パンドラの匣は開き始めた

非常識極まりないと思う。
いや、あの人の前では無常識なのだ。常識など意味をなさないから、そういう意味では非常識だ。
一見不可解な行動も、あの人はあの人なりの法則に則って動いている。もちろん、それをマニュアル化は出来ないが、彼は何となくで動くような――もしかしたら何となくでしか動かないのかもしれないが――人間ではない。
そもそも、人間は明確な理由があること事態、珍しい。だからこそ、常に明確な理由がある人物を尊敬したり堅物と呼んだりするのだろう。例外もあるが。
そういう意味では、既存の枠には収まらない男である。枠ごと壊してしまいそうな男だ。
そんなところに、惹かれるのだろう。
好きになってはいけないことくらい、分かっていた。
少なくとも、私はだれであるのか、ということを見極めてからでないと、好きになってはいけない気がした。
オーケーしたのは、雰囲気に呑まれたと云ってもいいだろう。嫌ではなかったのも確かだし、断りたかったのも確かだった。でも、すべてを打ち明けた私を、まるまる受け容れてしまったのだから、私にはもう拒否権は無かったのだ。
私は、巡り合わない方がよかったのだろうか。
容姿も学歴も家柄も、あの人に似合うようなものではない。そんなものは関係ないと云ってくれるのは分かっている。けれど、今の時代、家柄と学歴がまだまだ重く見られている。
ましてや、歳が離れすぎている。
付き合っていると知られただけでも、周囲から反対が出るだろう。
あの人の為を思うなら、潔く身を引いたほうがいいのだろうか。
幸い、今目の前にはお見合い写真というものがある。お見合いを申し込んでくるくらいだから、それなりに裕福なのだろう。
私は、帰りたいのでは無かったか。では、なぜ榎木津さんと居たいと思っているのか。
ああ、そうだ。
此処が私の最終的な帰る場所だったからだ。
帰る場所がもう見つかっているのなら、好きになってもいいかと諦めたのだ。地球では結ばれなかったかぐや姫も、月で好きな人が出来れば結ばれるだろうから。

「おや、春ちゃんじゃあないかい」

「こんにちわ、小母さん」

二軒隣の家に住んでいる小母さん。最近皺を気にし出した笑顔の素敵な中年女性である。嫁いだ母を何かと気にしてくれる心の優しい人だが、おしゃべりなのが玉に瑕。
まぁ、近所の人たちはお喋りだからと、知られたくないことは彼女には話さないらしい。

「病院に行ったんだってねぇ?」

「ええ、まぁ」

この小母さんの笑顔は、人を不安にさせる。笑ってはいるが、腹の中では何を考えているのか読めないのだ。
優しい人ではあるのだろう。だが、それが見せ掛けのような気もしてしまうのである。
那三重の笑みとは違う、大人の意地汚さを秘めた笑顔だ。那三重は隠し切れていない、幼さがある。

「お大事にねぇ」

お大事にも何も、薬すら貰わずに飛び出して来てしまった。
明日、学校の帰りにでも寄ろう。

「それじゃあ、私は」

それだけで伝わったようで、小母さんは養生してね、と云って去った。
もう家の目の前だ。目の前の範囲が広すぎるのだが、そこは気にしない。前世の私だったら目の前だとは思わないような距離である。一軒一軒が離れているため、家の目の前も相当の距離がある。

「春子ー!」

父である。

「何、父さん」

畑の真ん中にぽつんと案山子のように立っている父は、地味である。畑仕事をするのに、茶色の作業着を着ている必要があるのだろうか。分かりにくい。誤って鍬を入れられても怒れない。そもそも茶色の作業着なんてどこで見つけたのか、甚だ疑問である。

「さっき榎さんから電話があってなぁ、折り返し掛けてほしいそうだぁ!」

叫ぶ父の言葉の語尾は何だか間抜けに伸びている。

「連絡先は電話の横にあるからなぁ」

「はぁい」

私も大声で返した。
しかし、内心は緊張している。
安和さんから連絡でも貰ったのだろうか。否、もしかしたら関口さんかもしれない。否否、今はそんなことより、どうして電話を掛けてきたかだ。
関口さんが里村医師からあの話を聞いたとも思えない。
ならば、どうして。
もしかして、関口さんを視たのだろうか。それならば、有り得るかもしれない。
私は急いで家に向かう。こちらから掛けなおすということは、別に急がなくてもいいのだが、ついつい急いでしまう。

「ただいまァ!」

玄関の戸を勢い良く開けると、真っ直ぐ伸びる廊下の端に黒電話が置いてある。しかもその台は抽き出し付きである。
私は靴も揃えずに、電話へと駆け寄り、電話の横を漁った。

「あった」

10桁の数字の羅列。
私はそれを頭の中にたたき込みながら、番号を回した。
恐らくこの電話番号は中禅寺さんのものだ。
榎木津さんはよく中禅寺さんの処に行くと聞いたことがある。それに、安和さんが云っていた。本屋の先生は中禅寺さんだ。

『はい、中禅寺です』

「水崎春子です。榎木津さんから其方にかけるようにと」

『春子さんね。榎木津さんからは取り次ぐように云われているの。今代わるわ』

一寸お待ちくださいな、と云って電話元を離れたのだろう、ぱたぱたと小走りする音と衣擦れの音が微かに聞こえた。
暫くもしないうちに、どたどたという足音が聞こえた。殆ど入れ違いである。

『春ちゃん』

背筋が凍った。
声が、余りにも冷たかったからだ。
榎木津さんなのだろうか。この声の持ち主は本当に榎木津さんなのだろうか。

「――は、い」

『なにがあった?』

嗚呼、どうして。
どうして榎木津さんは分かるのだろう。
関口さんの記憶を視ただけで、私に何かあったと分かるのは、榎木津さんがそれだけ聡明だからなのだろうか。

「――私の記憶を持つ女性の話を聞きました。確証は無いですが、その人が私の前世なのです」

『里村のところで聞いたのかい?』

そう聞く声は打って変わって穏やかだった。
私は思わず泣きだしそうになった。

「はい」

根性で涙を引っ込めると、榎木津さんが『そう』と云ったのが聞こえた。

「榎木津さんは、どうして」

『関君から聞いたんだよ』

私は黒電話の受話器を握り締めた。
昔ながらといった雰囲気を醸し出す黒電話の受話器は私の手に良く馴染んだ。

『春ちゃんの様子がおかしかったみたいだからね』

「そんなこと、ありますけど」

やっぱりね、と榎木津さんは笑ったようだった。

「怖いんです。私が分からなくなっていく」

『うん』

「私は、私じゃないんでしょうか。彼女――小沢春子さんは私なんでしょうか。私と彼女は同じ人格ではないけれど、同じ人なのでしょうか」

分からないことは多い。
分からないことが多すぎて、私という境界線が曖昧になっていく。
私はどこから私なのか、分からない。

『春ちゃん、春ちゃんは春ちゃんだよ。この春がそういうんだ。春ちゃんはそれ以上のことを気にする必要はないよ』

「榎木津さん」

『僕は本馬鹿みたいに難しいことは分からないけれどね、どんな背景があろうと、その上で今の君がある。いきなり君が現われたわけじゃあない。気にすることないんだよ、本当は。それでもやっぱり、気になるんだったら本馬鹿に聞けばいい』

「榎木津さん」

『ね、春ちゃん。僕はどんな春ちゃんでも好きだ。本当の自分を気にするなんて馬鹿のすることだ。だから気にするな。どんな春ちゃんでも大好きな自信はあるけど、春ちゃんは笑っていた方がいい。最近は良く笑うようになったじゃないか。それでいいんだよ。そんな些細な事に悩む時間があったら、もっと笑いなさい。笑うという事はストレス解消につながるとあの本馬鹿も何時だか云っていたしな』

ふふふ、と榎木津さんは笑った。自分の云ったことが面白かったらしい。

「榎木津さん、会いたいです」

『うん。僕も会いたい』

榎木津さんは、どうして何時も私の悩んでいる事を些細な事にしてしまうのだろう。
私はそれで悩むのを止めたはずなのに、また――それこそ些細な事で――ぶり返して悩んで。
私はどうしてそうなんだろう。
悩んで悩んで、解決してもまた悩んで。

『春ちゃん、笑って』

「――笑え、ないです。だって、私、榎木津さんに一杯迷惑かけて」

『そんなこと気にする事じゃないのに』

「そんなことじゃない。私、榎木津さんには頼らないで居たいのに、何かあると直ぐに頼っちゃう。迷惑、かけたくないのに」

どんなことがあっても、榎木津さんなら解決してくれる。そういう思いが有った。
自分で解決しなくちゃいけないことぐらい分かってる。
自分で解決するまでは榎木津さんに会わないと決めたはずなのに、声を聞いただけで揺らいでいる。
私は、何をしたいのだろう。
小沢さんのこと、解決したいのに。私は誰だかはっきり知りたいのに、知るのが怖い。

『春ちゃん?』

榎木津さんが呼んでいる。
耳元で聞こえるはずなのに、何処か遠い。

「私は、榎木津さんの事が好きなんです」

吐き出すように零れ落ちた言葉は戻らない。
もう、後には戻れない気がした。





(パンドラの匣は開き始めた)


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