願い事はたくさんあった。


「おはよう、なまえ」


朝、彼がカーテンを開けてくれて溢れる光が私を照らしてくれる。おかげで、私はむくりと朝を感じることができた。お決まりに交わされる彼の挨拶が私はとても好きだった。おはよう、風介、今日もいい天気だねえ


「なまえ、私は今日父さんに呼ばれているんだ。」

へえお父さんに、大事なようなのかな?

「きっと昨夜話していた作戦に、私のチームが選ばれたんだよ。」


風介はとても嬉しそうだ。いつもきりりとした眉毛も吊り上がった綺麗な目も、硬く結ばれた薄い唇も、柔らかく下がり細められてゆるりと綻ばせている。ふわりと私の心も軽くなる。風介、今凄く幸せなんだねえ。


「もしそうなら、父さんの為に、私はどんなこともするよ。なまえ、それが一番善いことだよね。」


うんそうだよ、風介はお父さんの為にずっとずっと頑張ってきたものね、凄く頑張って宇宙人になったんだもの、大丈夫、きっと上手くいくよ。私はずっと風介の幸せだけ願っているよ、だって風介の幸福が私の幸福だもの。


彼は部屋の扉を開けると、振り向いて私に手を振った、それもお決まりの私達の挨拶。私も一生懸命手を振る。私はこれもとても好きだ。


風介がお父さんの所に行っているあいだ、私は部屋でずっと願い事を唱えつづけた。お願いしますどうか風介の気持ちがお父さんに届きますように、お父さんが風介を愛してくれますように、風介がいつもさっきの様に笑ってくれますように、私を好きでいてくれますように。そうやって風介の為に祈りを捧げている時が私は風介の役に立てているみたいで、とてもとても好きだ。


もう何回と同じ言葉を繰り返したか分からないが、口が痺れてきて、すり合わせていた手も痛くなってきた頃、部屋の扉が開いて風介が入ってきた。あ、風介、お帰り、もうお仕事終わったの?

風介は応えないで私の横を通り過ぎると、ベットに倒れ込んで動かなくなった。動かない、ピクリとも、まるで死んでいるみたいに、俯せのまま倒れている風介に、私は叫びすぎてカラカラな声で必死に呼びかける。ゴクリと水を飲んで喉を潤した瞬間、呻き声の様な音が私の身体を震わせた。風介の声の断片をちらつかせて上がる呻き声はいつしか濁音を放ち、電動鋸の歯が私の身体に切り傷を負わすように、風介の悲しみを刻み付けて私の心を引き裂いた。痛い、痛いよ、風介、悲しいよ、悲しいの?なんで泣いてるの?今朝はあんなに幸せそうだったのに、どうしてそんなに辛そうなの、ねえお願いだよ、何か言って。


「なまえ、私は、」

嗚咽を漏らしながら聞こえる風介の声、涙で濡れて悲しみで震えている。その先は言わなくていいよ、嫌、言わないで。けれど今のこんな口じゃ言葉が出なかった。


「私は、要らない子供なのか?」


それから風介はピタリと笑わなくなった。私にも簡単な話しかしてくれなくなり、話題を続かせようと私は返事をするのに必死だった。けれどまるで私の返事などお構い無しに風介は喋りつづけた。いつも会話が成立しないまま、風介は部屋を出て行ってしまう。とても寂しい、泣いてしまいたい。
けれども相変わらず部屋を出る前に風介はこっちに振り返ると、前よりは弱々しいが私に向かってその白い手を振る。今ではこれだけが私と風介を結ぶ唯一の意思疎通、繋がりになった。いってらっしゃい風介。
そうして扉が閉まると、私は風介の為に願い事をはじめる。日に日に弱々しくなっていく風介の為に、私の願い事も増えていく。唱える回数も長くなる。お願いします、どうか風介の笑顔が戻ってきますように、風介が何も悲しまずに過ごせるようになりますように、私を好きでいてくれますように。口が痺れようが手が痛かろうが、私は願い事を唱え続けた。風介の為に私がしてあげられる事はこれしかないから。そうして風介が部屋に帰ってくるまで過ごしていると、私も日に日に弱々しくなっていった。



もう手を合わせることも願い事を唱えることもできなくて、ただただ息をすることしか出来なくなった。
とうとうある日の朝、風介が私に言った。


「なまえ、私は強くなったんだ。今から父さんにそれを示しに行くよ。」


私は分かっていたきっと風介はここじゃない何処かに行ってしまおうとしている、そうじゃないとしても、風介はもうここに戻ってこないだろう。風介はいつもの様にドアの前で振り返り、右手を少しあげて振る。悲しげで寂しげで、仄かに光る冷たい瞳は、もう私を映してはくれない。ドアが開く、いってらっしゃい、ともう言えない。願い事を唱え過ぎて、もう口が動かない、結局私のお祈りなどなんの効力もありはしなかった。
背を向ける風介が霞みゆく視界の中に入る、ああ行かないで、行かないで。口が動かないのに叫んだ所で何も変わりはしない、もとから彼に私の声は聞こえはしないのだから。
ドアが閉まり風介がいなくなると同時に身体中の力が抜けて、ゆっくり上に浮かんで行く。
もう願い事は口に出来ないけど願う事が許されるなら、次にまた目が覚めた時、声を出してみたい。言葉を奏でたい。そうして人間になって、どうか彼に合わせてください。
誰になのか何に対してか分からないがそんな風に願い事をして、最後に少し口を動かすと、声のかわりに空気がぷくりと浮かんで消えた。






100327/金魚の話