迫り来る、何か

欲しかったのは、彼女の心だ。
手に入ると思った。
膝枕をした彼女は、恥ずかしそうに笑っていたから。きっと本人でさえ気付いていない。
彼女は自分が無表情だと思い込んでいるが、実はそうではない。本当はもっと明るい表情をする子だ。
彼女は何かを恐れている。それが何なのか、榎木津には分からない。けれど、彼女の云う“前世”に関係しているだろうことは感じた。彼女が恐れているもの。それさえなければ、彼女はもっと色々な表情を見せてくれるに違いない。
彼女はその恐れている何かの所為で、恋すら出来ないのだろう。
榎木津だったら関係ない。そんなものは有って無いが如し。彼女が恐れるものは全て、榎木津が壊すだけだ。



夏休みの後半は春子が榎木津のもとを訪れないまま終わってしまった。
始業式。今日から春子の通う女学校も始まるためか、街は――薔薇十字探偵社の近辺は騒々しかった。春子の通う女学校はお嬢様学校である。そして偏差値も高い。久しぶりに会ったお嬢様達が夏休みは長野の別荘に行った、等と話しているのが、薔薇十字探偵社に居ても聞こえてきた。

「春子さん、来ませんねえ」

和寅は外を見ながら呟いた。
それは榎木津が気にしていたことだった。
春子は夏休みの後半から、全く姿を見せなかった。正確には16日からだ。15日に春子の母親から出掛けた旨を聞き、16日に来てくれるように言付けた。
だが、春子は来なかった。
春子が約束を破るような少女でない事は知っている。だからこそ、春子が榎木津の処に来ないのに、榎木津の方から行く訳にはいかなかった。
榎木津はビルディングの前を通る少女達に上から目を向けた。春子と同じ制服の彼女達は、学校とは逆方向へ向かっていた。

「もう終わったんでしょうね」

「和寅。ちょっと出掛ける」

榎木津はそういうと立ち上がった。
前言を撤回して春子に会いに行こうと決めた。
春子が榎木津に会わない理由を純粋に知りたかったのだ。それを教えてくれるものは周りに居なかった為、そのような行動にでるしかなかったとも云えよう。
春子に会いたい。照れて笑うあの表情が好きだから。
女学生の波を逆流して、春子の通う女学校へ向かう。逆流する際、女学生の波に春子が居ないか確認しながら。
今までこんなに女学生を気に留めたことはなかった。春子と知り合ってから、榎木津にはちょっとした心境の変化が起こっている。

「榎木津さん……?」

小さく呟かれた言葉を、榎木津は聞き漏らさなかった。今のは間違いなく春子の声だった。
声は前方から聞こえたため、榎木津は少し顔を上げ、春子を探した。
春子は榎木津と目が合うと、パッと横道に入ってしまった。急いで榎木津も跡を追う。

「春ちゃん!」

榎木津は前方を一生懸命走っている春子の背中に叫んだ。春子の肩が揺れ、徐々にスピードが落ちていく。
榎木津も春子にあわせてスピードを落とした。

「榎木津さん」

春子はゆっくりと、恐る恐る振り返った。振り返った春子は泣きそうだった。

「春ちゃん」

「ごめんなさい。16日は行けなくて」

榎木津は春子の頭の少し上を見た。
電車だ。中央線。それと――。

「木場修に会ったのか」

「木場さん? そういえば!」

春子はこぼれ落ちそうだった涙を引っ込ませて云った。
榎木津は春子の表情が変わり、色々な表情を見れることを嬉しく思った。

「木場さんに私のこと云ったでしょう!」

「云ったかな?」

ぷんすか怒る春子は、以前よりも表情が出ている。
榎木津は木場と飲んだときに、確かに春子のことを云っているのだが、榎木津がそれを思い出すことはなかった。

「もう」

「春ちゃん。どうして来なかったんだい。電車がどうしたというのだ!」

榎木津がそう聞くと、春子は驚いたように目を見開き、ぱちりと瞬きをした。
そんな表情も榎木津は可愛いと思う。

「実は、15日に人身事故に遭遇してしまって。そこで木場さんに会ったわけですが、どうも嫌な予感がして」

春子は途中で一度だけ視線が泳いだ。
春子の髪型と同じ、お下げの少女。その少女から、春子は何かを感じ取ったのだろう。

「何だか、こんにゃくの上を歩いているみたいに不安で、気味が悪くて」

「大丈夫だ、春ちゃん。僕が付いてるだろうッ」

春子は榎木津の言葉を理解すると同時に、一気に赤面して恥ずかしそうに笑った。
春子は本当に可愛い。造形も美しいのだが、表情が一々可愛いのだ。

「どうして榎木津さんはそういうことをさらっと云っちゃうかなあ」

春子は赤面して熱くなった頬や耳に手を当てて呟いた。

「春ちゃん。僕は今の春ちゃんの方が好きだ!」

「今のって?」

「春ちゃん。肩の力を抜いていい。僕の前くらい、リラックスしなさい」

出来ませんよ、と春子は呟いた。
その瞳には涙が戻っている。

「だって、多分私は榎木津さんのことが好きなんです」

春子の瞳から、涙がこぼれ落ちた。
榎木津には、春子の心は分からなかった。どうして泣くのか、分からない。榎木津は嬉しいときには笑うし、不本意なときは怒る。
好きだということが嬉しいことではないということも、榎木津は勿論知っていたが、なぜ泣くのかは分からなかった。

「僕も春ちゃんが好きだ」

だからこそ、榎木津はちゃんと言葉で云った。

「私は榎木津さんのことが好きなのか分からないんです」

春子はそこで言葉を区切ると、涙を拭い大きく息を吸った。
まだ潤んだ瞳で榎木津を見上げる。

「記憶が増えている、と云いました。あの時は身に覚えのない記憶と云いましたが、違いました。私は確かに」

――記憶に覚えがあるんです。
記憶に覚えがあるとか無いとか云うのはおかしな話だ、と榎木津は思う。だが、確かにそういうこともあるのは身を持って知っている。榎木津自身も経験したことがある。

「あの時は、内容までは話しませんでしたが――私には誰かを愛した記憶があるんです」

榎木津は怒りで目の前が赤く染まった。
春子が誰かを愛した。それは榎木津にとって怒りにしかならなかった。その矛先は春子が愛した“誰か”に向いている。

「私はその誰かを榎木津さんだと、思ったんです。どうしてそう思ったのかは覚えていないのだけど――」

「そうか。だから春ちゃんはさっき多分と云ったんだね」

春子は苦しそうに眉を顰めて頷いた。
だとしたら、おかしな話だ。
春子が愛したのは榎木津なのだから、榎木津の怒りは自分に向くことになる。

「私が榎木津さんを好きなのは記憶の所為なのか、私には分からなかったんです。でも、今はっきりしました」

春子は顔を上げて、榎木津を見つめた。
榎木津も同じように春子を見つめる。

「記憶が無くても、私は榎木津さんを好きになっていました」

春子は照れたように笑った。
云うのが恥ずかしいのか、俯いてしまった。榎木津から春子の表情は伺えないが、きっと視線を泳がせているに違いない。

「うん。知ってる」

「榎木津さん……」

榎木津は春子の頬に両手を添えて、上向かせた。春子のオニキスのような瞳とぶつかる。学生らしい健康的な肌は吸い付くように柔らかい。

「帰ろう」

榎木津がそういうと、春子は2、3瞬きをした。

「帰る、か――」

春子は自嘲的な笑みを浮かべた。その表情は、何時もより一層大人びていた。

「私は、人を好きになるというのが怖いんです」

春子は続けて云う。

「だって、人を好きになってしまったら帰りたくないと思ってしまう。私にとって、この世界は私の世界では無かったから。私はどうしてこの世界に生まれたのかも覚えていないんです。死んで生まれ変わったのか、それとも他の理由があるのか」

春子は榎木津が見たこともないような表情をしていた。
哀しそうな嬉しそうな楽しそうな辛そうな、でも恋をしている表情だ。

「榎木津さんは、私でいいんですか。いつか私は何もかもを捨てて帰ってしまうかもしれない」

「かぐや姫は月に帰ってしまったけれど、帝はそれでもかぐや姫を愛していた。それが答えだよ」

春子は嬉しそうに笑う。
榎木津も笑った。
さあ、帰ろう。そう云って榎木津は春子の手を取り、歩きだした。
まだ夏だというのに、春子の手は驚くほど冷たかった。






(迫りくる、何か)


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