悲しい、なにが悲しいか分からない、でも悲しい。膝が痛いから、もしかしたら転んで痛くて悲しいのかもしれない。こんなに悲しくてわあわあと泣いているのに、周りに誰も居ないから寂しいから悲しくて泣いているのかもしれない。視界が淡いミルク色の霏しか見えなくて、自分が今何処に居るかも分からないだからかもしれない。悲しくて悲しくて、何で悲しいのか分からないまま、それでも私はただ悲しくて泣いていた。
声を張り上げて、まるで小さな子供の様に惜し気もなく泣き喚いていると、どこからか伸びてきた白い手が、ゆっくり私の頬に触れた。きっと涙に濡れてべちゃべちゃな私の頬を撫でて、両の手で包んで、柔らかな細い親指が目尻の涙を拭い取ってくれた。霞んだ視界で目の前にいるであろう人を見上げるが、その人の真後ろに昇る太陽の光により、闇色の顔だけしか私の瞳に入らない。そもそもこれは太陽の光なんだろうか。だけど、暗い影に覆われた顔に、何処か見覚えを感じた。懐かしさを感じた。その人は笑っていた。
頬を包んでいた両の手の右片方を私の頭にふわりと乗せて、髪を櫛でとく様に整えたり、地肌の体温を確かめる様に撫でてくれた。


「 、 」


どこかで聞いた、でも忘れてしまった声がしたら、私は温かくて柔らかな懐かしい匂いに包まれた。後ろに回る腕も、背中を摩る掌も、顔に当たるあったかくて柔らかい首筋も肩も、確かに感じた覚えがある、でも忘れてしまった。ああでもね、でもわかるよ、ふわふわとして形を無くしたそれが、私の中でいつまでもいつまでも漂っているんだ。あああいたいよ、







瞬きをしたつもりだったのに、気付けば目を開いていた。もう一度、今度はちゃんと瞬きをしたらつぅっと涙が頬を伝って落ちていった。暫く天井をぼやあっと見つめていたら、横からヌッと手が伸びてきて少しぎこちなく頬の涙を拭い去っていった。

「悲しいのかい」

聞き覚えのあるなんてもんじゃない、これは毎日聞いている声だ。横に頭を傾けると、少し困ったように眉を吊り下げ、眉間に皺を寄せるヒロトがいた。私は分からないとだけ答えた。本当に分からない、私は何であんなに悲しかったのだろう。泣き喚いていた私は、なんであんなに幼かったのだろう。

「悲しい夢をみたのかい」

「分かんない、でもね、」


この続きを言うのが少しだけ恐かった。本当は言わないでいたかったけど、目尻の涙を拭い去ったヒロトの手が私のべちゃべちゃな頬をなんの躊躇いもなく撫でるから、我慢できなくてまた流れでる涙と一緒に、溢れ出る声を震えながら吐き出した。

「おかあさんに会ったんだよ」

ヒロトは一瞬酷く驚いて、普段見ないくらい目を真ん丸く見開いたが、直ぐにその目を細めて、「そう」とだけ呟いた。口元が少しだけ綻んだヒロトから、天井に視線を戻せば、淡いオレンジ色の電灯が音も起てずに、深々と、私達に人工の光を降り注いでいる。やっぱり太陽じゃなかったんだよ。そして涙を拭ってくれたのも頬を撫でていてくれたのも、きっとヒロトだったんだ。私は夢を見ていたんだ。
でもあれは違った、あのにおいはヒロトじゃない。この園にいる誰からもしない。懐かしくて温かくてずっとずっと昔に嗅いだことがあるにおいだったもの。
随分と昔だからもう忘れてしまったと思っていたのに、顔なんかもう思い出せないし、夢の中で声がしたかなんてもう分からない。分からない、私の中で形を無くしたお母さんは、あのにおいだけ残してずっとゆらゆら漂流しているんだ。そして時々、こうして鼻腔を通じて、私の脳に漂着したら、あの曖昧な靄みたいな情景で映し出されるのだ。ただ悲しいのは、そんな夢を見ても、私には涙しか残されないという事だった。悲しいのに、悲しいのに、逢うことなんて出来ない、もう顔も忘れてしまったのに。

「寂しいね、なまえ」

頬を撫でてくれていたヒロトの手が、今度は少し汗で湿った私の前髪を撫でていてくれた。寂しいと言った彼の言葉は、きっと私達だから頷けるし、ヒロトだから言える言葉だと思う。ただ私はそれに答えなかった、答えたくなかった。だって私には貴方がいるし、皆がいるもの、寂しいものか。今だって泣いている私を撫でて彼があやしてくれるもの。だからいいんだよ。

でもまだ私の鼻腔がすんすんと動く、もう忘れてしまったにおいを見付けようとして、すんすんと鼻水を啜る音を起てて。私はヒロトの手を握れば、彼もぎゅうっと握り返してくれた。名前を呼んで、また手に力を込めてくれた。
ヒロト寂しくないよ、でももう一回だけ目をつぶってもいいかな、いいよね、だって仕方の無いことだものね、ああ贅沢言ったらね、ヒロトの手がもっと温かかったらなあ、ああ、あの頬を包んだあったかいにおいを、ああ、また忘れられるのになあ。




「なまえ、寂しいね、」




「うん」









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