四片

 季節は初冬。冷たくなった風が吹き荒ぶ中、森の中を駆ける人影が一つ。

 息が上がる。戦場を駆け抜けて山に入り、ろくに呼吸も出来ないはずなのに全然苦しくないのだ。ぜいぜいという自らの呼吸の音と足音だけが辺りに響く。
 戦う前から負けると分かっているような戦が佐の初陣で有ることを不憫に思って、兄も付いてきてくれた。
 そこで佐は、取り返しのつかないことをした。判断を誤って、兄や自軍を危険に晒した。
 佐は兄が好きだ。いつもニコニコと笑って、でも人一倍義理やら人情やらを大切にして怒ったり泣いたりしている。どんな人間も見捨てない、見捨てられない人。守ると決めたら、そのためだけに頑張れる人。
 許されない失態を犯した佐の頭を撫でて「俺が何とかしてやるから、お前は心配すんな」と言える人。
 佐は泣きたくなった。佐は今、守ってやると言ってくれた兄を見捨てて逃げているのだ。走って走って、足が縺れて転んで、それでも逃げて。佐は1度も振り向かずにひたすら走った。
 長い時間走って、もういいかと思う距離まで来た時、馬の嘶きが聞こえた。
 佐はもう駄目だと思った。そうしたら、脚に力が入らなくなって、へたり込んでしまった。
 馬の蹄が立てる音はまだ小さい。今のうちに隠れなければ、と震える足腰を引きずって木陰に隠れた。幸い、まだ雪は降っていない。
 大丈夫、きっとこの馬に乗っているのは味方に違いない。山の方へ逃げる佐を見ていた名前が、捜索に来てくれたのだろう。そうに違いない。
 そうは思うものの、佐の足が震え、歯はカチカチと音を立てる。敵だったらどうしようという思いは拭いきれない。
 蹄鉄が土を踏みしめる音がだんだんと大きくなって、佐の逃げ場は更になくなった。
「誰か居るのか」
 通る声だった。低くて、まるで妖怪を統べる王のような、重くて威圧感のある声。
 ――名前兄上の声じゃない。
 佐はグッと息を堪えた。大丈夫、兄は守ると言った。約束を違えるような兄ではないのは、佐がよく知っている。でも、名前兄上はもうすでに亡くなっているかもしれない。だって、あんなに激しい剣戟があって、たくさんの人が死んでいたのだもの。
 ドサッという音がした。続いてカチャとかザッという鎧の擦れる音や軍靴が土を踏みしめる音が聞こえた。間違いなく近づいてきている。
佐の手足の震えも止まっていたし、歯も音を立てたりしなかった。
「出て来い」
 背後、すぐ近くで声がした。ああ、死ぬのか。佐はそう思った。
 死ぬにしても、失敗は取り戻す努力をしよう。佐は恐る恐る手を伸ばし、柄を握った。
 大きく1度、深呼吸をして。


 息も絶え絶えの名前は、ふと流れてきた風につられ、山へと入った。
 勝ち目は絶望的と言われた戦を覆す程には、死ぬ気で戦った。多くの人を殺した。佐もどこにいるのか、生きているのかすら分からなくなるくらい、死闘を極めた。それでも勝てたのは、宋隼凱や茶鴛洵、軍師霄瑶旋、何より妖公子戰華が居なかったからだろう。
 そして、周りから動く物がなくなって初めて、名前は佐を放り出したことに気が付いた。守ると言ったのに、名前は佐の傍を離れて剣を血で染め上げた。
 疲労の大きい馬を配下に任せ、騎手のいなくなった馬を適当に捕まえて、佐を探しに山へと入ったのだ。
 佐が山にいるという確証はない。しかし、名前は妙な確信があった。
 山の中、馬を駆けて佐を捜す。名を読んだが、返事はない。それでも諦めずに呼び続けて、山の中腹まで来たところで血の臭いが風に乗って来た。
 心臓が大きく音を立てて、まるで耳元に心臓があるような感覚さえした。嫌な予感がした。冷や汗が流れた。
 名前は蒼い剣を握り締めた。何十人も薙ぎ払った剣からも血の臭いはしたが、こちらは更に錆びついたような臭いだ。嗅ぎ取ったのは、流れたばかりの血の臭い。
 馬の腹を蹴り全速力で走らせて、名前は最悪な男と出会った。
 岩に腰掛ける男の足元には、血が。
「こいつの身内か?」
 名前はただ変わり果てた佐を見つめた。
「飛びかかって来なけりゃ、生きていたかも知れないな」
「――お前が、戰華か」
 名前は何とか言葉を絞り出した。ここで何かを応えなければ、名前は己を忘れて斬りかかっていただろう。
「そうだ」
「なら、私はお前を殺さなくてはいけないな」
 名前は馬を降りた。握り締めた剣から手を離し、外套を脱ぐ。
 戰華が不思議そうな顔しているのが見えた。
 戰華は剣を握ってはいない。戰華の様子を見て、名前は佐に近付いた。
 膝を折って、外套で佐を包む。佐は連れ帰ってきちんと埋葬しなければ、名前の気が済まない。少しの間目を離したせいで、佐は命を落とした。守ると言ったのに、名前は約束すら守ることが出来なかった。
「お前、名は」
「旺名前だ。自分を殺す相手の名くらい覚えておくんだな」
「名前か。お前に俺が殺せるのか?」
 名前は佐を馬に乗せた。馬の手綱を強く引き、馬を帰らせる。頭の良い馬なら、元きた道を戻ってくれるに違いない。山を降りれば配下の者も居るだろう。
 戰華と本気で戦えば、恐らくどちらかが死ぬだろう。もしもを考えると、佐をここに置いて行くようなことだけはしたくなかった。
「――殺せるか殺せないかじゃない。殺すと決めたんだ」
「面白い。殺すには惜しいな」
 名前は蒼剣を抜いた。戰華も腰掛けていた岩から降りて剣抜いた。
 一足飛びに間合いを詰めて、斬りかかる。剣にはそこそこ自信のある名前だが、油断するとこちらが死ぬ相手だ。
 戰華は名前の一振りを受け止め、力で押し返す勢いで切りかかってきたので、名前は飛び退いて躱した。
 しばらく睨み合いが続いた。相手の一挙手一投足を見逃さぬよう、神経を張り詰めた緊張感が漂った。
 2人が動いたのは同時だった。剣を交え、時には蹴りが入りながら、2人は戦った。
 戰華の一振りを名前が受け止めたところで、戰華は「どうやらここまでのようだな」と告げた。戰華には黒狼が付いている。先ほどまでなかった辺りに立ち込める殺気に、名前も大人しく身を引いた。
「名前か。お前、俺に付いて来ないか?」
 剣を仕舞い、戰華は言った。
「それだけは御免被る」
「朝廷に付いたままだと、死ぬぞ」
 名前は握ったままの剣を鞘に収めた。あちらに戦う気がないなら、こちらも争う理由はない。が、戰華だけは殺さなくてはならない。それはそう命令されているからでもあるし、名前の私怨でもある。本当なら今すぐにでも殺したいが、名前自身疲労が大きい。今これ以上戦っても勝ち目はない。
「死ぬだろうな。しかし、私は旺家として死ぬ。旺家三男、旺名前として生きて死ぬ。それだけは貴様にも譲れない」
「本当に、惜しい」
「ここで剣を交えたことは他言無用だ。こうして話したこともな。――もう、会うこともないだろう」
 名前は戰華に背を向けて、土を踏みしめて歩き出した。戦う気がないと分かったのか、先ほど感じた殺気はもうしない。
「会わないのか」
 戰華がそう呟いた。振り返らずとも分かる。戰華は笑っている、それもにやにやと笑っているに違いないのだ。それが無性に腹が立った。大体名前は戰華より大分年上なのに、なぜこうも対等に扱ってやらねばならないんだ。歳下は、護るものなのに――。
 栗花落も、護られてはくれなかった。
 だからこそ、
「元気で生きていると分かれば良い」
 名前は今度こそ山を下りた。佐の亡骸をきちんと埋葬してやるために。


「兄さん……!」
 ひとすじ、涙が零れた。


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