「…」
竹刀が空を切る音程、身の引き締まる音はない。
黙々と振り下ろし続け、精神統一をはかる。武士たるもの鍛錬を怠ってはならない。
という理由もあるのだが、もう一つ、余計な煩悩を振り払う為でもある。
「…くそっ」
昼間に会った、京都に来てからの腐れ縁とも言える女。
取引の度に落としてみせろなどと挑発はしてくるが、実際あいつを落とせた男などいないのではないか。
仕事以上に関わるのを避けている為あの女の恋愛事情など微塵も知らないが、隊内であいつに近づいた奴は逆に落とされてあしらわれるか、落とされる前に手を引いたかだ。
幹部連中にはあまり深入りするなと言ったものの、そんなことを聞く連中でもなく。
沖田は友人として親睦を深めているようだし、原田は本気で落としに行って自分じゃ役不足だ、などとあっさり負けを認めていた。
なんだかんだであいつに仕事以上の関係を求めた事のないのは俺と斎藤、山崎、あとは近藤さんくらいのもんだろう。
色恋に現を抜かすようには見えない山南さんは、あいつの情報収集能力を高く買って以来度々店を訪れているらしい。
あいつが見目麗しいのは俺にだって十分に分かる。落とせるもんなら落としてる。
だが、あいつを落とす為に一番必要なのは、金なんかじゃなく俺があいつに同じだけ惚れ込むことだ。
だがあいつは落とした男にはおおよそ見向きもしないだろう。
あいつがどういう男を好むかは知らないが、おそらく簡単に落とされるような男はその時点で彼女の視界からははずれるのだろう。
「めんどくせえ女」
惚れさせる為には惚れなきゃならねえ。だが簡単に惚れれば面白くないとでも言わんばかりにあしらわれる。
あんな女には俺は引っかからねえ。あんなもん相手にしてる暇がありゃ竹刀振ってるほうが幾分マシだ。
「土方さん」
「あ?ああ、なんだ山南さんか」
「午前に柳屋さんの所に行ったのは土方さんでしたよね?」
「そうだが…なんかあったか?」
「料金のことについて何か言われませんでしたか?」
「…いや?あいつ金渡した時中身の確認すらしなかったぞ」
「そうですか…」
不思議そうにそう言った後、山南さんは少し笑った。
「おかしいことでも?」
「以前に若菜さんから情報を買っていた商人から情報をいくらで買ったのかと聞いてみたことがあったんです」
「…なんだ、俺たちぼったくられてたのか?」
「逆ですよ。大負けに負けていただいているんです、新撰組は」
新撰組に金の情けなんかかけてもあいつに利益なんかないだろうに、なんでそんなことを。
「こちらとしては実にありがたいことですが、もしかすると土方さんか誰かが若菜さんを落とし≠スのかもしれないと思いまして」
「…俺はあんな女には引っかからねえぞ」
「ふふ、失礼いたしました」
そう言ってから山南さんかが立ち去った後、何故か太刀を振るう気になれずに思わず屯所を出た。
「いらっしゃい…ってあら?土方はん。お取り引きは午前やてお伺いしてましたけど」
「いや、私情だ。店主はいるか」
「……お口説きにでもならはるんで?」
まあまあ、と口元に手を当てながら面白そうに聞く女はここの店で働く瀬々良という。地毛だという色の薄い髪が、揺れる度に店内の小物から反射した光で煌めいている。
すると奥からあれー!と大きな声が聞こえてきた。
「一日に二回もくるやなんて珍しい、忘れ物でもしはりましたん?」
そう言いながら寄ってきたのは朱歌だ。裏で用事を済ませてきたのだろう、少し額に汗が滲んでいる。
「いや、ちょっとな。あいつはいねえのか」
「土方はん達がおかえりにならはってすぐに伏見の方に出掛けられましたわ。なんやお友達が京に来とるとかで…今日は帰って来はらへん思いますわ」
「そうか」
「言伝でも承りましょかあ?」
瀬々良はそう言いながらニヤついている。
それを見た朱歌がえっああ!なんやそういうことでしたん!?などと不本意な解釈を進める。
「違う!俺は仕事のことでだな、」
「あらぁ?さっき私情や言うてはりませんでしたかいな?」
「……あーくそ…また来る」
「「毎度おおきに〜」」
次に来る時に2人にどんな顔で迎えられるかが想像に難くなかっただけに、俺は思わず頭を抱えた。
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bkm