恋水

「喜久」
「なあに?」
「……いいえ、何でもないわ」
春子は言葉に詰まり、そっと眼を伏せ息を吐き出した。心臓がばくばくと音を立てている。
春子の恋人は司喜久男という男で、貿易関係の仕事をしているらしい。らしいと云うのも、このことを教えてくれたのは司ではない。司は春子に仕事のことは云わないからだ。
ご丁寧にも、司のことは司の浮気相手が教えてくれた。その女性は出るところの出た、器量もスタイルも良い人。胸はそこそこ、大したくびれもなく、大根のような足をした春子とは正反対だった。
そもそも春子と司の出会いは、闇市で路地裏に連れ込まれそうになった春子を司が助けてくれたのがきっかけだ。
春子は司がまっとうな生き方をしているわけではないことを知っている。色々と危ない噂も聞いた。
だからこそ春子は浮気相手のことを容認していた。司のことは好きだ。浮気相手さえ現われなければ、結婚だって考えていたかもしれない。
だが、春子は疲れてしまった。司の吐く嘘に気付かない振りをするのも。もちろん、仕事の都合で云えないこともたくさんあるだろう。しかし嘘がそれだけではないことも知っている――いや、あの浮気相手が教えてくれた。
あの女性にとっては、春子が浮気相手だったのだろうか。それは司にしか分からない。
そして、今日決着を付ける。
「喜久、聞きたいことがあるの」
「ん? なァに、春子ちゃん」
「浮気に心当たりはないかしら」
「僕は春子ちゃんが大好きなのに、ひどいなァ」
はぐらかされた。答えてと強く云うと、司は真っすぐに春子を見た。
「嘘じゃない。僕は春子ちゃん以外に好きだと云わないし、春子ちゃん以上に大事にしたいと思う人はないよ」
「でも、喜久……私と付き合っていても体の関係を持った人は居たでしょう?」
「――否定はしないよ」
「女にとって、それは裏切りだわ。いくら愛してると言われても、同時に関係を持った人が居れば浮気になる。女はね、愛されたいと願ってる。私も、あなたに愛されたかったわ」
春子の眼からは一粒の涙がこぼれ落ちた。




からだが……重い。
全身に力が入らない。
ここは、何処だろう。見たことのない部屋だ。
「春子ちャん、春子ちゃァん」
狂ったように私の名前を喜久は呼び続けている。目の前に居る喜久は、もはや私が好きだった喜久ではないのだろう。
「き、く……?」
「ああ善かった目を覚ましたんだねえ、春子ちゃんはもう三日も眠ってたんだよう」
喜久はそう云って私を抱き締めた。その時、私は裸であることに気が付いた。喜久の体温が直に感じられる。
喜久がじっと見つめてくるものだから、私は安心させるように笑った。ちゃんと、笑えているだろうか。
だって、喜久の瞳は暗い。光が見当たらない。引きずり込まれてしまう。いや、もう遅いのだろう。私は闇の中に――もう帰れない。戻れない。
「ここは……?」
「僕の家。これからはずっと一緒に居ようねえ」
喜久はにっこりと笑った。その頬は少し痩けている。
「きく、やせた……?」
「春子ちゃんとじゃないと食欲も湧かないんだ。何でだろう」
「――しょうがないひとね」
「うん、僕はどうやら春子ちゃんと居ないとまともに生きていけないみたい」
そういうと喜久は私の首に歯を立てた。そしてねっとりと舐めた後、口付けをした。
喜久の唇は首筋から喉へ行き、胸、腹、一度下腹部で止まった。喜久はいとおしそうに何度もそこへ口付けてから、私の脚を持ち上げ内腿に口付けた。
そして耳を下腹部に当てた。
「ねぇ、春子ちゃん。春子ちゃんがもし、もしもここに僕以外の男を受け入れたら――」「そんなこと、するわけないじゃない……」
「知ってるよう。それに僕がそんなことさせないし」
喜久は金縁の眼鏡を外して、脇に置いた。
これは合図だ。もう本当に――逃げられない。





恋水は流れない


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