ああ、遅くなってしまった。生徒会の仕事も何とか終わったし、やっと帰れる。
もう20時だ。こんな時、携帯があれば駅まででも迎えにきて貰うことが出来たのに。その前に、車ですら普及していないが、なんて面倒な時代に生まれてしまったんだろうかと思ってしまった私に、非はない。
「あ!」
誰かが叫んだのが聞こえた。20時はこの時代では遅いほうなので、人通りも疎らだ。それに、数多く並ぶ古書屋も、もう全てしまっている。この時代は戦後ではあるけれど、日が沈めば普通の店は閉まってしまう。叫んだのは誰だろうか、と辺りに視線を投げ掛ければ、その人物は早く見つかった。まあ、その人が私に向かって歩いてきたというのもあるのだが。
「何だその板みたいなやつは!」
美人さんだ。人形みたいだ、と思いがけず思ってしまった。ただ、何となく言っている内容が支離滅裂だったので、相手にすると疲れる人種だと感じ取った。
板って何だろう。昨日の夕飯に出た蒲鉾の――板だろうか。
「見たことないぞ! そんな板に話し掛けないで、僕に話し掛けなさい」
板に話し掛ける――? もしかして、携帯電話のことだろうか。いや、でもこの人が携帯電話のことを知る方法はない。
では、どうして知っている。私の記憶には携帯以外に該当するものはないし。板に話し掛ける――うん、やっぱり携帯電話に違いないだろう。
「貴方は――誰ですか」
無表情になっていくのを感じた。不信感が警戒へと変わっていく。それ以上に、私の過去を――この時代にとっては未来だが――知られてしまうのではないかと、緊張が全身を駆け抜けた。
美人さんはきょとんとすると、嬉しそうに微笑んだ。怪しい。見るからに怪しい。
「君は不思議なものを沢山知っているな! 京極堂が好きそうなやつだ!」
「不思議な、もの――」
この人は何を知っている。何を視て、不思議と言っているのだ。そりゃあ、“私の知っている物”はこの時代にとっては不思議以外の何物でもないのだろう。
「ふむ、君は未来を知っているのだな!」
むぎゅう、と抱き締められる。
誰だ、この人は一体何物だ。どうして誰にも言っていないことを知っている。知り得るはずの無いことを、どうして知っている。誰も、知らないのに。
家族にすら言えない、とても危ういもの。それを、この人はどうして知っている。
「独りで泣いていたのだな」
「どうして――知っているんですか」
そんなことまで。私の家族ですら知らないのに。
私の家族は、知ろうとしなかったのに。天才だ、と囃し立て、私を知ろうともしなかった。
「僕はよく知らない! 京極堂なら知っているぞ。あいつは口から生まれてきたからな」
よしよし、と撫でられる。思わずぽろりと涙が零れそうになった。
この人は一体何なのだろう。今日初めて出会った人なのに、怪しい感じがしない。不思議な人だ。
「ところで、離してくれませんか」
「むむっ、何故だ!」
「早く家に帰らないといけないので」
「ふむ、君はもっと笑ったほうがいいな! その方が可愛いぞ」
家まで送ってあげよう、と不思議な美人さんは言った。ありがたいが、ここ神保町から私の家までは1時間以上もかかるのだ。電車だってもうそろそろ無くなるだろう。
送ってもらえるのは本当に、本当にありがたいが、知らない人に送って貰うっていうのもどうかと思う。
「お名前は――?」
「榎木津だ! 榎木津礼二郎!」
「はぁ、榎木津さん、ですか。私は水崎春子です」
春ちゃん、と榎木津さんは叫んだ。相変わらず離してもらえないため、耳元で叫ばれると物理的に耳が痛い。
離してもらえないのだろうか。
「ここの近所の女学校の生徒だな!」
「そうです。家が遠いので、早く帰りたいのですが」
「だから、僕のバイクで送ってあげようといっているじゃないか!」
そんなこと一言も言ってないです。というより、私は送ってほしいなんて言っていない。
この美人さん――基、榎木津礼二郎さんは変人なのだろう。もちろん、私ももし“私のことを知っている”人が居たなら、変人として分類されていたかもしれない。前世の記憶があるのに、どうして平然としていられるのか、と。どうして、前世のことを誰にも言わないのか、と。もとより、そんなのは言ったって信じてもらえないからだが、“未来が前世”であることを言ってしまうと歴史がかわってしまう恐れがあるからだ。未来での私が居なくならないようにするためにも、これは黙っていなければいけなかった。こう見えて精神年齢は三十過ぎだから。
そういえば、榎木津さんの外見と私の精神年齢は同じくらいだろう。大人の余裕は30になってからだと聞いたけれど、この人には当てはまらないようだ。大人の余裕どころか、子供が癇癪を起こすように短気そうだ。
「あのう、本当に離してもらえませんかね」
「離したら君は逃げるだろう」
自信を持って言う榎木津さんに、私は思わずその通りだと頷いてしまった。当たり前だ。早く帰りたいのだから。
それにしても、どうしてこの人は私のことを知っているのだろう。この人は、私がこの時代にあるはずのない物を知っているということを、私の考えていることを読み取ってしまう。
「じゃあ、こうしましょうか。榎木津さん。明日の夕方4時にここで待ち合わせ、というのはどうでしょう」
「仕方ないな。よし! それでいこう!」
そう耳元で叫ぶと、榎木津さんは約束だぞ! と再び声を張り上げた。鼓膜が破れる思いをして、やっと離してくれた。
これで、家に帰れる。思わずほっとため息をついて、笑ってしまった。すると、再び榎木津さんが抱きついてきた。ぎゅうぎゅうと抱き締められ、可愛い可愛い、と耳元で囁かれた。
これは、地味に堪えました。
その後、頻りに約束だからな、と叫ぶ榎木津さんと別れて家に帰ったのは既に真夜中だった。
当然、両親にこっ酷く怒られたのは――言うまでもないだろう。
そして、翌日。
学校の前に居た榎木津さんを見て、驚く。
友達には彼氏か、と騒がれて、困ったりもした。
それが実現するまで、あと少し。
(出会いは奇なもの)
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bkm