賢いカノジョ 8
烏野からの帰路。及川は去り際に引いた手首から自らの手を優羽の指に滑らせ、もとい恋人つなぎの状態で歩いていた。優羽は何も言わない。この後にくる及川の言葉が容易に想像できたからである。
「今日、家行っていい?」
「…駄目って言ったって来るんでしょう?」
「へへ、うん。夕飯食べたら行く」
「…ん、分かった」
やはりか、と言うように、優羽は小さく溜息を漏らした、
優羽の両親は共働きで不在が多い。帰宅も遅く、22時を回ることがほとんど。それを良いことに、及川は夜、度々日向家を訪ねる。
この関係が始まったのはいつごろだったか、と、及川と分かれて一人になった帰路で考える。
たしか中3の、そう、白鳥沢から推薦が来た頃のことだった。
異例の、マネージャーとしての推薦は、みずからの実力が認められたのだと素直に嬉しく思ったが、受けるつもりはあまりなかった。自分が、及川と岩泉のいないコートのためにバレーを見ることは、これまでもこれからもあり得ない、と感じていたから。まして白鳥沢は宿敵牛若の属する学校。あんなやつにこの手腕を発揮してなるものか、と、腹に決めていた。
もしも及川達と進路が分かつというのなら、自分にとってのバレー人生はここまでだ、と決めていたのだ。
そんな時だった。岩泉は最近できたという彼女の家に行っており、優羽の家に及川が一人訪ねていた。そういったことは物心ついた頃から当たり前のように続いていることで、優羽達も親達も、彼らが互いの家を気ままに出入りすることに関して極端に無頓着だ。
その日も優羽の両親は不在で、家には優羽と及川だけ。部活を引退し、受験勉強という名目の元で優羽はパラパラとファッション雑誌をめくり、及川もまたバレー雑誌を読んでいた。
そこで及川が口にしたセリフは、ちょっとした世間話のような調子だった。
「ねえ優羽、知ってる?
最近の中学三年生ってさ、半分くらいが処女も童貞も卒業してるんだって」
「へー…え?」
優羽が思わず顔をあげ、そして赤らめたのも無理はない。その手の話は多感な中学生なら誰もがする話で、優羽にだって気恥ずかしさは覚えるものの、耐性がないわけではなかった。
しかし、半分以上が、という言葉に、優羽の脳裏には多くのクラスメイトが浮かんだ。中1の頃から同学年の男子と付き合ってるあの子も、最近の後輩の女の子と付き合い出したあいつも、まさか、運動部でまるで男に興味ないって顔してるあの子も、もしかして、徹も、はじめも…もうシたことがあるの?
そんな優羽の脳内を見透かしたように、及川はするりと優羽に近づいた。
「ねえ、俺たち、遅れてるのかな」
その言葉に、優羽は思わず安堵の表情を浮かべた。徹はまだなんだ、と。
「岩ちゃんも今頃、シてるのかな」
そしてその言葉に、妙な焦りを覚えてしまった。この年頃の子供達にとっての「遅れてる」というワードはとてつもない劣等感を覚えるもので、周囲と比べて大人びた考えをもつ優羽でさえも、その呪いにはしっかりとかかっていた。だから。
「ねえ、シてみない?今のうちに初めてを経験してたらさ、後々恥ずかしくないじゃん?」
「……いい、よ」
だから、この言葉にも、頷いてしまった。なんといっても優羽は、初めての相手が及川であることに異論はなかったのだから。
この頃には既に、胸に秘めた及川への恋心がしっかりと形作られていた。
劣等感とか、恥ずかしいから、とか、そういう建前の感情に隠れて想い人に触れる自分を浅ましく、汚く思った。同時に、手軽な性欲処理に使われたことへの虚無感と、彼の心までもが己に向くことはないのだという絶望感から、何があろうと彼に想いを打ち明けるまいと覚悟を決めるに至った出来事だった。
彼女を作っては振られ、作っては振られを繰り返す及川は、それ以降度々優羽の身体を求めるようになった。
高校に入ってからもそれは変わらず、三年となった今も、こうして関係は続いている。
岩泉の目を盗んで、いそいそと、彼はやってくる。夕食後から親の帰ってくる22時までの、約2時間程度の短い逢瀬。その短い時間は、優羽の人生を確かに狂わせていた。