次に目を開けた時は色々な事が起こったわ。





何故か身体がとてもけだるげで、全身がまるで鉛の塊みたい、指一本だって動かすことができなかった。ただそれは本当に最初だけで、また再び目を覚ました時は嘘みたいに身体が軽かった。
右手をついて起き上がろうと動かしたはずの腕に、微かに重たげなものが引っ付いて離してくれずにいた。首だけ動かして右に向くと、白い光りを背中で受け、逆光の中こちらを見下ろす小柄な人影があった。黒い影は握りしめる右手から私の身体反応を電気信号のように脳に受信した途端、両手で力強く私の右手を抱きしめた。私は抱き上げられる私の右手を影の中に確認すると、瞬きを一度、二度して、目を慣らしていく。
段々と慣れてきた視界の中に、黒い影の変わりに見知らぬ彼女が現れる。もう一度瞬きをすると、彼女が唇を強く噛み締めていることが分かった。


「クララ、」


噛み締めていた唇が開かれたかと思えば、彼女の声らしき音が私のしばらく寝たきりで麻痺しきった鼓膜を震わして、彼女の声を脳に送って、言葉として私に解釈させる。くらら、クララ、クララと言った彼女の唇、再び彼女の白い歯に噛み締められて白く変色していた。クララという単語を起きぬけのまどろむ脳内で検索しても、何もヒットしない。私にはその言葉の意味がわからない。

わからない、と口にしたかったが、なんだか喉がからからで、微かに絞り出した声も掠れて、自分でも聞き取れなかった。

陸に上がった魚のようにぱくぱくと空気を食べるだけの私の口を見て、彼女は痛みを堪える様な顔をして見せてくれた。わからない、彼女は怪我をしている風貌ではないし、何故そんなに泣きそうに眉間を歪ましているのか。


「クララ、」


噛み締められていた彼女の唇がもう一度その単語を口にする、良く見れば白く変色していた唇は真っ赤に染まっていた。唇の色とは思えないそれは彼女が噛み切った唇より溢れ出る、それは血だ。彼女が私の手を強く握り締めてその唇の方に持っていく、私は動かせる指を怖ず怖ずと動かすと、なんだか酷く温かいものが指先に触れた。それは指先を蔦って掌に落ちると、手首を蔦ってどんどん肘の方に落ち延びて来る。なんだろう、次々と指先に触れて流れ落ちていくそれは、彼女の歪められた双眸から落ちる雫なのか、それとも先程から見ていた唇から溢れ出る紅なのか。


「ごめんね」

彼女の唇が呟く言葉はあの単語では無くなった。謝罪の言葉、私にはまだその意味が分からない。


「クララ、これからは、ずっと一緒にいるから」


私にはまだ意味が分からない、分からないと言うふうに目を細めてみるが、なぜだろう、言葉を話せないこの唇が固まっていた頬の筋肉を押し上げて上に上がる。



「ずっと一緒にいるよ」


意味が分からないのに、彼女が誰かも分からないのに、私はその言葉を聞いただけでとても幸せになれた。なぜだか分からないけれど、私は今とても幸せなのだ。
彼女の潤んだ瞳に映った、音もなく笑う女がいた。






100220/クララ記憶喪失