榎木津。榎木津礼二郎。
榎木津礼二郎は、私の婚約者だ。と云ってもそれは過去のことで、現在は婚約者というだけで、何年も会っていない。
会わなくなった理由は二つある。それは榎木津礼二郎が出征前に付き合っていた彼女とは戦争が無かったら結婚していただろうという噂を聞いたからだ。もう一つは、私が仕事の関係で大阪に異動になったからだ。
当時の私は噂を聞いて愕然としたのだ。幼い頃からの刷り込みだからか、私は当然のように榎木津礼二郎と結婚すると思っていたのだ。
榎木津礼二郎が誰と付き合おうが、結婚するのは私だと思い込んでいた。だから私はその話を聞いて、自信を無くしたのだ。
愛されていようがいまいが、結婚するのは私だと、思っていたから。
その時期と、大阪への異動が被って、良かったと思っている。私は自分に自信を持って榎木津礼二郎に会いたかった。
しかし。
「何だかんだ云って、もう5年かぁ」
自分に自信など持てなかった。
そして気付いたのだ。
私はただ、榎木津礼二郎から逃げたかっただけなのだ。それでは自信など持てるはずもない。
「社長、お客さんが来てます」
「客?今日はそんな予定無かったと思うけど」
はて、誰だろう。
大阪で子会社の社長をやっている私には確かに大勢の客が来るが、今日は誰も来ないはずだ。のんびり出来るなと思ったのだから。
「追い返しますか」
「大丈夫。ちょっと会って文句でも行ってくるわ。何か急用かもしれないし」
私は机の上の書類の山を見た。思わずため息を吐くほどの量である。
私の秘書をやっている男は「仕事は逃げませんから安心してください」と嫌味を云った。
「社長。何かあったら思いっきり叫んで下さいね」
「はいはい」
心配性なんだから、と呟くと、秘書は聞いていたようで「仕事をされなくなったら困りますから」と宣った。相変わらず口を開けば嫌味しか云わないのだが、それでも優秀なのだから神様は不公平だ。
私はのんびりと応接室へと向かった。私への客はそこへ通されるはずなのだ。
だらだらと長い廊下を歩く。壁には絵画だの壺だのが飾り付けられている。私はそれらを気にも止めず、その横を通り過ぎる。
「お待たせしました」
応接室まで来て、私は確かに嫌な予感がしたのだが、気のせいだろうとそれを振り払い、応接室の扉を叩いた。強く叩きすぎたらしく、手が痛かった。
中に入ると、私の目に飛び込んできたのは靴底。どうやらソファーの肘掛に足を乗せて寝ているらしい。ソファーで寝るのはまだいいが――いや、訪問者としては大変宜しくないのだが――、足を此方に向けて寝るとは何事だろう。
しかも急に押し掛けて来たのに、だ。
「あの!」
私はつかつかと歩み寄った。だが、私がその人に近付くよりも先にその人は起きた。
「げ、榎木津礼二郎!」
私の婚約者だ。
「ん?ああ、春子か」
「何の用」
毎日起きるのは昼過ぎだと云う、余りアクティブとは云えない榎木津礼二郎が何で此処に居るのだろう。
「馬鹿親父からね、届け物」
榎木津礼二郎はそう云って、2脚のソファーに挟まれているテーブルを指した。
そこには小さな箱が有った。
「幹麿様が――これくらいなら郵送で構わないのに」
「壊れ物だッ」
壊れ物?
そういえば、幹麿様には良い宝石があったら買わせてくれと云ってあった。もしかしたらそれかもしれない。
「君は宝石商でもやっているのか」
記憶を、視たのだろうか。
私は久しぶりの感覚に、少し焦った。
「そうですけど」
私は父の経営する輸入会社の宝石部門を任されている。
だから毎日結構な宝石を見るし、それに付いてくる鑑定書に嘘偽りが無いかをチェックするのも私なのだ。全く、面倒ったらありゃしない。
「用が済んだのならお引き取りください。私も生憎忙しいものですから」
あの種類の山を思い出すだけでも溜め息がでる。
さっさと辞めたい。こんな仕事。
「春子は相変わらず義務だの責任だので生きているようだな」
当たり前だ。
私はそうすることでしか自分を見出だせなかったのだから。
それに、裕福な家に生まれた者にはそれなりの責任がある。だから仕方ないのだ。
「お引き取りください」
「ふん。春子は相変わらず馬鹿だな」
「馬鹿でも結構です。お引き取りください」
私は云うと、幹麿様からの届けものだと云う箱を引っ掴んで応接室から出た。
榎木津礼二郎が何を云っても聞かないのは知っているから、私から出ていくことにしたのだ。
幹麿様には後でお礼の手紙を書かなければ。そう心に止めて、何気なく箱の中を覗いた。
「指輪?」
加工品を頼んだ覚えはない。どういうことだろう。それに、鑑定書も付いていない。
まぁ、いい。幹麿様が偽物を寄越すわけはない。
幸いうちは加工品も扱っているから、そっちに置こう。
すれ違いの勘違い
(良い値で売れた……!ありがとうございます、幹麿様)
(売ったのか春子は!あれはプロポーズの指輪だ!)
(は?榎木津礼二郎、そんな冗談を真に受けるほど私は馬鹿じゃないですよ!)