慈行死んでません
「あの、大丈夫ですか」
「 」
微かに唇が動いたが、そこから音が発せられることはなかった。
私は雪の中をざくざくと歩く。それに付随するように、ずるずるという音もしていた。先程、私が拾った人はお坊さんだった。衣服は焼けているし、顔にも煤がついている。おそらくは昨日あったという火事の中、命からがら逃げてきたのだろう。
精進料理ばかり食べているからだろうか、そのお坊さんの体は意外と痩せていた。とはいっても、男と女。意識がないぶん、余計に体重はやはり重かった。
「まだ、少し距離はありますけど、もう少しで着きますから」
私がそういうと、お坊さんの唇が動いた。けれど、やはりそこから音が出てくることはなかった。何も食べていないだろうから、無理もない。だが、あと30分も歩けば着くはず。
来たときと、雪のせいか様変わりしているけど、たぶん合っているだろう。すると、今まで背中から胸の方に力なくぶらさがっていた腕が、ゆるゆると持ち上がった。
その腕は、進もうとしていた道とは別の道を差していた。こんなところに道があったのか、全然気付かなかった。そこでふと気が付いた。
「もしかして、道、間違っていました?」
「――……ええ」
ひどく擦れて、小さな声だったが、私の耳にはちゃんと届いた。まぁ、耳元で喋られたのだから、嫌が応でも聞こえてしまうが。
けれど、喋れる元気があったことに、私は安心した。
「ありがとうございます」
このままだったら遭難してました、と言った。
するとお坊さんは「じあん」と呟いた。じあんって何だろう?
「あ、もしかして名前ですか?」
首に腕が回された。どうやら、合っているらしい。
じあん、か……。どんな漢字を書くのかな。
「じあんさん。生きましょう、一緒に。ここで遭難する訳にはいかないですよ」
「……ええ」
今更ながら気付いたけれど、じあんさんって結構――いや、結構どころじゃなく美形ですね。しかも、美声。耳元で喋られると、頬が熱くなる。
「わ、私の名前は水崎春子です。よろしくおねがいしますね」
「 」
さすがにもう喋る気力がないのか、じあんさんははぁ、と息を吐き出すと、それきり黙ってしまった。耳にかける息に、頬から一気に耳まで熱が伝播した。
はっ、いかんいかん。こんなことをしている場合じゃない。とにかく歩くことに集中しなければ。
もともと、私はそこまで体力がある方ではないので、男の人を担いで歩くだけでも、物凄く疲れる。今だって、出来ることなら休みたい。
でも。
ここで休んだら、じあんさんが死んでしまうかもしれない。私は休めない。
「――置いていっても、構わないのですが」
じあんさんは、今までよりも張りのある声で言った。
少しは元気に、なったのかな。
「疲れたでしょう。足が震えていますし、歩幅も小さくなっています」
「私は大丈夫です。それより、じあんさんの足は大丈夫ですか。雪につかって、凍傷になったりしていませんか」
私が心配していたのは、身長が足りなくて引き摺ってしまっているじあんさんの足だった。もう何時間も雪に浸かっている。凍傷になっていないか、心配だった。
手先は私が握っているから大丈夫だろうが…。
「大丈夫です」
「そうですか。もう少しでつきますから」
息切れしてきた。
もうそろそろ、体力の限界かもしれない。
「春子様。もう大丈夫です」
「でも――」
続きを言おうとしたが、続きが口から出ることはなかった。というより、あまりにもショックが大きすぎて、何を言おうか忘れてしまったのもあるのだが。
私はじあんさんに押し倒される形になって、倒れてしまった。もとはと言えば、私が喋ろうと振りむいたのがいけなかったのだ。
「春子様、私の名前は慈悲の慈に行くと書いて、慈行です」
「慈行さん…?」
「春子様、私のことは忘れてください」
「そ、そんなこと!――出来ない、です。私は、私は慈行さんを助けたいと思ったのです!」
忘れろだなんて、なんて残酷なのだろう。
それなのに、慈行さんは微笑んでいる。まだ、完全に煤が落ちたわけではない、その綺麗な顔で。
嗚呼、何て。
「なんて悲しそうな瞳をしているの」
ひどく絶望的な瞳。
何もかも諦めているような、そんな純粋で綺麗な瞳。どうしようもないほど。
「綺麗な、瞳」
「あなたは――」
慈行さんの目が、大きく見開かれ、その絶望色をした瞳がよく見えた。
暗い闇を宿した瞳が近づいてくる。私は、そっと目を閉じた。
絶望、色
(慈行、さん)
(春子様、私のところに来ますか?)
(連れていってくれるのなら、どこまでも)