溢れた

嗚呼、酷く憂鬱だ。
女に困ることなどないと自称するあの男がやってくるのだから。
単純に来るだけなら――まぁ、いいのだ。
何が嫌って、あの男は何故か毎回自分の女の話を私にするのだ。
何処の女は良かっただの、あそこの女は気が強くていけないだの、凡そ女である私にするような話ではない。
そもそも、あの男はこの周辺に顔が利くが、それなりに忙しいはずだ。
私になど構っていないで仕事をすればいいのだ。
まぁ、拒めば良い話ではある。
だがあの男は貿易だかなんだかをやっていて、機嫌を損ねると売り飛ばされてしまうと聞けば、拒めるわけ無かった。
別に身体を求められる訳ではないし、ただ猥談を聞くだけでいいのなら、幾らだって我慢出来た。
幸い、話は面白かったし。
私は転勤する。
恐らく今日であの男と会うのも最後だろう。
機嫌を損ねる訳にはいかなかったが、転勤だ。仕方ない。
幾ら一人暮らしだからといって、女を転勤させることは無いんじゃないかな。
人事部め、今度会ったら覚えてろ。
黙々と荷物を纏めていると、コンコンとノックが響いた。
こんな時間――今はもう、夜の10時に近い時刻である――にやって来る人物など、私には一人しか心当たりがない。

「はーい、司さんですか?」

「そうそう。早く開けてよう」

猫なで声で返事をしたあの男――司さんに鳥肌が立った。
全くどこのどいつが鳥肌なんて言いだしたんだ、その通りじゃないか。
私は急いで扉を開けた。

「久しぶり」

「そう、ですか? まぁ、取りあえず入ってください。散らかってますけど」

そう言って、扉を開けたままの体勢から身体を斜めにして、人一人通れるか位のスペースを空けた。
司さんは首を前に突き出して部屋の中を覗くと「あら、本当だ」と云って、部屋の中央に置いてある卓袱台の傍に座った。
私はさり気なさを装って転勤することを伝えた。

「ええ、転勤しちゃうの? そっか、転勤かぁ。残念だなぁ」

「そうなんです。幾ら独り身だからって転勤させられるんです。嫌になっちゃいますよ」

「それは嫌だろうなぁ」

私の内心は戦々恐々である。
今のところ機嫌を損ねてはいないようだが、ちゃっとでも踏み外せば海外への道まっしぐらである。
海外は行きたいが、売り飛ばされて行くなんて真っ平ごめんである。

「今日はどうしたんです?」

「いやぁ、春子さんに会いたくなっちゃって」

「そうですか」

せめて転勤するまでは来ないで欲しかった。
私は司さんの連絡先を知らない――こうして家にやってくる時は、向こうから電話が来るのだ――し、だとすれば黙って居なくなったとしてもおかしくない。
司さんの情報網なら、何時転勤を言い渡されたかなんて簡単に分かってしまうだろうし、下手したら私の転勤先まで分かってしまうだろう。
そんな恐ろしい男を敵に回す訳にはいかない。
私は司さんの為に淹れたお茶を卓袱台の上に置いて座った。

「まぁ、そういう訳なんで、多分会うのも今日が最後だと思うんです」

そもそも何でこんなことになったんだろう。
――そうだ。
確か変な人に絡まれて困っていた処を助けてもらったんだ。
どう見ても堅気には見えなかったけど、当時の私は司さんがどんな人かなんて知らなかったから、簡単に信用してしまったんだ。
それでその時に何だかんだと話し込んでしまって、どういう流れか私の家まで送ってもらったんだ。
後日近くまで来たからと司さんが家までやってきたのには驚いたなぁ。
この時は既に司さんがどんな人かをそういうのに詳しい友人に刷り込まれていたから、怖かったのを覚えている。
私は慣れてしまったこの訪問に月日の流れというものをひしと感じて、司さんを見つめた。
司さんは瞬きを一回だけすると、

「え、何で?」

と云った。

「何でって、私が転勤したら会えなくなりますよ。私は来週で此処を引き払いますし」

「ああ、そういうこと。僕は春子さんが逃げるのかと思っちゃったよ」

逃げるとはどういうことだ。
まさか私の転勤先までやってくるということか?

「いやァ、僕が好きな子をそう易々と手放すと思う? 思わないよね」

「でも司さん、ガールフレンドがいっぱい居るじゃないですか」

「あんなの遊びだよう。嫌だなァ、君に嫉妬してもらうつもりだったのに」

何となく、信用ならない。
にやにやというかにこにこと笑っている司さんに、何処となく嫌な予感がした。

「あ、そうそう。お友だちは元気?」

「友、だち……?」

何のことだ。
友だちは皆すこぶる元気で――。

「ッ!」

「嗚呼、いいねェその表情。恐怖が瞳に宿ってる」

私に、司さんのことを教えてくれた友人と、最近会っていないことに気付いた。
そういえば友人たちが連絡がとれないと云っていた気がする。

「恐がってよう。もっともっと。僕だけを瞳に映して」

「司、さん……?」

ぬっと腕が伸びてきた。
肩をドンッと押されて、押し倒された。
卓袱台を隔てて座っていたはずなのに、司さんはいつの間にか目の前に居た。

「会うんだよ、これからだって」

「……っ」

息をさせないような口付けをされて、否、頭が混乱していて何が何だか分からなくて、涙が溢れた。

「大好きだよ」

こんなにも、嬉しくない好きが有ったのか。






溢れ続ける涙は哀しみか
(私は逃げられないのか)
(春子さんは誰にも渡さない)
(だって、心底惚れているんだ)

―――――――――――――――
むずいなぁ、司さん
何でこんなに難しいんだよう(涙)


prev next

bkm
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -