微笑みの質量

久しぶりだった。
最近はろくに榎木津さんに会っていなかったのだから。
父さんは何度か会っていたようだけれど、私はずっと勉強していたから会うことはしなかった。
会いたいという思いも確かに存在していたが、それを上回るように勉強への意欲が高かった。
私は恐らく、釣り合う女性になりたいのだ。榎木津さんは華族の出で、私は一般庶民。榎木津さんは一高から帝大のエリートで、私は私立女子校。榎木津さんは人形のように綺麗だが、私は極めて現代的な日本人の顔である。
釣り合わないのだ。だからせめて勉強だけはという思いが勝ったのだろう。
榎木津さんに云えば、きっと気にするなとかそんなことをするくらいだったら傍にいろとか、私が楽になるような言葉を云ってくれるだろう。
だから嫌なのだ。榎木津さんに甘えてしまう自分がいるから。甘えずに頑張ろうと思った。
そして私は今日、やっと榎木津さんに会ったのだ。

「春ちゃん、待っていたぞッ」

そういって抱きついてきた榎木津さんに、目の奥が熱くなった。私は何だかんだ云っても榎木津さんに会いたかったのだ。
泣きそうになるのを堪え、頷くと榎木津さんはぱっと私を解放し「さァ行くぞ」と云って私の腕を引いた。

「え、榎木津さんっ、行くって何処に」

「ものすごォく不本意だが親父の処だ。何処から嗅ぎつけたのか春ちゃんに会いたいと云って五月蝿いんだ」

榎木津さんはそう云うと、タクシーを引き止めて、聞いただけでは何処だか検討も付かないような地名を叫びながら乗り込んだ。

「え? 榎木津さんのお父様のところですか?」

何でだ。
私はしがない一般庶民であって、元子爵に呼び出される理由なんてこれっぽっちもない。
もしかして面白がられているのだろうか。私は一般庶民だし。
そりゃあこの時代にしては裕福な暮らしをさせてもらっているが、それはあくまでもご先祖様がこつこつと蓄えていた貯金と土地のお陰である。中身は平々凡々な私に何の用なのだろう。
まさか息子の榎木津さんに近付く何処ぞの馬の骨めという親心なのだろうか。

「春ちゃん、笑うんだッ! 春ちゃんは笑っていた方がいいぞ」

「そ、そんなこと云われても、緊張しますよ……!」

何で榎木津さんのお父様に会わなくてはいけないんだ。
――まぁ、世間一般では私たちは付き合っていることになるのだろうが、私はどうもそれが信じられないのだ。
ずっと私の片思いのような気がして。

「好きだよ、春ちゃん」

榎木津さんはまるで図ったかのようにそう云った。
この人は人の心を掴んで離さない。榎木津さんだけが与えられた力――過去が視えるというものではない、もっとカリスマ性のようなものだ――なのだろう。
掴んで離さないのは榎木津さん自身の意志ではないから、こうも不安になるのだろう。
榎木津さんはとても型破りな人だから。
だから私は、

「私も、好きです」

と正直に告げた。
榎木津さんの前で偽証は無意味である。

「春ちゃん、さぁもうすぐ我が家だ」

「も、もう着くんですか!?」

「そうだ」

気付かぬうちに時間は経っていたようで、辺りの風景は高級住宅街へと変わっていた。
榎木津さんはタクシー運転手にどこそこを曲がって止めろだのそこじゃないだのと叫んでいた。
そうして着いたのが榎木津さんの実家である。

「も、ものすごく大きいですね……!」

「馬鹿なんだ」

「誰がですか?」

「親父がだよ」

馬鹿と家の大きさにどういう関係があるのかは知らないが、榎木津さんは父親のことが余り好きでは無いのだろうか。
相変わらず私には、榎木津さんの考えていることの一割も分かりはしない。
榎木津さんは不機嫌そうな顔をしてずんずんと玄関へ向かっていく。玄関までがとても長い。
農村では隣の家までが遠いということがよくあるが、それとは訳が違う。敷地の入り口から玄関までが遠いのだから。
ぼんやりと榎木津さんに手を引かれていると、やっと玄関に辿り着いたらしく、榎木津さんは扉を大きな音を立てながら開いた。

「おゥい馬鹿親父、居ないのか」

榎木津さんが勢い良く開いた玄関の扉をそっと閉める。玄関までの道中ちらりと温室が見えた気がしたが、きっと気のせいだろう。だって温室で何をすると云うのだ。

「ああ、礼二郎。来たんだね。その子が礼二郎の彼女?」

玄関から声をかけると、現れた上品な丸眼鏡を掛けた長身の男性に、私は呆然とした。
話の流れから、恐らくこの男性は榎木津さんのお父さんだろう。榎木津さんの身長は遺伝だったのか。

「は、はじめまして。水崎春子です」

「はじめまして。榎木津幹麿です」

榎木津さんのお父さん――幹麿さんはにっこりと笑った。上品だ。
居間への移動中、幹麿さんの事前情報について考えてみた。至ったのは、中禅寺さんたちから色々と聞いてはいたが、余り当てにはならないようだということだった。

「で、いつ結婚するの?」

幹麿さんはそう云った。
やっぱり事前情報通り変わっているかもしれない。
だって、初対面で何時結婚するかなんて聞かないだろう普通。私の方が可笑しいのかなと思いはしたが、中々破天荒なことをする榎木津さんの父親だ。矢張り私は間違っていないだろう。
ただ榎木津さんも幹麿さんも間違ってはいないのだ。ちょっと人とずれているだけで。

「もうすぐだよ」

「もうすぐって何時なの?」

「春ちゃんが学校を卒業してからであることは間違いない」

「それはもうすぐじゃないだろ」

子どものような言い合いをしながら家の奥へと進んでいく二人に遅れないように、私は少し早めに歩いて追い付いた。
二人とも私とはコンパスが違う。二人は早めに歩いているので、私はもう走っている状態に近い。
というより、居間までが長くはないだろうか。どれだけ広いんだ、榎木津家。

「まぁ春子さん、ゆっくりしていってください」

「はい。お心遣いありがとうございます」

にこにこと楽しそうに笑っているので、私もつい笑ってしまった。
そこでやっと気付いたのだが、私は緊張で無表情になっていたようだ。一応笑っていたつもりなのだが、余り上手く笑えてなかったらしい。
榎木津さんは「やっと笑ったな」と云った。







(微笑みの質量)


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