亡姫

「姫、風邪をひいてしまいます」
「……分かっております」
露台から庭を眺めていると、燿世がやってきて上掛けをそっと肩に置いてくれた。
この国に来て十年、燿世の邸の居候になって十年。名前はもう二十になった。そろそろ嫁き遅れと呼ばれる歳になってしまった。
「燿世様」
「はい」
「わたくしの縁談はまとまりそうですか」
「いえ、まだ。姫の身分に合う者が中々見当たらず……」
「――そうですか」
なるほど亡国とは云え、名前は一国の姫だ。身分の釣り合うものは限られてくるだろう。それも未婚となれば尚更だ。しかもこの国は直系の王家は主上一人だけ。
名前はゆっくりと目を伏せた。目を閉じれば思い返すのはこの邸での、燿世との思い出ばかり。
庭を走り周り、垣の後ろに隠れ、それを寡黙な燿世が慌てて追い掛ける。この庭にはそんな思い出がある。
名前は燿世のことが好きだった。初恋だった。この感情が本当に恋なのか、それは名前には分からないけれど、とても穏やかな恋だった。
燿世はこまめに帰ってきてくれるし、燿世の幼なじみの雷炎も、時々やってきては名前を構ってくれる。
外の世界では色々あったようだし、それは国を追われた名前にとっても苦しく哀しいことだったが、この箱庭の中だけはとても穏やかな十年だった。
そして名前も年ごろになった。
なぜ、気付いてくれないのだろう。身分的に釣り合う男なら、名前の隣にも居る。彩七家の出身で名前をよく知り、名前もよく知る男がこんなに近くに居るというのに。
「もし、嫁ぐことになったら……燿世様は喜び、祝ってくれますか」
「ええ、勿論です、姫」
「そうですか……」
優しくて酷い人。



「おう燿世、姫さんの縁談まとめてるんだって?」
「……」
「あ? まとめたくてまとめてるんじゃないって? そりゃあ、てめぇがぐずぐずしてるからだろーが――ぎゃー! おい馬鹿やめろ!」
いきなり後ろから襲い掛かるように肩を組んできた雷炎に、燿世は静かに怒った。
とりあえず腰に刷いた剣を抜き、雷炎に切り掛かる。雷炎も燿世と同じく将軍を任されているだけあって、軽い身のこなしで避ける。それに苛ついて足払いをするが、避けられる。雷炎も負けじと剣を抜き構える。じりじりと静かに間合いを詰める。素早く繰り出された雷炎の一撃を一旦後ろに下がって躱し、踏み出して一気に間合いを詰めるが、雷炎も後退する。
そんな攻防を半刻も続けていると、当然のように野次馬で生け垣が出来ていた。ここまで事が大きくなれば、あの人が気付かぬはずがない。
「儂も混ぜろ!」
そういってやってきたのは、宋太傅だ。相変わらずの戦闘好きである。雷炎もだが、宋太傅は相当の脳筋だ。
「宋太傅! いや、これは俺と燿世の喧嘩であって……」
「……」
燿世も頷く。
はて、なぜこのような喧嘩に発展したのだったか。
「儂が混ざってはいけない理由でもあるのか!」
「あー、いやそれは……、そういやどうしてこんなことになったんだっけ、燿世」
「……姫」
「ああ、おまえんとこの姫さんの縁談の話か」
「おお! 名前殿は息災か」
「はい、おかげさまで」
名前のことを案じてくれる宋太傅に、燿世は心からの礼を告げた。もしかしたら、少し口角が上がっていたのかもしれない。雷炎が「分かりやすすぎ」などと言っていたから。
そろそろ、本格的に切りにいかねばならない。



数日、燿世は帰ってこなかった。
遠征などの予定は無かったはずだが、そんなに忙しいのだろうか。もしかして、何か不測の事態でも起きて帰れないのだろうか。
家人たちはこぞって心配ないと言うが、名前は心配でたまらなかった。
普段から何も告げずに数日帰ってこないということはよくあるが、家宰に聞けばどこそこに遠征に行っているとか、警備が連日入っているとか、何かしら答えてくれる。しかし、今回は家宰も困ったように、嬉しそうに笑って「姫さまは何も心配いりませんよ」と言うだけだ。
その言葉に、すごく複雑な感情を覚える。吉事だが私に言えないようなことでもあるのだろうか。だとしたら、それは――燿世の縁談かもしれない。
燿世は名前が嫁ぐまで婚姻しないつもりらしい。あの歳で結婚してないとは言え、彩七家で左羽林軍の将軍を努める男だ。縁談などすぐにまとまるだろう。
燿世の縁談では無くても、名前の縁談がまとまったのかもしれない。
「……そろそろなのかしら」
燿世を諦める時が近づいているのだろうか。
人の気配に顔をそちらに向けると、侍女がちょうどやってきたところだった。侍女は礼をして入ってくる。
「名前姫様、旦那様がお帰りになられました」
心臓が跳ねた。
「分かりました。すぐに行きます」
そういって立ち上がり髪や衣服を軽く整え、燿世の書斎に向かう。
名前が済むのは離れだ。年ごろの娘が、家人が居るとはいえ男と一つ屋根の下というのはよろしくない。ましてや名前は一国の姫だったので、姫としての体裁は整えなければいけない。叩かれて出るような埃があってはいけないのだ。
渡り廊下を歩いていると、向こうから燿世がやってきた。
「お帰りなさいませ、燿世様」
「ただいま戻りました。――姫、お時間がよろしければ四阿にでも」
「ええ、是非」
名前は燿世に連れられて、四阿へと向かった。
恐らくそこで何がしかの報告があるだろう。名前は顔を伏せた。どうしても燿世の特別な人にはなれないのだろうか。
四阿へは設けられた通路を通る。その距離が長くも短くも感じられた。
「姫」
「燿世様、お話があるのでしょう?」
「ええ。その前にどうか私の隣にお座りください」
「――わかりました」
未婚の男女が隣り合って座るなんて。いや、名前が幼い頃は隣に座ることくらい何でもなかったが、いくら居候と家主とは云え、名前は年ごろの女だ。しかも、はしたないことはしてはならないと厳しく仕付けられた滅んだ国の姫。
茹であがるのではないかと思うほど、身体が熱い。
「そ、それよりどのようなお話でしょう」
「ええ、姫の縁談がまとまりましたのでお伝えしなければと思いまして」
燿世の言葉は、鈍器で頭を殴られるような衝撃だった。一気に血の気が引いて、それなのに心臓がばくばくと音を立てているのがよく聞こえる。喉がからからに乾いて声も出ないくせに、涙はあふれそうになった。
「お、お相手の方は、どのような……」
やっと絞りだした声は震えていた。
「貴方もよく知っている者です」
「そ、そんな方おりません。このお邸を出たこともないのに、私の知る方だなんて」
一瞬雷炎の顔が横切ったが、すぐに違うだろうとかき消す。雷炎は名前の思いを知っているはずだ。縁談を受けるはずがない。
燿世が手を伸ばして、名前の手を握った。
「名前姫」
「は、はい……」
「名前姫は、私のような若輩者との縁談を受けてくださるでしょうか」
「――え? あ、あの燿世様、どういう」
「私は、貴女と生涯をともにしたいのです」
名前は驚いた。まさか燿世がそのようなことを言うなんて、夢にも思わなかった。燿世が名前のことをそのように思っていたなんて。
「お返事は、いただけないのですか」
「い、いえその、私も燿世様と、生涯をともに過ごせれば嬉しく思います!」
感極まって、涙がこぼれそうになったので、慌てて顔を伏せると隣に座っていた燿世に抱き上げられた。
「……愛しております。私だけの姫になっていただけるのですね」
「私で、よろしければ……」
「愛しているとは言ってくださらないのですか」
「あ、愛して、おります燿世様」
名前はとうとう泣きだしてしまった。化粧は崩れるだろうが、そんなことどうでも良いくらいに、嬉しかった。



「名前」
「はい、燿世様」
名前が笑うので、燿世も笑う。燿世は驚くほど無口な男だが、名前と話す時は口数も多い。
そんな様子を、普段の燿世を知っている人は見たことが無い。けれど仲睦まじさは周知の事実だった。


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