重力加速度のように


ふと、思い出したことがあった。否、思い出したというのは適切ではないだろう。それは降って湧いたかのように、私の思い出となったのだ。事実、私はそれまでその思い出した事柄について何にも知らなかった。それは、過去の私の記憶でも、今の私の記憶でもない。私は少なくとも今までに、自分と自分の記憶との間に齟齬を来したことはない。それが、どうだ。私には今、彼氏が――思い人がいたという記憶があるのだ。
その時、私は。

「榎木津さん、関口さん、安和さん」

私はそう口にした。そうしなければ、私は気が触れてしまいそうだった。
私にはあるはずのない記憶がある。思い出そうとすれば焦がれる程の恋情と共に浮かび上がってくる。そんなことは、ないはずだ。つい先ほど、私は自分自身に“彼氏居ない歴は合計で30年と少し”――ろくに恋すらしたことがない、と云ったではないか。

「中禅寺さんの処へ――」

連れていってください、と云う前に、横に居た榎木津さんに強く腕を掴まれた。驚いて見上げれば、榎木津さんは険しい顔をして、どうしたと問うた。

「春ちゃんの問題は昨日解決したじゃないか」

「また新たな問題が発生したということです」

「水崎さん、それはつまり――」

関口さん、と私は関口さんの台詞を遮った。驚いた顔をしている。恐らく榎木津さんの知り合いなのだから中禅寺さんのことは知っているだろう。そう辺りを付けていたのだが、違ったのだろうか。ただ、関口さんは言葉が拙いから、関口さんの様子からそれを悟ることは出来ないので、本当のことなど私には分からない。
私は自分が努めて冷静に考えようとしていることに気が付いた。その証拠に、関口さんの台詞を遮ったはいいが、何を言っていいのか分からなくなっている。思考が散乱していてる。

「関口さんは、見に覚えがないことはあるでしょうか」

「そりゃあ、酔ったときなどは後で見に覚えのないことを云われたりするものだろう?」

「そうですね。けれど、今この瞬間に、自分のあるはずのない過去が出来てしまったら」

見に覚えのない過去が突然降って湧いたりするものだろうか。見に覚えのない過去は、時間を経て発覚するものである。人は基本的に自分の過去を疑わない。記憶を疑ったりはしないのだ。覚え違いというものだって、ある程度の時間が経って発覚するものである。テストの為に覚えた英単語があったとしよう。それだって、採点の終わった答案を見なければ間違ったことに気付かないのだ。間にテストというものが入っている。
だが、これは。蓄積された記憶を拾い上げた瞬間に、これは私の記憶ではないと、そう断言できた。私はそもそも、記憶力は良い方だ。大体、そんな熱烈な恋をしたことを忘れるはずがない。なのに私は恋した相手の顔すら思い出せないのだ。ただ、熱烈な恋をしたという記憶だけが、表層に浮かび上がって来ただけなのだ。

「果たしてそんなことが有り得るのでしょうか。私はそれが知りたいのです」

だから、中禅寺さんの処へ行きたいのだと私は伝えた。この感覚がどういうものなのか、それを伝えるのは難しい。それでも私は、中禅寺さんなら正確に読み取ってくれると確信しているのだ。
私は恐らく無知なのだ。学問的なことはそれこそ人並み以上に出来るが、雑学や蘊蓄の類はとんと知らぬ。それではいけないのだ。無知であるということは無恥であるということなのだから。勉強は出来ても、常識や良識を知らぬのではそれは単なる馬鹿なのだ。
それは、と榎木津さんが云った。

「春ちゃん、どうしてそれを今考えるんだ」

「私は、私のものではない私の過去を認めたくないのです。けれど、記憶が突然改竄されるわけではないことも、私は重々承知しています。だとしたら――」

私はどうやって自らを納得させればいいのだろうか。
だからこそ、中禅寺さんの処へ行かなくてはならないのだ。私自身を納得させるため。否、この不可解な状況に最も適当な答えを見付けるために。
そのためにも、私は中禅寺さんに会わなくてはならなかった。

「――わかった。行こう、春ちゃん」

榎木津さんは一度頷くと、私の腕を掴んだまま歩きだした。私は昨日、今日と中禅寺さんに会いに行くことになる。それは申し訳ない気がしたが、どうしても解決したいから気にしない、と頭を二度程左右に振った。
きっと、私が相手の顔を思い出そうとしても思い出せないから、榎木津さんにも視えたりはしないだろう。それとも、視えるのだろうか。

「関も来い」

榎木津さんがそういうと、関口さんはおろおろとしながら緩慢な動作で立ち上がった。動きが緩いのだ。見ているこちらが不安定になるような動作である。

「で、でも榎さん、水崎さんは」

「関口さん、春子で結構ですよ」

落ち着いてるね、と関口さんは吃りながらいった。恐らくあっている。もごもごとしていたが、私の耳は記憶ほど可笑しくはないだろう。
そもそも、記憶が改善されるというのも可笑しな話である。それが今の私の記憶が前世の私の記憶かも分からないというのに。

「落ちついてなどいませんよ。強いて云うなら恐怖です。恐怖があるだけなんです」

このまま記憶が改善されたらどうなるのだろう、という先の見えない物に対する恐怖だけだ。今は未だ身に覚えのない記憶が“増えている”からいい。だが、それがもし減っていたら、果たして私は気付くだろうか。
――私は、それが怖いのだ。

「は、春子君、きみは」

「春ちゃん、関! 何をしている。早く行くぞ」

榎木津さんが云った。すると、それまで只茫然と立っていた安和さんが情けない声で先生ぇ、と呻いた。

「私ァどうすれば――」

「お前は留守番だ」

まるで分かり切ったことを聞くな、とでも云うかのように、榎木津さんは即答で切って捨てた。無慈悲だ。もっと良い云い方があるだろうに。
だが、安和さんは慣れているようで、そうですかぁ、と気の抜けるような返事をするとどさっと椅子に腰を下ろした。

「行くぞ」

榎木津さんに腕を引かれながら、私は関口さんと共に神保町を歩いた。陽に焼けた古書の匂いが満ちあふれている。
ああ、生きているのだ。
私は確かにこの世界で生きている。味も匂いも触覚もある。怪我をすれば痛いし、今まで順調に歳をとってきた。――もう、夢では済まされない処まで来てしまったのだ。

「重いなぁ」

気付いたら、口から出ていた言葉。
私にとって、生きることはどうしても重い。期待や不安、羨望と妬みを背負っているからか、生きていることが辛くなる。それは所謂ホームシックという奴なのだろう。
それでも、私には呼吸ですら辛い時があるのだ。そんな時、私は決まって泣く。家族にも云ったことはない、私の秘密。

「何が重いと云うのだ」

聞かれていたと思うと、恥ずかしさがどっと押し寄せた。
人間関係自体が重い。勿論、何時もそんなことを思っているわけではないのだが、ふと耐えきれない程に重くなるのだ。私自身は鬱ではないし、きっと私自身の――主に私の前世に関する記憶が――そうさせるのだろう。前世の記憶を持っている人などまずいないし、それが未来の記憶となれば、それは確実に有り得ないものになった。私が未来を知っているというのは、今を生きる人たちと接するにあたって、背徳めたい気持ちをもたらした。
それは、榎木津さんや中禅寺さんにも云える。二人は私が未来を知っていることを聞いてはこない。それが嬉しくもあるし、背徳めたくもある。

「人の存在は想像以上に重いなぁってことです」

どうしても、人は重い。普段は気付かないだけなのだ。
きっとそれは、地球が私たちを地球に繋ぎ止めようとする重力よりも、重いのだろう。
関口さんは分かるよ、と云った。
関口さんなら、分かる気がした。理由はない。云ってしまえば、私の勘だ。

「僕だって、そう思う」

「それは、仕方ないでしょう。生きている以上、命は価値あるものなのですから」

「それは違うぞ。命は生きている者の言い訳だ」

それも、その通りなのかも知れない。死んだ者に命の尊さを説いても、その人は死んでいるのだから。命なんて物は、自分の死への恐怖を和らげるために作られたものなのだろう。
自分は尊いのだと。
自分は死した後も、丁重に扱われなければいけないのだと。
誰だって、自分が無下に扱われるのは嫌だから。
私はもう一度、重いなぁと呟いた。





(重力加速度のように)


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