堕帰

風が吹く。長年伸ばした髪が風に巻き上げられる。巻き上げられた髪の一房を耳にかける。隣に立った人が言った。
「どこに行くのか」
私はそれに答えなかった。答えてやるのは、癪じゃないか。
「――空が、綺麗だね」
「ああ、明日は晴れるだろう。綺麗な夕焼けだから」
日が落ちていく。それを隣の男と眺めながら、私は言う。
「叶うなら、此処ではないどこかに行きたいよ。此処ではないどこかも、空は同じ色をしているだろうか」
「行ってみるか」
「いや、私は此処から出られるなんて思っていないんだ」
泣きたい気分だった。


「大丈夫か? 名前」
目の前に映し出された、見目麗しい男の顔に私は一瞬心臓が止まったかと思った。
男は、私の知っている者だった。一緒に国試を受けた仲間。そしてこれからは同僚だ。
「いや、何でもない」
「ひどく考え込んでいたが」
「ああ。なに、これから大変だろうと思ってな」
私はそっと眼を閉じた。現実から目を逸らしたかった。そんなこと、到底出来やしないけど。
眼を開くと、そこにはまだ見目麗しい男の顔があった。ひどく、憂鬱な気分になった。
「なぁ、鳳珠。私が女だったらどうする?」
「どうするも何も、名前は男だろう」
「そうじゃ、なくてさぁ」
堅物め、と呟くと聞こえたのか、見目麗しい男が眉間に皺を寄せた。そんな姿も美しいとは、世の中不公平だな。
「男でも、女でも、名前は名前だろう」
「――違うよ。男の私と、女の私は別物だ。顔も形も違ければ、性格だって違う」
男の艶やかで癖一つない髪を一房とる。
「私は私だ。でも、男の私と、女の私が同一だとは考えられない」
絹のような黒髪に、唇を寄せる。
「なぁ、鳳珠」
男は嫌がらない。
「私とともに、居てくれないだろうか」
私は、堕ちる。


「いいのか」
「此処ではないどこかに帰るときが来たようだ」
「いいのか」
「戯言だよ」
手を握り締める。真っ赤に染まった手を。
「いいのか」
私は、嗤った。


手足が動かなくなるのを感じた。
たくさんの人が目の前に居て、私は笑った。
どうして、と言う人が居たけれど、そんなの知った事ではなかった。
そんなの、こっちが聞きたい。
壮年の身なりの良い男が目の前にやってきて、振りかざした。
私は、戻ったのだ。


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bkm
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