彼女だけで
狂愛気味













私は患者で、あの人は医者だ。
つまり私はあの人にとって客なのだ。悲しいことに。
私はあの人――里村先生が好きだ。
歳だって離れているし、髪は後退気味だし、変態だけど、私は里村先生が好きだった。何で好きになったのかは覚えていないけど、初恋なのだ。
私は今まで病弱で、中々外にでて遊ぶ事が無かった。それでも一生懸命治療して、やっと外に出られる頃には私は既に18だった。学校だって行ってない。それでも本を読むことは好きだったから、ずっと見てもらっていた先生に教えてもらったのだ。
けれど、その先生が従軍することになり、私はその先生の紹介で里村先生に会った。13歳の事だった。里村先生も当時は髪の毛あったし、まぁ一目惚れだったのだ。
しかし里村先生は従軍していて、私など見ている暇は無かったのだ。それでも、2月に1回は会いに来てくれた。優しい人だな、と思った。里村先生は海軍医をしていたから、会えないこともあったけど、主治医の先生と交代で来てくれた。私はそれだけでうれしかったのだ。
私は治療に専念した分だけ、里村先生を好きになった。
18になって、私はある日変わったのだ。徐々に体調が良くなっていくのを感じた。これからは外に出れるのだと、里村先生の見ている世界を見れるのだと知って、嬉しかった。
戦時中、薬も買えなくて、ご飯すら食べられなくなっていく。今思えば、良く生き延びたものだ。私は床から起き上がる事も儘ならなかったので、空襲でも来たら焼け死んでいたことだろう。これも一重に里村先生のお陰なのだ。何せ先生は私に疎開先を斡旋してくれたのだから。
だから私は、戦争が終わって里村先生が五体満足で帰ってきた時、神様には感謝しても仕切れないと思ったのだ。
それから私は順調に快復していった。
私は、里村先生の為に何かしたかったのだ。

「春子ちゃん、どうして泣いているんだい」

先生の声がする。
ああ、失敗してしまった。まただ。どうして上手く行かないんだろう。私は里村先生の為に何か役に立てばと思っただけなのに、どうして失敗してしまうんだろう。

「ごめんなさい、先生。私、私また失敗して――」

「いいのに、そんなこと」

先生だって疲れている筈なのに、私は迷惑しか掛けられない。
そう、私と先生は確かに数年前迄患者と医者だったのだ。今でもちょくちょく体調を壊すことがあるから、今でもその関係は変わってはいない。
私は去年両親を亡くし、独りぼっちになってしまったのだ。その私が現在居候しているのが、先生の処なのだ。私は里村先生にこれからどうしたらいいのか、もし良ければ病理解剖をしてくれないか、ということを相談していたら、何故か里村先生の家に居候させてもらう事になった。
私は本当に先生には感謝してもしきれない。
それでも矢張り、私は先生の役には立てないのだ。料理をすれば必ず焦がすし、掃除をすれば何かしら壊す。私は今までまともに家事をしたことが無くて、こうして何時も泣いてしまう。
悔しくて悲しくて。
どうして役に立てないんだろう。そう思うことばかりだ。

「ほら、春子ちゃん。あんまり泣くと涙腺ちょん切っちゃうからね」

「で、でも」

私の涙腺は切られることを嫌がった。
お陰で涙は止まったが、私の気持ちは依然沈んだ儘だった。

「でもじゃないの。いい?失敗なんて気にしなくていいの。そういうものなの。春子ちゃんが失敗を一々気にしていたら、上手くいかないのも当たり前。失敗は失敗。次に活かすのが一番だから、僕がいいよって云ってるんだから、気にしないの」

「先生――」

何て優しいんだろう。
否、この人は誰にだってこうなのだ。私にだけ優しいわけでは決してないのだ。

「ああ、木場くんが来てるからお茶を出してあげてね。僕は患者の診療を終えたら行くからね」

先生はそれだけ云うと、さっさと診療に戻ってしまった。
私はお茶をいれる。お茶は私が失敗しない数少ないものだ。お茶なら上手に淹れられる自信がある。
私はお茶をもって木場さんのもとへ向かった。

「お茶を持ってきたんですけど」

「ああ?――確かお前ェ」

「春子です。前に一度だけ会ったことがありますが」

木場さんはそうかそうかと頷いた。
木場さんは顔が驚くぐらい四角い。先生の話だと、友人たちには下駄だの豆腐だのと呼ばれているらしい。

「里村の処に別嬪が居候してるたァ聞いていたが、まさかこれほどとはなァ」

「き、木場さん!何云うんですか!」

私は頬を朱に染めた。
そんなこと、云われたこともない。物凄く恥ずかしかった。お世辞だとは分かっているが、今までそんなことを云ってくれる人が居なかったのだ。
何といっても、里村先生が初恋なのだから。

「わ、私は綺麗じゃないです」

「そんなこたぁねぇだろ。アンタはもっと自分に自信を持った方がいいな」

「じ、自信がないわけではないんです。ただ私、病気を克服したばかりで、家事なんかやったことなかったし、今を生きるのが精一杯で――」

里村先生の処に居候を始めてから、否、戦争でも何人も亡くなった。私はその死体を見る度に冷や汗が流れたのだ。私ももしかしたら、死んでいたかもしれないのだと思うと、恐かった。
だから、生き残って里村先生に会ったときに誓った。一生懸命生きるんだと。先生が繋いでくれたこの命を、病気なんかで終わらせてたまるか、と。
だからこそ、里村先生の役に立てないことが腹立たしかった。悔しかった。

「そうか。お前ェはお前ェなりに頑張って来たんだな」

木場さんは乱暴に私の頭を撫でた。ぎこちなかったが、私は父親とはこんな感じなのだろうか、と思った。私の父親は、私には近寄らなかったから。

「ちょっと木場くん、何やってるの」

「あ?おい手前ェ、里村ッ」

木場さんは先生を睨んだ。
先生は何事も無かったかのように「何の用なの」と云い放った。
私にはそれが若干怒っているように聞こえた。

「何の用じゃあねぇだろ!今回の事件の事だ」

木場さんが怒鳴ると、先生は私の方を向いて「休んでていいよ」と云った。聞かれてはいけない話なのだろう。
私はただ分かりましたとだけ答えて、自分に与えられた部屋に戻った。



「木場くん。あんまり春子ちゃんに近づくと、そのお茶に毒でも入れちゃうかもね。生憎専門じゃないけどね」

「テメェは相変わらず変態だな」

「あはは。誉め言葉として受け取っておくよ」

里村は笑った。
今も昔も、出会ったときから春子は里村のものだった。里村がそう決めたのだ。だから、仮令木場でも中禅寺でも榎木津でも関口でも、譲る気はない。
春子の方から離れていくならば脚を切って動けなくするだけだし、もし春子がその腕に里村以外を抱くのなら、その腕を切ってしまえばいいだけだ。春子を呼んだのだって、春子が他の男に奪われる前に閉じ込めておこうと思っただけだ。
春子はもう逃げられない。里村は決して春子に思いを伝える事はないだろう。閉じ込めておけば春子は誰にも会う必要は無いのだから、里村も思いを伝える必要は無いのだ。
里村と春子は、医者と患者だけれど、そのうちそうではなくなる。
里村はそう思っている。



彼女だけでいいのだ

(僕以外をその瞳に映す事すら嫌悪している)
(ああ、早く彼女を自分だけのものにしてしまいたい)


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