一話

長い下り階段を歩く。隣に居たはずの男は「付いて行ってやることは出来ない。ここから先は一人で行け」と言って、名前を置いて戻ってしまった。
名前は一人で階段を下りながら、ふと思った。この階段は長い。どこに続いているのか分からないほど。でも、来た道を戻れば、少なくとも戻れるのだ。
名前を一人置いて去った男の、去り際の顔が脳裏をチラつく。寂しそうな、悲しそうな、大事なものを手放す時の顔。――大事なものとは、少し傲慢だったかもしれない。
一段、一段と踏み下ろす脚が、だんだんと重くなって行く。果たして、このまま先に進んでも良いのだろうか。そんな馬鹿な考えを起こしてしまう。

名前の人生は三十と数年。人にしては短い方だった。生まれは裕福で兄妹も多かったが名前自身は虚弱体質で、季節の変わり目には必ず風邪を引くし、片頭痛持ちだし、それに幼い時一度……死んだ。
そう、一度名前は間違いなく死んだ。風邪を拗らせて、流行り病に掛かって、呆気なく。記憶を辿れば、朧げだがこの階段を下って居たのを思い出す。普通の人間だった名前は、一度死んだその日から特別な存在となって、再び生きることになった。
名前をここまで連れてきたあの男は本来好き嫌いの激しい性格で、元々あの男が起きていないというのもあるが、あの男に選ばれる者は一族の中でも少ない。
そんな男に名前は選ばれ、短い時間を生きてきた。一人の幼子を生かす為だけに目覚めた男。傲慢な優しさで、名前にささやかな時間を与えてくれた男だ。
そんな男ならば、愛着が湧くのも当然だろう。だって、選ばれたのだから。選んでくれたのだから。家族が必死に生かそうとしてくれたのもあった。けれど、名前が再び呼吸をすることが出来たのは、間違いなくあの男のおかげなのだから。

意を決して、今まで降りてきた階段を見上げた。見上げる先にも、何もない。けれど、このまま下り続けても、何もない。
ならば、上を向いていたい。だって名前はもう、生きる楽しさを知ってしまったのだから。
ひたすら上だけを向いて、階段を登り続けた。時折「下らなくてはいけない」という強烈な思いが湧き上がることもあった。でも、一度戻れたのだから、二度目だって戻れるはずだ。
下りはぼうっと降りていたから、上りで何刻何日歩いたのかなど、よく分からない。それでも、上りきった。
そこは何だかとても空気が薄くて、息を整えるのに時間が掛かった。
階段を上っていたはずなのに、気が付けば眼下は階段ではなく、高原が広がっていた。不思議に思って顔を上げると、天を突くのではないかと思う程大きな樹が一本だけ存在している。
極楽というものは案外質素なものだなぁ、なんて思い樹を眺めていると、枝で鴉が羽を休めていた。
おゥい。呼びかけると、鴉は大きく羽を広げ、名前の頭上を飛び越えて行ってしまった。
飛び去った鴉を目線で追うと、一人の男が歩いて来るのが見えた。何だかとても黒くて、余り良いものでは無いのかもしれないと思っていると、向こうから話しかけてきた。
曰く、取引をしようじゃないか、と。


***

早く休んだ方が良いと言われ、日も沈んでいないというのに寝台に入れられた。名前は身体が思うように動かせるのを感じた。
――ああ、生きている。
名前が呼び起こされたのは、義兄の龍蓮襲名の儀式の最中だった。
気持ち悪いくらいガンガンと頭が痛くなり、折角おめかしした衣裳でも何の躊躇いもなく戻すくらいには、強烈な痛みだった。
名前は藍家の人間だったが、義兄との血の繋がりは殆どない。母は藍家傍流の出で一度は嫁ぎ名前という子どもを得たが、結婚生活がうまく行かずに家に戻り、藍家当主の情けで側室として迎え入れられた。
その為、名前は藍家当主の子どもの中でも微妙な立場にいる。藍家当主やその正妻は我が子のように可愛がってくれる。実の母も、勿論。病弱だった名前は兄妹の中では可愛がられてきた方だろうことも当然理解している。
それでも、何かが欠けたように寂しくて。火が付いたように泣き出す名前を慰めてくれるのは、いつも何故か居る義兄だった。
だから、義兄の晴れの儀式の日を台無しにしてしまったことへの罪悪感で押し潰されそうだった。
義兄は気にするなと言ってくれたが、そんなの慰めになろうはずもない。何せ式の最中にぶっ倒れて、三日三晩丸々寝込んだのだから。
そのせいで、今までの名前は今の名前に吸収されてしまった。今は、そちらの方を考えなければいけないのかもしれない。
名前という子どもは、幼いながらも大人びた子どもであった。けれど、それはあくまでも大人びているだけで、大人ではなかったのだ。
二度死んで、三魂七魄の殆どを失い、欠けた部分を死にかけていたこの身体の持ち主から奪い取ったのだ。奪い取ったからこそ、この身体の持ち主は生きることが出来たのだけれど。
それでも魂魄が身体に馴染むまで、長い時間を要した。だから名前の魂は眠りながらその時を待ち、そして義兄が龍蓮となった日に目覚めた。
今までのことも、覚えている。
義兄は天つ才の持ち主だっけれど、名前は違う。今までの出来事全て覚えているなんてそんな高性能な脳の出来なんかしていなかったけれど、今はまだ覚えている。いつか忘れる日が来たとしても、忘れられない強い想いがあったことは覚えている。覚えていられる。
目覚めてからは、現状を把握したり義兄がお見舞いに来てくれたりと、病み上がりに体力を使いすぎたようで、瞼が自然と下がって来た。
眠りに落ちる寸前、誰かが頬を撫で、馬鹿めと苦笑していた気がした。





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