さあ、物語が動き出した

楽しいか、と聞かれたら、退屈だったと答えるしかない。暇をつぶせる物と言ったら勉強くらいしかなかった。だから暇潰しとして、せっせと勉強した。本当は余りにも暇で、洋書の類なども読んでみたかったのだが、戦後まもなくのためか、どこにもなかったのだ。というより、紙がなかったのだ。
まあ、そんなわけで私は人生色々損をしているのだ。前世の記憶があるからといって、何が役に立つという訳でもない。役に立ったのは勉強くらいで、あとは私の前世と同じ時代に生まれなければ到底役に立つとは思えないようなものだった。
この時代で、パソコンが携帯が液晶テレビが、と騒いだところで役に立たないどころか、変人呼ばわりされて社会から隔離されるに決まっている。ここはそういうシビアなところなのだ。

「中野、ですか」

京極堂という人の話を聞いて、まず思ったのが、中野からどうやって帰ろう、ということだ。神保町からなら乗り換えは1回だが、中野からの帰り方など分からない。一度新宿まで出て、山手線で帰るとか、よく分からない経路を使わなくてはいけない。
それは面倒だなぁ、と思わず漏らした。それを聞いていた榎木津さんが僕が送ってあげよう、と名乗り出た。親には昨日のこともあって遅くなるかもしれない、と言ってあるから大丈夫だろう。送ってもらうのも構わないが、村の人に勘違いされるのは嫌だし――うん、困ったなぁ。

「それで、その京極堂さんにはいつ頃着くんですか」

「春ちゃん、時間はたくさんある。焦らなくていいぞ」

「そうじゃありません。自分がどの辺りにいるのか知りたいだけです」

そうかそうか、と榎木津さんは頷いた。これは絶対分かってないな。そう思いながらも、神田まで歩いて、そこから電車に乗る、という行程を私は大人しく付いていった。
神田で切符を買い、駅員さんに見せて、切符を切ってもらう。こんな時、自動改札の有難みを感じる。急いでいる時だってピッとタッチさせれば終わりだ。今更ながら、当時の技術力の高さを思い知った。

「春ちゃん、そんな縦長い箱はどうでもいい。早くしないと乗り遅れるぞ!」

榎木津さんの言葉で、私は現実へと帰ってきた。いけない、いけない。偶にあるのだ。ホームシックという奴だろう。私は前世が恋しくなる。
私はこの時代で大切なものは何一つ作らなかった。この時代に生まれ落ちたとはいえ、私はこの時代にずっと留まるつもりはなかった。早く、早くあの雑然とした世界に戻りたかった。

「春ちゃん、行くぞ」

そういうなり、榎木津さんは走りだした。電車が来ている。おそらくはそれに乗るためだろう。でも、もしかして、考えないようにしてくれたのだろうか。
もし、もしそうだったら、とてつもなく嬉しい。

「間に合ったな!」

乗った瞬間、がたん、と音がして揺れた。突然のことで踏張ることが出来ず、榎木津さんの方へ倒れてしまった。正直、やばい、と思った。が、榎木津さんがしっかりと捕まえてくれた。華奢なのに、そういうところは男なのだと思ってしまった。

「大丈夫かい」

「え、ええ。ありがとうございます」

ぱちり、と一度瞬きをした。まさか支えてくれるとは思っていなかったので、驚いたのだ。
榎木津さんは座ろう座ろう、と子どものようにはしゃいでいた。出会って二日目で大体の性格が掴めてしまった。外見と中身が一致しない人だ。きっとこの人はどこでもこういう風に振る舞っているのだろう。それが少し、羨ましかった。私なんて(意図したわけではないけれど)表裏がある。それも大きいのが。

「春ちゃん、着いたぞ!」

榎木津さんは座席からすくっと立ち上がると、まだ座っている私に手を差し出した。掴まれ、ということなのだろう。私は遠慮なく手をつかみ立ち上がった。

「ありがとうございます。意外と紳士的なんですね」

「ふはははは、神だからな!」

「そうなんですか」

これ、この人の性格が知らなかったら絶対気の触れた人だと思ってたよ。それほどまでに、この人の存在は危ういということなのかもしれない。どうやら、周りの人が受け入れて接しているようだ。いや、もしかしたら、周りの人はこの人の何かに惹かれているのかもしれない。
私には、そんな人はいない。只でさえ“村”というものは排他的だから。受け入れてくれても、それは表面だけで、きっと村八分にされてしまうことは分かり切っている。

「ここが中野ですか。初めて来ました」

駅を出れば、そこは今まで見てきた駅とは少し違った。神保町の雰囲気でも、地元の雰囲気でもなかった。なんとなく、新しい世界に来たような気分になった。

「春ちゃん、ここから京極堂のところまでは少し歩くからな! 迷子にならないように」

「流石にそこまで子どもじゃないですよ」

私はそう言って笑ったが、実際は苦笑いだ。精神年齢は貴方と同じくらいなんですよ、と言ったら驚くだろうか。この人なら、驚かないような気がする。

「さあ、行こう!」

「はい。――って、その手は何ですか」

「春ちゃんが迷子にならないようにだ!」

ぱちり、と瞬きをした。効果音を付け加えるなら、きょとん、という感じだろう。榎木津さんはもろに私の意表を突いてきた。
榎木津さんの差し出した手を見る。先程は紳士だなぁ、と気にしなかったが、今回は違う。そもそも手を繋ぐというのは恋人同士がすることであって、健全な仲――出会って二日目でこういうのもどうかと思うが――なのであって、わざわざ手を繋ぐ必要性はないように思う。
そんなふうに内心ぐだぐだと考えてフリーズしたままでいる私に痺れを切らしたのか、榎木津さんは私の腕を掴むと、勝手に歩きだしてしまった。
榎木津さんとは言え、美人と手を繋ぐのは恥ずかしすぎる。赤面するのを抑えようとすると、自然と無表情になっていくのを感じた。顔は無表情でも、体温はどんどん上がるし、手汗は出るわできっと凄いことになっているだろうと、さらに恥ずかしくなって、恐らく榎木津さんも気持ち悪がっているに違いない。
どんな道を通ったのかも覚えていない。ただ、動悸が急に速くなって、驚いたのは覚えていた。心臓破りの坂でも上ったのだろうか、それすらも覚えていなかった。

「――達筆ですね」

そこら辺から持ってきたような板に、達筆――なのかどうかは私にはよく分からない――な字で“京極堂”と書かれていた。その店の前には、これまた同じような板に“骨休め”と書かれていた。その表現に思わず笑ってしまった。
榎木津さんに、手を離してもらって、無遠慮に中に入っていった榎木津さんの後を追った。

「春ちゃん、店の主人はこっちにいるぞ」

「あ、はい」

京極堂は古本屋だった。いや、もっと正確な言い方をすれば、古書屋だった。古本屋、といえば前世の大衆向けの中古本屋を連想してしまうが、京極堂は神保町の古書屋のように、専門があるようで、ざっと題目を見たところ、和書漢書が多いようだった。
何冊か、買っていこうかな、と思う。読みやすそうな物を何冊か見繕って、勉強の合間に読もう。こういう時、この時代に生まれてよかったな、と思う。前世では手に入らないような本がたくさんあるし、何より前世では無くなっていた人物が、今この時を生きているのだと思うと、胸が躍った。

「春ちゃん、こっちだ。早くしなさい」

「あ、すみません」

謝って、榎木津さんの方へと爪先を向ける。少し行儀が悪いかな、と思いつつもなるべく音を立てないように走った。榎木津さんは居間で寝転がって、縁側の方へ頭を投げ出していた。誰かいるのか、と机の奥へ視線を向ければ、本に囲まれるようにして座っている人がいた。
その人は、顔色が悪く痩せていて、何か患っているのではと疑うほどだった。不機嫌そうに眉根を寄せて、榎木津さんを睨んでいた。この人は苦労が多そうだ、と思いながら、ペコリと頭を下げた。

「君が榎さんが話していた春子さんだね」

「ご存知で……?」

昨日、散々聞かされてね、とお化けのような人は言った。
何を話したんだろう、と榎木津さんを見るが、当の榎木津さんはぐうぐうと寝ていた。

「改めまして、水崎春子です」

「中禅寺です」

ぐうぐう、と榎木津さんの寝息が聞こえた。榎木津さんは私を此処につれてきてどうするつもりなのだろうか、と無表情の裏で必死に考える。






(さあ、物語が動き出した)


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