離別を畏れている


人の心は酷く脆弱だ。
多少のことで揺らぎ、崩れる。
人が何の為に生きるのか。それは人類にとって永遠の課題である。
なぜならそれは一般化出来ないからだ。カテゴライズ出来ないほど、人類は複雑に絡み合って生を繋いできた。その行為に、子孫繁栄を願うものもいれば、義務だからと縛られている者もいる。快楽を求めていただけかもしれない。
人間は一般化出来ない。
そう、例えば血液型性格診断や心理テストがそうだ。あれはあたかも人がカテゴライズされているようだが、そんなことがありえるのだろうか。
血液型にしてもそうだ。
人の複雑な感情を、高々4つのタイプに分かられるかと云ったら、そんなことはない。それに、血液型というのはその人の持っている免疫の型だ。それが性格にまで作用を及ぼすとは考えにくい。
血液型というのも複雑だ。
A型B型O型AB型だけかと云ったら、そうではない。有名なのがボンベイ型だ。また、A型やB型、AB型等にも亜種が存在する。ボンベイ型はO型の亜種で、検査上はO型と出てしまう。
そんな複雑な血液型を4つに分けるのは早計すぎる。
では、なぜ人はそれを自分にも当てはまると考えてしまうのか。
それは一種の思い込みである。先に条件を提示されることによって、自分もそれに当てはまると勘違いしてしまう。また、内容もどの人にも当てはまるような巧妙なものになっているからだ。
バーナム効果という。
人はそれでもいいのだろう。それで困ることが無ければ、占いだって霊能力だって、信じたって構わない。必ずしも悪いものでもないからだ。その代わりに、必ずしも良いものではないけれど。
人は弱い。それ故に“揺るがないもの”を求める。
私の場合は、何だろうか。

榎木津さんに会いたいと思った。
彼なら、私の感じる言い様のない不安を取り除いてくれる。そういう思い込みがあった。

「榎木津さんっ」

息苦しい。
私の酸素はどこへ行ってしまったのだろうか。
人は酸素が無いと生きていけない。否、呼吸をしないと生きてはいけないのだ。
九段下から神保町まで、走った。その所為もあるだろうか。

「榎木津さんっ」

私は薔薇十字探偵社の扉を叩いた。
一刻も早く榎木津さんに会いたかった。

「おや、春子さんじゃあないですか」

出て来たのは安和さんだった。
榎木津さんは、と尋ねると、安和さんは頭を掻いた。

「入れ違いですよ。たった今出ていったんですわ」

「――…そうですか」

脱力感が押し寄せてきた。
榎木津さんがいない。ならば、私が此処に居る必要はない。
私はとっとと帰ることにした。踵を返すと、帰ることを察したのか、安和さんが呼び止めた。

「春子さん」

「何でしょう?」

「うちの先生なら本屋の先生の処に行きましたよ」

中野か。
行く気にはならなかった。九段下から走ってくる間に、大分冷静になった頭では、もうどうでも良かった。これは私の問題で、榎木津さんの問題ではない。
いや、頭の方は冷静になったというよりも、疲れたと云った方が良いかもしれない。幾ら九段下と神保町が隣り合っているからといって、走ったら相当疲れた。身も心もへとへとだ。

「分かりました。ありがとうございます」

行く気にはならなかった。
小沢春子のことも知りたかったが、私にとってはもうどうでも良かった。何もかもがどうでも良かった。
薄気味悪い空気が、私に迫ってきているような、空恐ろしい感情に支配される。
薔薇十字探偵社を出た私は、取りあえず家に帰ることにした。頭を冷やそう。まだ、私と小沢春子が関係あると決まったわけではないのだから。
とぼとぼと歩く。走ったからか、足に力が入らなかった。震える足を一生懸命前に押し出した。
最近、情緒不安定だ。木場さんに会った日――人身事故に遭遇した日も私は溢れる記憶に戸惑った。あれは正しく情緒不安定だ。それが私の脳が作り出した感情ではなくとも、私自身が感じているから、それは他者から見れば情緒不安定で片付けられるものだ。私の複雑な事情など説明しても分からないだろうし、説明するだけ無駄である。
そこでふと、中野に行こうかという気持ちになったのである。

「いや、止めよう」

行ってどうするのだ。中禅寺さんに子細を話すのか?
馬鹿馬鹿しい。
先程も云ったとおり、他者からしてみれば、私は只の“いかれた人”なのだ。中禅寺さんが信じてくれても、それに対する答えを持っていなかったら同じことである。
やはり、榎木津さんに会いたかった。
あの人は答えを絶対持っている。
榎木津さんは私には到底分からないような理屈で動いている。だからこそ、榎木津さんは答えを持たないで動くことはないと思った。
もしかしたら私は、あの人の絶対的な処に惹かれたのではないだろうか。好きとか嫌いではなく、どんなことでも揺るがない、そんな処に惹かれたのでは――。
それは、必ずしも恋愛感情ではないのかもしれない。私はろくに恋すらしたことがないから、分からないが、もしかしたら憧れとか尊敬とか、そういう感情なのかもしれない。
ただ、榎木津さんを見ていると動悸が激しくなるし、笑っていると嬉しくなる。
今はそれでいいのだろう。
私は榎木津さんを出来る限り理解したいと思っている。同じ世界を見ることは叶わなくても、その世界を受け容れたいとは思う。
榎木津さんからしてみれば、私の悩んでいる事なんて些細なことでしかないだろう。榎木津さんなら、そんなことで悩むなと笑ってくれる気がする。私は私でしかないのだから、と云ってくれる。
でも、それでは駄目だ。
私がどうして此処に居るのか。それを知らなくては、榎木津さんと会っても逃げてしまうだけだ。榎木津さんに全てを委ねて、私は解決した気持ちになって。
それはただ榎木津さんを利用しているだけだ。
だから、会えない。
会ってはいけない。
きっと、小沢春子も悩んだのだろう。未来の事を知っている。自分と同じ時を生きる私の記憶がある。そして、私が愛した(ということになっている)榎木津さんと小沢春子が出会うことはない。
小沢春子の来世の来世が私なら、私の前世の前世は小沢春子だ。
一つの魂が、同時に別々の人に宿るというのは考えにくい。私と小沢春子が入れ代わりだったのなら納得できるが、何故私と小沢春子が存在する。
私は魂の存在を信じてはいなかったが、この場合は信じるしかない。というより、魂の存在を出さない事には説明できないのだ。
前世の私は、果たしてその前世――小沢春子の記憶が有ったのだろうか。それすらも、私は覚えていなかった。
恐らく、この絡繰りの全貌を知っていた小沢春子はもういない。
私は何も知らない。
もしかしたら、前世の私は何か知っていたのだろうか。
だが、前世の私は即ち私だ。覚えていない事も多々あるが、それは主に幼い頃の記憶だ。
覚えていない事はどれくらいあるのだろうか。物心付くまでは覚えていない。それと、母親の胎内で目覚める直前のことも覚えていない。死んだのか病気なのか、それすらも覚えていない。
私には小沢春子ではないという証拠がない。小沢春子が私のことを来世と云ったのなら、性格人格こそ違えど、それは小沢春子だ。
小沢春子は自覚している。
自分の魂を持った身体が何度も生まれてくることを知っていた。
小沢春子が前世の私の記憶を持っていたのかは定かではない。今の私の記憶が分かれば、前世の私のことも分かる。私の中では繋がっているのだから。

「春子!」

呼ばれた。
この声は、友人である那三重(なみえ)の声だ。
本来なら水曜日である今日は学校だが、創立記念日で休みだ。その為、遊びに出掛けるものも多い筈だ。

「どうしたの?」

私がそう聞くと、那三重は怒ったように目を細めた。眉間に皺が寄っている。

「どうしたのはこっちの台詞よ!春子こそ、どうして」

そういえば、彼女の家は学校から意外と近い。私の家よりは断然近い。
音羽に居を構える那三重の家に何度か遊びに行ったことがある。那三重に無理矢理連れていかれたのだ。

「ちょっと知り合いの処に行ったんだけど、居なくて」

「この間の人?」

そういえば、那三重は榎木津さんに会っているのだ。
隠しても無駄だということは知っていたから、私は素直に頷いた。
夏休みがあけた時には既に噂として出回っていた事だ。今更隠しても仕方ない。

「そういえば、後輩が一日に春子と榎木津さん――だっけ、見たって云ってたわよ」

「父の友人よ」

私は夏休み前に云ったことを繰り返した。
だが、那三重は見破っていたようで「それは嘘でしょう?」と云ってきた。

「確かにその時はね。でも後から戦時中に父の上官だったって分かったの」

「あら、そうだったの」

那三重は何時ものように笑った。私は、この微笑みが苦手だ。
底無し沼に填まったような、そんな気分に陥る。そう思うようになったのは、やはりあの事件が関係していると思う。

「春子、私は春子の恋を応援しているから」

「なに、いきなり」

「ちょっとね」

そう笑った那三重は先程のような暗い気持ちにさせるような笑顔ではなく、恥ずかしそうな嬉しそうな、それで居て苦しそうなそんな笑顔だった。
大人びている。

「そういえば縁談があるって――」

結構なお金持ちの那三重に縁談が来ていることは、那三重本人から相談されていた。
少し気になった。

「縁談って云っても、幼馴染となのよ。今日も会いに行くの。詳しくは明日話すわ」

「わかった」

少し深刻そうに顔を近付けた那三重に私は頷いた。




「何で榎さんがいるんだ」

「早く話さないと忘れてしまうからね」

榎木津は猫と戯れていた。
そこで関口はあることを思い出した。

「そういえば、榎さん。里村のところで春子さんに会ったよ」

「なにっ! それを早く云え馬鹿者」

榎木津は眉を顰めて、関口の頭の上を見た。






(離別を畏れている)


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