時間とは何か。
それはこの時代でも『私』の生きていた60年後の未来でも正確な解釈はなされていない。
60年後の未来では理論的にタイムトラベルが可能になったと聞いたことがある。だが、それでも人は時間の正体を掴むことは出来なかった。
私は1度だけ、過去に行ったことがある。それは勿論過去と言うほど過去ではなく、日本から見ての過去だ。所謂時差というものである。
時間とは不思議なものである。
ゼノンが云うには、飛んでいる矢は飛ばないのだ。飛んでいる矢を一瞬一瞬で見てみると、確かに静止している。パラパラ漫画のようなものである。静止画を組み合わせて動画になる。
アインシュタインが云うには、高速で移動している物体と静止している物体、高い所にある物体と低いところにある物体では時間に誤差が生じる。私たちはそれが微々たるものだから気付かないだけなのだという。実際、衛星などはその誤差を修正しなければならないらしい。
ここで問題なのが、宇宙が出来る――つまりビッグバン以前にも時間が存在していたのかということである。
ニュートンは絶対時間というものが存在し、ビッグバン以前も時間は存在していたと云っている。
しかしライプニッツはこれに反論し、時間とは物事の比較であると云っている。
果たしてどちらが正しいのだろうか。
60年後の現代では、理論的には既にタイムトラベルが可能になっているが、それは人間の及ぶ域ではない。
ならば、私はどういう存在なのだろうか。
私が私の全てを理解するには、恐らく100年経っても不可能であろう。私は自分自身のことが良く分からないのだ。
私――水崎春子という存在は、謂わば人知をこえた存在であるのだ。
「だからといって、私が神だとか名乗るつもりはないけど」
人知を越えた存在というのは、孤独である。
礼二郎さんを見ていて、特に思う。
私が無表情を仮面のごとく被って生きているように、礼二郎さんも『榎木津礼二郎』という仮面を被って生きているのだろう。
礼二郎さんと出会って、もうそろそろ1年が経つ。
私は、安和さんしかいない薔薇十字探偵社で安和さんの淹れた紅茶をのんびりと啜っている。礼二郎さんは大磯に行ったらしく、不在。益田さんも探偵業で大磯に行っていて不在。
せめて礼二郎さんだけでも、一言云って行ってくれればよかったのに、と新しく紅茶を淹れに行った安和さんに向かって愚痴をこぼす。
「まあまあ、うちの先生にも何か事情が有ったんでしょう」
「分かっているんです。けど、女心としてはやっぱり云って欲しかったなぁと」
「うちの先生に女心なんか分かりませんよう」
安和さんの言葉に「ですよねぇ」と返し、私は安和さんが新たに淹れてくれた紅茶を啜った。良い紅茶である。貰い物だろうか。
安和さんが「今、うちの先生は居ませんからねぇ」といってクッキーを出してくれた。処分したいだけか。
「あ、このクッキー美味しいですね。紅茶に良く合う」
「そうですかい? うちの先生はクッキーなんて食べませんから、久しく食べてませんよう」
「そうですか。じゃあ今度作って持ってきてあげますよ。その代わりこのクッキーはください」
「何だか春子さんはうちの先生に似てきたなぁ」
クッキーの皿を抱えた私を見て、安和さんは呟いた。
要るのか要らないのかと聞けば、慌てて要らないと云った。
「春子さんのクッキーを貰っただなんて先生に知られたら、ご機嫌を損ねますよう」
「大丈夫ですよ。礼二郎さんはクッキーは苦手でしょう?」
「そういうことじゃないんですよう。春子さんの手作りだと云うことが問題なんですよう」
自慢ではないが、礼二郎さんに愛されているとは思う。
恐らく安和さんに手作りクッキーを渡せば、礼二郎さんは機嫌を損ねるだろう。
だが、要は礼二郎さんにバレなければいいのだ。礼二郎さんの好き嫌いに付き合っている健気な青年に、それくらいしても罰は当たるまい。
「大丈夫ですって。――それに、礼二郎さんには少し嫉妬してもらうくらいが丁度良いと思うんです」
「八つ当たりされるのは私なんですよう」
「まあまあ。だってズルいじゃないですか。礼二郎さんは結婚まで考えた人が居るんですって。私は男性と付き合うのも初めてなのに」
安和さんは「その女性に嫉妬してるんですね」と云った。
その通りだ。
私はその女性に嫉妬している。しかもその女性の存在を那三重に教えられたというのも結構効いた。
礼二郎さんはあんなだから、過去のことなど気にしないのかも知れないが、私は気にしてしまう。だって私だって女だ。
「私だけ嫉妬してるなんて、ズルいじゃないですか」
「そうですかねえ。私には分からないですわ」
「まぁ、安和さんですし」
思えば、安和さんとこんなに話したことはないかもしれない。
そもそも話すときは益田さんが居たし、安和さんと二人きりになったことがなかったからだ。
「そうだ、クッキーの材料さえあれば今すぐにでも作れますよ」
「何が必要なんですかい?」
「そうですねえ……薄力粉とバター、砂糖と卵、バニラエッセンスくらいですかね」
バニラエッセンスはないなぁという安和さんに、「じゃあ明日にでも作って持ってきますよ」と云った。
明日じゃなくともいいと首を横に振る安和さんが可笑しくて、つい笑ってしまった。
安和さんが余りにも必死だったから、そこまで必死になる必要はないのにと思ってしまった。
「私をだしにしないでくださいよう」
「してません。――冗談ですよ」
これ以上苛めるのは可哀相だ。
もとより苛める気などないのだが、親切心すら礼二郎さんが関わると変な方向に屈折してしまうのだろうか。
(不可解な私)
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bkm