酷い。
私の事なんて、何とも思ってないんでしょう。
酷い、酷いわ。
「お久しぶりですー」
「名前さん!」
ふわり、と笑う名前に秀麗は顔を赤くした。
相変わらず、かわいらしい。
「実は、お願いがあってー」
「お願い、ですか…?私に出来る事なら」
「まぁ、ありがとうございますー」
ふわふわと笑う名前に、ついこちらも笑ってしまう。
名前はそういう雰囲気を持った、不思議な女性だった。
胸の前で嬉しそうに手を合わせた名前が、長官の奥さんだなんて未だに信じられない。
「ふふ、実はですね――」
「ええ!そんな事するんですか!?」
「もちろんですわー。わたくし、やると決めたらやる女ですものー」
秀麗の耳もとで語った内容は、秀麗にはとても実行できないような内容だった。
しかし、それにしても、何でそんな事がしたいんだろう。
長官の溺愛振りをみれば、お邸で嫌な事などあるわけがない。
長官が名前の嫌なものは排除しそうだから。
「わたくしにだって、許せない事があると思い知らせてあげるんですのー」
名前さんの笑顔には、我慢の限界だと書いてあるような気がした。
ほわほわとしている笑顔だが、やはり晏樹の妹だと思い知らされた。
「秀麗様、ここは一つ協力していただけないでしょうかー…?」
「ううっ」
うるうるとした瞳、上目遣いで見つめられる。
放っておけない…!!
秀麗はとうとう折れた。
「わ、分かりました…」
頷いてしまった秀麗は、ガクッと肩を落とした。
「秀麗様、秀麗様ー。こちらの桜、可愛らしいですねー」
「ええ。貰い物なんですけど…」
「だから、この一本だけ背が低いのですねー。これはもうそろそろ咲きそうですねー」
劉輝から貰った桜を眺めながら、名前が言った。
これで、桜が咲いていたら、凄く絵になっただろうと思う。
そう思うと、我が家の庭に桜が咲いてないのが酷く恨めしく思えた。
「秀麗様、無理を言って申し訳ありませんー」
桜を見ていた名前が、こちらを振り向いて言った。
彼女が秀麗の家に居候させてくれ、と言ってきたのだ。
それは別にいいのだが、長官にバレた時はどうなるのだろう。
それを考えると、冷や汗が背中を伝った。
「気にしないでください。私は名前さんとお喋りできて嬉しいです」
秀麗がそういうと、名前は泣きそうな顔で笑った。
何が、あったのだろう。
「ありがとうございます。本当に…」
しゅんと背中を丸めて、名前は言った。
あまりにも悲しそうだったので、つい抱きしめてしまった。
「大丈夫、ですか?」
「お優しいんですね…。羨ましい…」
小さな声に、不安になった。
名前の顔を覗くと、名前はくりくりとした大きな瞳を寂しそうに伏せ、泣いていた。
先ほどまで、あんなに笑っていたのに。
「秀麗様、わたくし――醜い女なんです。先日だって、皇毅様が秀麗様を気に入ってらっしゃると知って、嫉妬したんです」
「それは、誰にもあることじゃないですか?」
「わたくし、今までは許せて来ました。皇毅様が花街に行ったって、もちろん、仕事だからですが、許せてきたんです。でも、秀麗様が皇毅様の近くにいる人だと知ったとき、どうしようもないほど悲しくなって」
はらはらと涙を流す名前に、秀麗はどうして善いか分からなくなる。
こんな事、初めてだ。
慰め方なんて、知らない。
だから秀麗はどうしていいかわからなかった。
「その…」
「皇毅様は、朝廷でのことを話してくださいません。だから、不安なのです」
「それは、仕方ないんじゃ…」
御史台長官ともなれば、話せない事だってあるだろう。
でも、名前が言っているのはそういうことじゃないんだろう。
名前は桃色の肌を流れる涙を袖で脱ぐうと、顔を上げた。
赤く腫れた目元が痛々しかった。
「ごめんなさい、秀麗様。こんな事本人の前で言う事ではありませんねー。わたくし、秀麗様のことは尊敬しておりますのよー」
「は、はぁ」
「秀麗様ー。愚痴を聞いていただいたお礼に、何か作りますわー。お菜でも、お裁縫でも――何がいいかしらー?」
そういって、にっこりと笑った名前に、秀麗は安堵した。
先ほどまでの悲しげな雰囲気など、嘘のような笑みだった。
「じゃあ、お菜でも…」
「そうねー、そうしましょうー。わたくしはとりあえず、買い物をしてきますので、その間はゆっくりしていてくださいねー」
「わ、分かりました」
名前は一息で言い切ると、秀麗に一礼して買い物へと出かけた。
――道、分かるのだろうか。
「あ、名前さん!ちょっと――」
心配した秀麗は、名前を追いかけた。
「名前さん!」
「秀麗様?休んでいて結構でしたのにー」
「あ、その…道大丈夫かなーって――」
秀麗がそういうと、名前は目を少し見開くと、にっこりと笑った。
でも、少し泣きそうだ。
「心配してくださったんですねー。わたくし、こう見えてもちょくちょく街で遊んだりしていましたのー」
「あ、そうだったんですか」
「ええ、でもこの区域はあまり来たことがなくてー。よろしければ案内してもらってもー?」
秀麗は感動した。
名前はなんて優しい人なんだろう。
相手をたてるのが上手いのだ。
「それでは、買い物に行きましょうー」
名前は秀麗の手を取って、歩き出した。
肌理の細かい、すべすべとした肌だった。
「秀麗様は、家事をしていらっしゃるんですねー」
「分かりますか?」
先を歩いていた名前が振り返ってもちろん、と言った。
よく見ているのだろう。
「本当ならわたくしも家事をしたいのですけど…、家人にも止められるんですー。おかげで手が荒れることも少なくなりましたのー。こう見えて、兄上と暮らしていたときは家事は一通りやっていましたのー」
「名前さんが?」
「ええー。兄上はあんなでしょうー?それに、兄上に喜んでもらいたくて、その一心で家事をしておりましたわー」
皇毅様と結婚するまでは、と付け足すと、恥ずかしそうに笑った。
やっぱり、名前さんは笑っていたほうがかわいらしい。
「皇毅様は口数は少ないですけど、わたくしのことを心配してくれているんだって、分かりましたからー」
長年の付き合いの賜物ですねー、と名前が言うと、丁度八百屋が見えてきた。
名前は秀麗の手を引っ張ると、どんな野菜が好きか聞いてきた。
「筍、茄子、大蒜…」
(どんなものが出来るんだろう)
「やっぱり大根がいいかしらー」
「こっちのほうがおいしそうじゃないですか?」
秀麗がそういうと、名前はすみません、と謝った。
どうして謝られたんだろう。
「わたくし、鮮度がどうとか分からなくてー」
情けない限りです、としょんぼりする名前に、秀麗はある提案をした。
「じゃあ、これから一通り見ながら覚えていきましょうよ」
「お、教えてくださりますかー?」
ええ、と秀麗が思いっきり頷くと、名前はありがとうございます、と抱きついてきた。
柔らかい…。
長官がご執心なのもわかるかも、と内心思った。
「胡瓜はトゲトゲしているほうがいいんですよねー?」
「そうそう。茄子は皮に艶があって、ヘタがピンとしていてチクチクするくらいのものがいいですね。白菜は葉が固く巻いて、ずっしりと重みのあるもの」
「うう、覚えられませんー」
名前は唇を少し尖らせていうと、桃を取った。
晏樹にでも買って行くのだろうか。
「あ、名前さん!桃は傷みやすいので、あんまり触らないほうがいいですよ」
「桃は、表皮が白くて、うぶ毛があるほうが甘いんですよねー?」
「そうです。晏樹様から?」
「ああ、兄上は桃には五月蝿いですからー」
そういうと、名前は桃2個分のお金を払った。
「あとで、一緒に食べましょう」
「ええ」
とりあえず、一通り買い物は終ったため、帰ることにした。
「秀麗様ー!出来ましたわー」
「わ、凄くおいしそう!」
彩りもキレイな菜だった。
名前さんが菜を作れる事にも驚いたが、そのおいしそうな菜にも驚いた。
「桃も剥いてありますわー」
「こっちもおいしそうですね」
そんな話をしながら、菜を運んだりしていると、静蘭が帰ってきた。
知らない人間がいて、驚いたようだった。
「お嬢様、このお方は…」
「はじめましてー。名前と申しますー」
「は、はぁ…」
ふわり、と微笑んだ名前に、静蘭も毒気を抜かれたようだ。
恐るべし、葵皇毅の妻。
「葵皇毅の妻をやっていたりしますー。秀麗様にはいつもご迷惑をかけてしまって、静蘭様も気苦労の絶えないことと思います」
「そりゃあ、まあ」
「そんなことより、静蘭も席について!今日は名前さんが作ってくれたの!」
秀麗がそういったとき、名前の微笑みが凍った。
「まあ、でしたらもっと沢山作るべきでしたー。育ち盛りですものねー」
「大丈夫ですよ、これぐらいだったら足ります」
「そうですか?」
こてん、と小首を傾げる名前に思わず微笑んでしまいそうになった。
静蘭も、今まで回りにいなかった性格に、困惑しているようだ。
「じゃあ、食べましょうー」
そういって、名前は席に着き、箸を取った。
菜を口に運び、ぱくりと食べると、名前は頷いた。
「あ、おいしい!」
「本当ですね」
「お二方に喜んでもらえて、嬉しいですわー」
頬を桃色に染めて、名前は笑った。
そして、少し寂しそうな表情をした。
「あの、どうかされましたか」
「何でも、何でもないのです。ただ…」
「「ただ?」」
「兄上に早く結婚してもらいたくて…いえ、何でもないのですー」
まあ、あの年で未だに独り身じゃ、妹も心配したくなるだろう。
けれど、何か誤魔化された感が否めない。
名前の泣き顔が、秀麗の脳裏を横切った。
「! お嬢様、誰か来ました」
「父様じゃないの?」
秀麗の問いに、名前が震えた。
怖いのだろうか…。
「秀麗様、申し訳ございません…。わたくしの所為でこんな事になってしまった…」
「心当たりでも…?」
コクン、と名前は頷いた。
そうか、心当たりがあるから、怖がっているのだ。
思考がそこまで行き着いたとき、名前が席を立ち、表へと走っていった。
「名前さん!」
走り去った名前のあとを、静蘭が追った。
どうしたというのだろう。
そんなことを考えながら、秀麗も静蘭を追った。
「げ、長官!」
秀麗が、静蘭に追いついたとき、そこには皇毅と皇毅に抱きついている名前がいた。
皇毅は秀麗に気がつくと、不機嫌そうに眉間の皺を増やした。
「コレが世話になったな」
皇毅はそれだけ言うと、抱きついている名前の腕をやんわりと外し、鈴麗を抱きかかえた。
けれど、名前が首を横に振ったため、皇毅は立ち止まった。
「どうした」
「わたくし、家出中なんですわ。皇毅様のお邸には帰らないと決めましたの!」
いつも穏やかな名前が、珍しく言葉を荒げた。
皇毅自ら迎えに来るほど愛されているというのに、何が気に入らないんだろうか。
「どうせ、どうせわたくしのことなんかどうとも思っていないのでしょう!偶々一緒に住んでいる女がいなくなったから、探しに来ただけなのでしょう!」
名前は皇毅の胸を、細い両腕でぐいぐいと押した。
皇毅は、名前の言葉に眉間の皺を更に増やした。
いつもより、声を低くして、皇毅は言った。
「だったら家人を寄越す。――帰るぞ」
「嫌です。どうしてもとおっしゃるのなら、実家に帰ります」
「晏樹の所にか」
『実家に帰らせていただきます』という言葉は長官にも聞くのか、と秀麗は暢気に考えた。
そっと静蘭に目配せをして、邸に入った。
自分達が入る話ではない。
「兄上は、お優しいです。いつもわたくしの事を案じてくださいます」
「兄妹なのだから、当然だろう」
「皇毅様は、皇毅様は、わたくしの事を案じてくださいません」
名前は酷く悲しそうに、震える目を伏せた。
皇毅は、違う、とだけ言って抱きしめた。
「仕事をしている間だって、心配で仕方がない。晏樹がやってきてはお前の話をしていく。そのたびに嫉妬する」
「お話し相手は兄上くらいしかおりません」
「それでも、私がいない間にお前が晏樹を邸に入れているかと思うと、苛々する。本当だったら、邸の奥深くに閉じ込めておきたいくらいだ」
皇毅は、腕の力を強くした。
名前が苦しそうに皇毅の顔を見た。
間近にある顔に、恥ずかしくなったのか、皇毅の腕の中でもがいている。
「――お前を見るたびに欲情する」
「それが、嫌なのです」
名前は動くのをやめると、俯いていった。
「家事がしたいです。外で遊びたいです。でも、その――皇毅様は夜の方を激しくなさるから…」
「外に出したくない。お前が私以外の男の目に触れるのだと思うと、気が狂いそうになる」
「分かっています。でも、もう少しわたくしの事を考えてくださいまし」
名前は堰切ったように泣いた。
言いたい事を言えて、すっきりしたようにも伺える。
けれど、やはりその瞳は悲しそうだった。
「皇毅様に求めていただけなくなるのも、嫌です。わたくし、嫌な女なのです」
「それくらいが私には丁度いいだろう」
皇毅は意地悪く、笑った。
そして、名前の顎に指をかけ、上向かせた。
噛み付くような口付けに、名前は酔いしれた。
許してくれるのだ、受け入れてくれるのだと思うと、再び涙が溢れた。
葵華
(皇毅が愛する華)