三話


名前は生まれつき虚弱だった。
気の巡りが悪く、長期間に渡って続く微熱と頭痛のせいで、静養中の別邸から――というか寝台から殆ど出ることもなく生活をしていた。
今は夏で、別邸から出られない名前のために、普段は本邸で暮らす兄弟たちが遊びに来ていた。兄弟の多くが外で走り回って遊んでいたり、師から武術を教わっていたり、勉学に打ち込んでいたりするのを、見聞きする度に、名前はとても羨ましかった。
珍しく体調の良かったその日、名前の三番目の兄が「街に出てみよう」と声を掛けてくれた時は、飛び上がって喜んだ。
過保護な両親は外に出ることを許してくれず、結局三兄と邸を抜け出した時は見たこともない街への期待で胸が高鳴った。

「兄上!川があります!」
「そりゃあそうだ!藍州は水の都だからな!船は私が操舵するから、名前は酔わないように薬飲んどけ!」

そう言って渡された酔い止めの薬は、深緑をしていた。虚弱体質で薬と友達の名前は分かる。この薬はとてつもなく苦いが、きっと良く効くだろう。

「うげぇ、本当に飲まなきゃだめですか?」
「当たり前だろう!ただでさえ病弱なんだから、飲んどけよ」
「はぁい」

返事をして、深緑のコロコロした酔い止め薬を見つめる。「やれるもんならやってみな」と名前の薄っぺらい覚悟を嘲笑うかのように手のひらに鎮座している。
思い切って口の中に入れ、すぐさま水で喉に流し込んだものの、後味は最悪だ。苦いを通り越して苦しい。
薬を飲んだせいなのか、身体がカッと熱くなり、名前は思わず外套を脱いだ。

「ああ、ほら。飛沫が当たると風邪を引くから、ちゃんと外套を羽織れ」
「でも兄上、暑いです」
「それで体調悪くしたら、私が父上や母上に怒られてしまうだろ?」
「それは……分かりました」

三番目の兄は、父や母に負けず劣らず過保護だった。今回も両親には許してもらえず、名前がどうしてもと言わなければ三兄は街へ出るのを諦めていただろう。
街へ出るのに食い下がったため、名前は三兄に反論できなかった。冗談めかして父や母に怒られるとは言っているものの、三兄が面倒見の良い兄だということは名前がよく知っている。現にこうして名前を連れ出してくれているのだから。
名前は暑いのを我慢して外套を羽織ると、見慣れない街並みを見ることに集中しているうちに、玉龍に到着していた。
街を色々巡り、出店でお菓子を買って食べながら歩いたり、三兄の付き添いで鍛冶屋に行ったり、水路を行き交う舟に乗り、玉龍を一周してみたりした。

「名前、帰ったらうがいしろよ。最近玉龍じゃあ風邪が流行ってるらしいからな」
「確かに、体調悪そうな人が多いですね」
「結構重症化しているらしい。死者も出ているようだから、体調ちゃんと口を覆っておけよ」
「はい」

帰り道、そんな会話をして、兄の操舵する舟に乗って帰った。


その日の夜のことである。
それまで体調が良かったのが嘘のように、名前は高熱を出した。余りの高熱に、名前の意識は朦朧とし、はっきりとした受け答えさえ出来ないでいた。
医師を呼んで診てもらったが、回復はしなかった。このまま熱が下がるのを待つしかない。けれど、もし万が一熱が下がっても、後遺症が残るだろう。そんな風に言われ、過保護な両親は縋るような思いで名前をそっとある場所に移動させた。

「父上、正気ですか!?」
「ああ正気だとも。この子は現状では唯一龍蓮の資質を持っているのだから」
「ですが方法は他にも……!」
「名前を救うにはこれしか無い。私だって名前を龍蓮にはしたくない。けれど、龍蓮は生きているうちにしかなれない。このまま回復を待つより、よほど可能性がある」
「名前には、龍蓮は重荷だと思います」
「……そうだろうな。しかし龍蓮の可能性を秘めた者を、それも我が子を失いたくはないのだ。名前はお前たちが支えてくれるか」
「はい。全身全霊を持って支えます」

藍家当主である父が、どうやって藍仙を呼び出したのかは分からない。
けれど、名前が次に目覚めた時には、名前は龍蓮と呼ばれるようになっていた。


***


名前は貴陽を臨む丘の上に居た。
鴉が名前の真上を飛び去るのを眺めて、ここ数年欠かさずつけていた日記を開いた。
名前が玉龍を出てから、色々な事があった。
龍蓮と貴陽に来て、秀麗や影月、珀明と知り合い、茶州で一悶着有り、そこからは龍蓮と別れて各州を巡った。

「ただいま、龍蓮」
「おかえり。と言いたいところだが、今は龍蓮ではないからの。他に言うことがあるだろう?」
「貴方を追って来てよかった。黒仙に感謝しないと。最期に会ったとき、名前を聞くのを忘れてしまったから、貴方の名前を教えていただければ、嬉しい」
「黒のヤツは殴っておいたわ。なぜあやつと契約した」

名前の言葉には応えず、憎々しげに眉間に皺を寄せる龍蓮の顔をした藍仙に、名前は笑った。
最期に会ったときは、何かを堪えるように無表情を貫いていたから。
今の龍蓮との相性が良いのだろう。藍仙の表情は豊かだ。

「貴方ともう一度話したくて。龍蓮として生きていた間は、貴方は殆ど眠っていたようだから」
「それだけのために、何を代償にしたか分かっておるのか!!」
「分かってますよ。私は傲慢なんです」

一度死んだはずなのに、黒仙との契約で新しい身体を得た。
契約の対価は『魂』だった。
それだけの契約だった。死んだ人間を、黄泉路へと向かった魂を、新たな人間として生かすというのは、それだけのものが必要だったのだ。
藍仙に会って話をしたいという願いのために、名前は100年待った。藍仙が起きる瞬間とちょうど良い器がある瞬間。その両方を満たすために100年まったのだ。

「そなたの魂は、もう…」
「そうですね。そろそろ、夢に見た時間が終わるようです」
「もう、二度と巡り合うことはない。それでも……」
「それでも、ですよ。あのまま黄泉路を下っていたら、次に巡り合うのは私ではない誰かですから。私はそんなの、耐えられなかった。それに、こうやって死んだ方が、貴方の心にいつまでも残るでしょう?」

出来れば、貴方と世界を巡りたかった。
30年、共に過ごした名前の半身。貴方にとっては刹那の刻でも、名前の殆どだった。

「なぜ、そのようなことを……」
「簡単なことです。貴方が居たから生きていられた。生きようと思えたのは、貴方が居たから。そんな貴方に、ただ一言……礼を言いたかっただけ」

夢のようなひととき。
手にした日記を、藍仙に差し出した。

「この本をめくる度に、私のことを思い出してください。いつか貴方のいのちの旅が終わるその刻まで、私のことを忘れないでください」
「名前、わしは、そなたに」

藍仙はきっと、気まぐれだったのかもしれない。藍家当主に請われたから、何となく生かしてやる気になったのかもしれない。
そんな傲慢な優しさでも、名前は救われた。
名前の魂は、黄泉路へと向かうことはない。三本の脚を持った鴉が、今か今かと名前を見つめているのが気配だけでも良く分かる。

「では、またいつか会いましょう」







100年を経て死す


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