私は恋を出来ないのよ


人はどうして進化してしまったのだろうか。猿のままで居れば、余計な心配事もなく、只本能のままに生活することが出来たのに。
失敗失態というのは、私たちが作り出したものである。私たちがそれを“失敗だ”と思わなければ、それは失敗ではない。失敗をくよくよ悩んで引き摺るのか、それともスパッと諦めるのかは人によるだろう。
私はどちらかと云えば、根に持つ方である。こと勉強に関しては。
私は将来への不安を抱えている。今年の夏が終われば、本格的に受験勉強をしなければなるまい。だが、私は進路が決まっていない。前世での私も理系だったのだが、前世と終戦直後では、分かっていることと分かっていない事の差が激しい。
私が勉強していたのは環境問題についてだ。この年代に、環境問題というのはない。これから高度経済成長をしようとしているくらいなのだ。環境問題は経済成長後の問題である。
つまり、私はこの世界で何を勉強したらいいのか分からないのだ。

「榎木津さん、帰りましょう。長くお邪魔しても中禅寺さんにご迷惑がかかります」

「春ちゃんは多くの問題を抱えているな」

榎木津さんはうっすらと目を開いた。
あれから2時間くらいは経っている。もう昼時である。色々と話し込んでしまったが、区切りが付いたので榎木津さんを起こしたのだ。

「お腹が空いたな」

「あなた、お昼は榎木津さんも関口さんも春子さんもご一緒してもらえばいいじゃないですか」

榎木津さんの呟きに、タイミングを見計らっていたのか、千鶴子さんが答えた。
榎木津さんはバネ仕掛けのように飛び起きると「流石だ、千鶴ちゃん」と笑った。

「榎木津さん」

「いいじゃないか。千鶴ちゃんの料理は美味しいよ」

そういう問題ではないのだ。
勝手に上がり込んで御相伴に与ろうなどと云うのは、モラルの問題である。
関口さんは非常に微妙な角度で体を傾けた。

「僕は遠慮しておくよ。雪絵が用意しているだろうから」

雪絵とは奥さんのことだろう。既婚者だったのには驚きだ。こんなところでふらふらしていてもいいのだろうか、と不安になるが、それは私が心配する事ではないと思い直した。

「ならさっさと帰りたまえ」

「云われなくたって帰るよ」

関口さんは重そうな腰を上げた。関口さんを見ていると、地球の重力が如何に大きいか分かる気がする。動きが緩慢すぎるのだ。まるで関口さんだけ2倍の重力を受けているかのようである。
私達は大気圧も重力も、余り体感することはない。それは生まれたときからその環境に居るからである。体重は何処で計っても同じでなくてはいけない。だが、地球は自転しているが故に遠心力が働く。遠心力は半径が長くなればなる程、大きくなっていく。つまり、半径がより長い赤道付近では、外へ向おうとする力が大きいため体重が軽いのだ。
関口さんは恐らく、あらゆる重力(プレッシャー)があるのだろう。赤道付近に生まれていれば、関口さんも何か違ったのかもしれない。

「春ちゃんはまた変なことを考えているな」

「変な事ではありません。少し万有引力について考えていただけです」

私は根っからの理系人間である。数学や理科は出来る出来ないは別として、好きなのだ。“数学が得意だから理系”ではなく、数学や理科がやりたいから理系なのだ。

「そういえば、僕は何でここに――」

関口さんは立ったまま、少し首を傾げると「まあいいか」と云って立ち去った。

「兄さん、私もそろそろ帰るわね」

敦子さんはそういうと、関口さんよりは大分機敏に立ち上がった。「今度お茶でもしましょう」と云って、関口さんの後を追っていった。

「榎木津さん」

「僕はお腹が減ったんだ。千鶴ちゃんの手料理が食べたいんだ」

「ご迷惑でしょうから帰りましょう。そんなにお昼が食べたいのなら私が作りますし」

榎木津さんは憮然として胡坐を掻いていたが、私が云った途端、帰ろうと云いだした。
何なんだ、一体。

「それじゃあ千鶴ちゃん。また今度」

「あら、残念ですわ」

千鶴子さんはそういうと、中禅寺さんを見て「あなたも何か云ったらどうです」と呟いた。中禅寺さんは千鶴子さんをちらりともせず、「帰ると云っているんだ。帰らせたほうが懸命だ」と云った。
この際、何が懸命なのかは聞いておかないことにする。どうせ榎木津さん関係に決まっているのだ。

「では、失礼します」

私は立ち上がって榎木津さんの腕を掴み「行きますよ」と声を掛けた。榎木津さんは立ち上がると、私が榎木津さんの腕を掴んでいる手を握った。
こっちの方が良いだろう、と宣った榎木津さんに、私は少し顔を赤くした。心臓に悪い。
玄関まで手を引かれたが、靴を履くからと云って離してもらった。よかった、とホッとしたのも束の間、靴を履き終えると直ぐに手を握られてしまった。
大きく高鳴る心臓を落ち着けるため、深呼吸をした。ともすれば、榎木津さんの魅力に総てを持っていかれそうになる。

「帰りに八百屋に寄ろう。あと肉屋。ハンバーグがいい」

「パン粉も買わないと――カレーにしましょうよ」

カレーはお手軽だ。だが、その分どれもそれなりに美味しいので、食べた人にこれは、と思わせるのは難しい。
それはそれ、これはこれ。どうしたってお手軽であるのには変わらない。

「春ちゃんが作ってくれるなら何でも大丈夫だ」

「さいですか。お昼くらい彼女に作ってもらうとかすればいいじゃないですか」

私の一歩手前を歩いていた榎木津さんは、急に立ち止まり振り返った。私は何か可笑しなことでも云っただろうか。

「僕には彼女はいないよ」

「独身貴族ですか――」

それは何とも寂しいことだ。人は人に寄りかかって生きていると某先生も云っていたではないか。
否、榎木津さんなら十分一人でも生きていけるのだろう。

「過去に付き合っていた人が居ないわけではないのでしょう?」

「居たよ。でも、それらは今の僕には関係ない」

強い。
私だったら、そんな風には考えられない。現に、今だって前世の家族への未練が、私に望郷の念をもたらしている。

「春ちゃんにどんな過去があろうと、それが今の春ちゃんだからだ」

「それもそうですけど――」

やはり、人とは脆いものだ。人は何て脆弱なのだろう。哀しくなる程弱くて、だからこそ護りたいとか壊したいとか思うのかもしれない。
そう、どんな過去があろうとも、それは今の私を構成するほんの少しの要素でしかない。過去には捕われたくないと願ってはいる。しかし、そう願ったところでどうにかなる問題ではないことも確かなのだ。

「さぁ、春ちゃん。お昼の材料を買って帰ろう」

榎木津さんは相変わらずの様子で、私の手を引っ張る。先程よりは少し弱くなった力に、私は首を傾げた。

「春ちゃんはどんな物が好きなんだい」

「私ですか――? そうですね、甘いものは割と好きです」

僕はクッキーが嫌いだ、と榎木津さんは云う。外見と性格が一致しないのは分かっていた。今更クッキーが嫌いと云われても驚きはしない。
だが、そのほかの人はそうではないのだろう。榎木津さんは元華族である。性格を知っていても、無碍には出来ないのだろう。西洋的な外見からも、クッキーを勧められることが多いのだろう。

「それと、竃馬は嫌だな」

「私はそうでもないですよ。農村なので虫や蛇は一杯いますし」

別に珍しくも無いのだ。お陰でゴキブリを殺すことには慣れたし、コオロギとゴキブリの区別だってつく。団子虫と草鞋虫の区別もつく。青大将はしょっちゅう家の中に入ってくるから、私はもう大抵の虫は平気になってしまった。
ただ、虫ではない節足動物と軟体動物は大半が駄目だ。特に駄目なのが蜘蛛、蝸牛、蛞、蛭だ。気持ち悪くて見るのも嫌なくらいだ。

「そういえば、父が会いたがっていましたよ」

私の父が榎木津さんの部下だったとは驚きである。といっても、終戦間近に配属されたため、余り話したことはなかったそうだが。
昨日、榎木津さんに家まで送ってもらった時、父が慌てたように玄関を飛び出してきたのだ。そして大声で「榎木津さん」と叫んだ。榎木津さんは直ぐに「トマトだ!」と返答した。確かに私の父はトマトみたいである。緊張したときの顔は林檎病かと疑うほど赤くなるのだ。赤面症も困ったものである。
それから父は暫く榎木津さんと話すと、機嫌良く家に戻った。
何だったのだろうか、と私が思案する間に、榎木津さんは私の手を握っていた。そして薔薇十字社の住所を告げられた。
家に戻れば戻ったで、父が榎木津さんとの関係を聞いてこようとして、はぐらかすのに大変な時間を労した。

「今度、一緒にくれば良い」

「私は話に付いていけないのでご遠慮します」

榎木津さんは私には答えずに、一瞬天を仰ぐと、近くにあった八百屋へと私を誘った。八百屋でカレーの材料が揃ってしまったのは不覚だった。予想以上に重くて困っていたら、榎木津さんが持ってくれた。
矢張り、男の人は力持ちであると実感した。体の作りが違うのだ。
荷物を持っても尚、余裕な榎木津さんにときめいたのは気のせいだろう。
未だに繋がれた手が、熱い。惑わされそうになる頭を必死に整理する。
私は帰りたい。生きていた世界に、未来に。それを忘れてはいけない。





(私は恋を出来ないのよ)


prev next

bkm
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -