかったやん」


「!」


ぽつりと口に出した言葉。蔵ノ介があからさまに動揺するのが視界に映った。
そうだ。蔵ノ介は連絡をしようと思ったらいつでもできたはずだ。謙也や光と違って、『勝ち組』だったのだから。


「こっちから連絡するんも悪いかなあ、思て連絡せんかったの!合宿が大変なんかなって思ったから!」


「そ、それは……」


言葉を詰まらせた蔵ノ介の後ろから、大きな影が落ちた。私よりも、蔵ノ介よりも大きい影だった。


「それ、四天宝寺ん制服やなかと?」


「!」


その声で振り向くと、すぐに誰かわかった。特徴的な方言、蔵ノ介もろとも私を見下ろすほどの身長。……
ちょうど、良かった。
少し熱くなってしまったようだ。深呼吸を一つして、落ち着きを取り戻そうとした。空気を読まないでくれていたことがむしろありがたい。
蔵ノ介のことはもういい。今話しても埒が開かなさそうだ。


「千歳クン……やんな、」


「ん?」


千歳クンだ。今年になって四天宝寺に加わったうちの一人。
気持ちを切り替えよう。折角の機会なのだから、千歳クンとは話したいと、そう思っていたじゃないか。


「はじめまして!元永名前です、全国大会とか見に行っててんけど……私のことわからへん?」


「ん、……ああ〜!」


千歳クンは少し悩む素振りを見せたが、すぐに思い出してくれたようだった。少し上半身を傾けて、私の顔をじっと真っ直ぐに見つめ、嬉しそうに口角を上げた。


「むぞらしか人やと思っとったけん、また会えて嬉しか!」


「?」


きらきらとしたその笑顔で少し気持ちが楽になった気がする。……しかし、九州の方言はやはり難しい。どういう意味なのかわからなかったが、悪い風には思われていないのだろうと勝手に解釈した。


「私もずっと話したかってん!でもあんまり機会なくって……千歳クンとこうやって話せて嬉しいわあ!」


「俺もうれしか〜!名前って呼んでもよか?俺んことも千里でよかばい!」


「!!全然ええよ!嬉しい、よろしくな千里、」


今のはわかった。語尾だけなら普通に会話しているのと変わらない。
それにしても、身長のせいか少し近寄り難いイメージだったけれど、全然そんなことはないらしい。
明るくてフレンドリーで、早くも仲良くなれそうだと感じた。私が千里、と呼ぶと、目尻を下げて笑う。やっぱり年下は可愛いな。彼もまた、見た目とは裏腹に年相応なのかもしれない。……


「白石も意外とウブやけんね〜。こぎゃんむぞらしか幼馴染ば放っとくとは」


「???」


そう思っていると、千里が私から視線を移してそう言った。意味がわからず千里の視線を辿れば、そこには蔵ノ介の姿があった。少し視線が掠ったが、先程言い合ってしまった直後で気まずく、すぐにお互い目を逸らす。


──と、そのまま周りを見渡せば、いつのまにかかなり大勢の人が集まってきていた。そろそろ全員集まったのだろうか。先程話に行ったコーチがこちらを見下ろし、話し始めた。


「明日の朝、強化選抜メンバー20名を発表します……」


この中には中学生だけでなく高校生もいるらしい……よく考えなくてもU-17合宿なのだから、当然のことなのだけれど。
コーチの話を聞いている間、辺りを見ていた。……目に止まったのは、長めの白髪と、色黒の肌が特徴的な後ろ姿。


高校生、なのだろうか。


目を逸らせずにそのままその後ろ姿を見つめた。どこか懐かしい、そんな気がする。そういえば昔、蔵ノ介と出会う前、白髪で、浅黒い肌をした男の子がいたっけ。……

そのかつての記憶を思い出すのに、そこまで時間はかからなかった。
蔵ノ介と初めて出会ったのが、私が5歳の時。私たちの家族が大阪に引っ越してきたその家の近くに住んでいて、本当に偶然、私の母と蔵ノ介の母が高校時代の旧友であり、私と蔵ノ介の年齢も近かったことから仲良くなった。
私が生まれたのは京都だった。小さい頃だからほとんど記憶はないに等しいが、それでも彼だけは覚えていた。


「名前?どぎゃんしたと?」


「あ、えっと……なんでもない、」


全くの上の空になってしまっていたが、どうやら明日には海外遠征に行っていた1軍がここに帰ってくるらしい。
それに伴って、今までの合宿より段違いに厳しいものになる、明日からが本番だ、と先輩らしき人たちがそう言った。


「本番ですか……楽しみです、」


「お前たちはまだわかっていない……この合宿の真の恐ろしさを」


幸村クンが挑戦的に笑う。中学生は誰も彼も十分にやる気みたいだ。しかし、そんな彼らのエネルギー以上に、明日からの合宿は恐ろしいものらしい。高校生のその口調は、冗談でものを言っているわけではないと私でもわかるくらいだった。


「真の恐ろしさ?」


「まあまあ……どっちにしろ明日になればわかることやて」
 

それをみんなも受け取ったのだろう、一人が疑問を呈した。
それに答えたのは、特徴的な、京都弁。……間違いない。
思わず走り出していた。


「……修くんっ!」


「?」


その場を離れようとしていた彼が、私の呼びかけで立ち止まった。彼が後ろを振り向いたその時、彼の顔を10年ぶりに見た。
記憶にある彼より随分と男性らしくなっているが、目元は全くそのままだ。目が合うと不思議な感覚になる。この瞳は唯一無二だった。間違えるはずなんてない。


「修くん……やんな、」






「……私のこと、覚えとる?」




to be continued.
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