「姉さん、この人はなまえっていうんだよ」
「知ってるわよ」

連絡を受けた瞳子さんは直ぐに駆け付けて、帰って来てくれた。玄関で待ち構えていた、小さな少年の基山ヒロトに絶句して、暫く「姉さん姉さん」と纏わり付く少年にされるがままでいた。私が瞳子さんと声をかけて漸く意識を取り戻したようで、それからは至っていつも通りの立ち振る舞いで、夕食が出来るまで少年ヒロトの相手をしていて欲しいと私に告げた。
どうやら今日は一緒に住んでいる晴矢は友人の家に泊まるようで、風介はそれに無理矢理付き合わされているらしい。本当にあの二人がいなくて良かったと思う、これ以上話しがややこしくなるのは御免だ。何をして遊んでいればいいかと考えていたら、少年ヒロトは私なんぞ放ってテレビを点けて笑い始めた。私は急激にあの小さな赤い頭を叩きたくなった。きっと私は保母さんには向かないだろう。

私の分の夕食まで作ってくれた瞳子さんはさっさと自分の夕食を食べ終わり、ボロボロと食べかすを零す少年ヒロトの汚した机を拭いて、中々掬えない残りのご飯をもたもたと掻き混ぜている少年のスプーンで掬い上げて、彼の口に運ぶ。大人しく口を開け放り込まれたご飯を、むぐむぐと噛み締めながら笑っている少年は、やはり基山ヒロトの面影を見せている。しかし瞳子さん、この状況でこの少年を見て取り乱さないとは、流石、流石に肝が据わっているなあと思う。初めこそ驚いていたが、今では普通に幼児に接し慣れた母親の様だ。

夕食がすんでからテレビに食いつき、食卓の向こうのソファでCMソングをくちづさむ少年を見ながら、瞳子さんがやっとと言うように大きく息を吐き出した。

「ごめんなさいね、なまえさん。」
「え、あ、いや、大丈夫ですよ。」

本当はあんまり大丈夫じゃない。だってただの風邪だと思ってお見舞いに来たら、とうの本人はあんなに幼く無邪気になってしまい、しかも私の事なんぞ綺麗さっぱり忘れてしまっているのだ。それだけでもう、腹腸が煮え繰り返りそうなくらい怒っている。いや、実際は怒りより悲しみの方が上で、少年ヒロトが私の名前を恐る恐る呼ぶ声と、瞳子さんを姉さんと呼ぶ声のトーンが余りに違うもんだから、先程からいちいち傷付いてしまっている。情けないから、せめて大丈夫だと瞳子さんに成るべく笑顔で答えてみた。私の返事を聞いて、少しだけ微笑んで「有難う」と言う表情から疲れが浮かんでいるので、なんだかいたたまれなくなってくる。やはり瞳子さんもこの非常識な状況を全て飲み込めていた訳じゃない様だ。そりゃ私よりずっと一緒にいたし、血は繋がっていないらしいが、大切な弟だろうし、きっと私なんかより瞳子さんの方が何倍も驚いて、ヒロトの事を心配しているんじゃないだろうか。それならば、余計に私が笑顔でいなければならない気がした。

「ヒロト、なんであんなに小さくなっちゃったんですかね…。」
「分からないわ。…でも、あの子は本当にヒロトが幼い頃の姿とは、少し違うみたい。」
「え?」

姿が違う、と言う瞳子さんの言葉に疑問符しか浮かべられずにいる私は、テレビのある方に視線を向けた瞳子さんを見て、とにかく私もそちらを向いてみる。
正確には瞳子さんはテレビではなくソファに身を沈めて、テレビに夢中でいる少年ヒロトを見ているようだった。幼児向けのアニメを見てきゃっきゃっとはしゃぐ姿は今の彼の年相応のもので、私には普通の男の子に見える。

「あの頃のヒロトは、あんなにはしゃぐ様子も笑うことも、なかったから。そう思ってしまうのかしら。」

瞳子さんの言葉にはっとして視線を彼女に戻した。そう言われると、私の知る基山ヒロトも余りはしゃいだり笑ったりしない奴だ。周囲にいる同い年の男子とは喋りはするが、一緒になってふざけたり大笑いしたりしている所は見たことがない。何処か達観していて、中学生男子としてより大人びている基山ヒロトと、今私が見ている、幼児番組で楽しげに笑う少年基山ヒロトは、どうにも私の中でイコールで結び付けられない。
とはいっても、私は瞳子さんの様にヒロトの過去の様子をそんなに知らないから、本当に今の少年ヒロトと様子が違うかどうかは私には分からない。単に小さな頃と成長してからのギャップが激しいだけかもしれないし、結び付けられずにいてもあの少年はヒロトに違いないのだ。大切なのは、あの少年がこれからもずっと少年のままなのか、元の成長した彼に戻れることが出来るのかということである。


「姉さんご本よんで!」

テレビに飽きたようで、少年ヒロトは何処から引っ張り出してきたのか分からないが、古ぼけた絵本を両手にしっかりと持って駆け寄ってきた。

「ごめんなさいね、私はこれから調べ物をしなきゃならないの。」

瞳子さんが苦笑しながら少年の頭を撫でると、少年は何か言いたげに口をもごもごと動かしてから、しゅんと萎む花の様に寂しそうに静かになった。瞳子さんはきっとヒロトがこうなったことを調べるのだろうが、あんまり少年が寂しそうにするもんだから、私に何か出来ないかと口を開きかけた時に、瞳子さんの声が重なった。

「なまえさんに読んでもらいなさい。」
「ええ、」
「えええー」

因みに最初にええと言ったのは私で次に不満げに叫んだのは少年ヒロトくんだ。あんまり懐かれていないのは分かっていたが、まさかそんなに叫ばれるくらい私が嫌なのか、傷付いた、子供に嫌われるとは、なんて胸痛むことなのだろう。
瞳子さんが遅くなる前に送ってくれると言っていつになく申し訳なさそうに、でも優しく微笑むものだから、はいと二つ返事で朗読役を引き受けてしまった。少年ヒロトも不安げに不満げに眉を小さな眉間に寄せて、でも姉さんには素直な彼は、小さくコクリと頷く。もう一度少年の頭を撫でた後、瞳子さんは私と少年の食器を片付けてから自分の部屋に去って行ってしまった。


取り残された私と少年のいる居間には、つけっぱなしにされたテレビの音が騒がしくも虚しく響き渡る。な、なにか話題を振らなければと少年を見れば、じとりと私を見上げる、見たことがある碧色の目と鉢合わせた。

「…なまえ、ご本よめるの?」

金鎚で頭を殴られた様な感覚が走り抜ける。違う、嫌われていたんじゃなく見下されていたのだ。この小さな少年に、彼より何倍も背の高く年上な私が、生意気にも嘗められまくっていたのだ。なんだよ私を見る時は見上げてばっかのくせに、見下すなんて、もう十年早いわ。もう怒ったぞ。いくら幼くなってしまうなんて大変な目にあっていようが、ヒロトはヒロトだ。もう手加減なぞしない。
小さな手から絵本を奪い取って、突然の私の行動にビビる少年ヒロトの目前に、びっ、と振り下ろす。

「読んであげようじゃないの。」

時刻は午後七時半前。少年との絵本朗読バトルのゴングが高らかに鳴り響いた。私の中でだけだが。





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