その日、いつもの場所に京一の姿は無かった。
クッションも、本の山もそのままで、京一だけがいない。隅にお弁当箱が置いてある。蓋が開けられた様子は、ない。
「――芥菜…?」
俺の声だけが、虚しく響いた。
――京ちゃん、…最近どうしとるん?
不安そうに瞳を揺らした大助に、俺は有りのままを話して聞かせた。
半ば図書館に住んでいるようになっていること。毎日弁当を作ってくれること。廊下に山積みにされている、…ぬいぐるみの事も。
けれど、京一が毎日あそこから大助を見ていたという可能性の話しだけは、しなかった。してはいけない気がしたのだ。大助の、京一の机を見詰める視線。後悔しているのだろうか。間宮さんと付き合いだした事を。京一を、突き放すような結果になってしまった事を。
「―――っ…!」
駆け出す。
言いようのない不安感。
胸のあたりが、ぐちゃぐちゃしてて、気持ちが悪い。
俺は京一が好きだ。
好きなんだ。
大助になんて渡さない。他の奴らに渡す気も、毛頭無い。あの目が見るのは、彼の大好きな本と、俺だけで良い。髪の毛一本だって、やらない。
俺はね、京一…。
―――…最低。
図書館の自動ドアが、背後で小さく音を立てて閉まる。
きつい陽射しの中、俺は馬鹿みたいに立ち止まる。数人の生徒が、不思議そうに俺を見て首を傾げ、中に入っていく。
頬を、汗が伝って行く。
遠くで鳴く蝉の喧しい声を聞きながら、俺は久しぶりに聞いた大助の標準語での台詞を思い出していた。
―――…最低、だな。俺って。
泣きそうだった。
あの、大助が。
違うんだ。違う。
最低、なのは…
「米川…?」
「――…、…から、しな」
片手に、購買で大人気のふんわりプリンが大量に入った袋を携えて、京一がいつの間にか、俺の前に立っていた。
俺の名を呼び、先刻すれ違った生徒と同じように不思議そうに俺を見る。
「こんな所に突っ立って、どうしたんだ?」
歩み寄って、やけに白い手が、俺の腕を自然に掴む。
思わず、ぴくりと肩が揺れた。それには気付かなかったのか、京一は優しげな微笑みを浮かべ、目を細めた。
今日はやけにご機嫌だな…。
何時もならそれぐらいの事は考えたかもしれない。だが、今の俺にはそんな余裕すら、無かった。
「カウンターの奴らに頼まれて買い出しに行っていたんだ。お前の分も買ってある。中で食べよう」
熱い。
京一が触れている腕が。
――…溶けて、しまいそうな程に。
自動ドアが開く音が、遠くで聞こえた。
蝉の声は、もう聞こえない。
ただ、頭の中が真っ白になっていた。
何も、考えられなくて。
「――…、…ン…ッ!」
京一の、苦しげな声が聞こえて、ようやく意識が浮上した。
色が、世界の輪郭が、戻って来る。
途端に腕に、咥内に激痛が走って、思わず腕を前に突き出した。
手に、何か触れた。
俺は…
――俺は、今、何をしていた…?
視界に飛び込んできたのは、京一だった。
誰かに突き飛ばされでもしたかのように、床に尻餅をついて、俺の足元にふんわりプリンの袋が落ちていた。
誰かに。
…誰に?
――…俺、に。
「っ、…か、芥菜」
ごめん。違うんだ。
こんなつもりじゃなかった。
ごめん。
伸ばした手は、すぐさま振り払われた。
怯えたような京一の視線が、俺を捉える。
「――俺に触るなッ!!」
…、泣きそうだ。
瞳いっぱいに、涙を浮かべて、彼は叫ぶ。
ゴメン、とも、もう言えなくて。
俺は、…その場から逃げた。
カウンターに居た奴が数人、京一に駆け寄ったのが見えた気がする。
蝉の声が、思い出したようにけたたましく響く。
頭が割れそうだった。
大助。
ごめん。
やっぱり一番最低なのは、
―――俺だったよ。
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bkm