蓋然的に恋してる


辛い、苦しい。濁っていて、先も見えない程だった。私はその中で藻掻き苦しんでいる。だってそこには酸素が無くて、濁った水の中で私は呼吸の仕方さえ知らないのだ。もう、昔のことだった。忘れてしまった。
涙があふれてきて、どうしようもなくて。口からごぽり、と気泡が飛び出した。それでも、口の中に水が侵入してくるわけでもなくて、私は只只、空気を失って死ぬのだな、と思った。空気が――酸素が欲しかった。
ずっと何も知らないままで居たかった。戦争の悲惨さも、大人の醜さも、知りたくはなかった。前世の頃から怖かった。私という個が認められず、居ないかのような――存在しないかのような、言い知れない不安に襲われた。だから、私は極力関心を払わないようにしてきたのだ。その結果が無表情でもある。

「榎木津さん、呼びましたか」

そう聞けば、ああ、呼んだぞ! と必ず返ってくる言葉に、私は不覚にも泣きそうになった。私が求めていたのは、これなのかもしれない。私にとっての酸素は榎木津さんなのだろう。出会って三日目でこんなことを思うのは可笑しいのかも知れないけれど。
榎木津さんの部屋に入ると、榎木津さんはベッドに腰掛けていた。一歩踏み出すと、榎木津さんが手招きをしていたので、近くまで寄った。

「どうしたんですか」

「顔が見たくなっただけだ」

「もう、だったら榎木津さんが出てくればいいのに」

思わず呟くと、榎木津さんはちょっぴり目を見開いていた。人形みたいに綺麗な表情が可愛くなった。ちょっと意外、と私も目を見開いた。

「春ちゃん、ずっとそのままで」

「ええ、無理言わないで下さいよ」

「春ちゃんは可愛いね」

榎木津さんがふんわり、と効果音が付きそうなくらい柔らかく笑うものだから、私も笑ってしまった。ああ、何だかいいな、と思うくらい、ゆったりとした雰囲気が満ちあふれる。
榎木津さんは緩やかに笑っている。穏やかだなぁ。

「じゃあ、そういうことにしておきましょうか」

榎木津さんは私の腕を引っ張った。これ、何回目だろうか、と数えたくなるほど引っ張られている気がする。
榎木津さんの腕の中は温かい。昨日も思ったことだが、榎木津さんはひだまりのように温かいのだ。母親に抱かれているような、実の母親にさえ思ったことのないことを、榎木津には思うのだ。

「榎木津さん」

「春ちゃんは温かいな」

「榎木津さんの方が温かいですよ?」

心地の良い温かさだ。夏だというのに、暑いとは感じない。60年後よりは夏も幾らか過ごしやすくて、そのためか榎木津さんの温かさは心地好いのだ。
少し、眠い。

「春ちゃん、眠いんだな」

「少し……ほんの少しだけ」

榎木津さんが温かいから、ついうとうとしてしまう。まだ朝早い。舟を漕ぎそうになるのを必死に堪える。もしかしたら、少しではなくとてつもなく眠いのかもしれない。
どうして榎木津さんは私のことを分かるのだろう。私の無表情は友達ですら何を考えているのか分からない、と匙を投げるほどなのに。私の心が読めるのだろうか。

「ん、ねむ、い」

ふと、榎木津さんを見上げると、榎木津さんも私を見ていたようで、ばっちりと目が合った。吸い込まれそうなくらい、澄んだ瞳。もっと良く見たくて、少しずつ近づく。段々と榎木津さんの瞳が大きくなる。

「榎木津さん……」

ああ、やっぱりこの人は綺麗だ。天衣無縫とはこのことか、と思ってしまうくらい飾っていない。吸い込まれそうで、思わず目を瞑った。
しまった、と思った。これではまるで――。

「んっ」

矢張りというか何というか。据え膳食わぬは男の恥というけれど、少しくらい待ってくれたっていいではないか。せっかちさんだ。
眼が覚めてしまった。心地よかったのに。なんてことをしてくれるんだ、という意味をこめて榎木津さんを見る。因みに未だ彼に捕まったままである。

「甘いな」

ぐっと力を入れて榎木津さんを押したとき、私と榎木津さんの間に少しの間が出来た。その隙を縫うように榎木津さんが紡いだ言葉は、低く耳障りも良く、簡単に私の腰を砕いた。
息を吸おうと少しの口を開いた瞬間を狙って、榎木津さんは入り込んできた。余りの手際の良さに唖然とするが、それと同時に(ああ、慣れているのだな)と胸が痛んだ。この感情を、私は知っている。

「ふぁ、んっ」

巧すぎるだろ、と突っ込みを入れたい。前世でも女子校だった為か彼氏いない歴は合計と30年と少し。青春を謳歌しようとしていた矢先に一からやり直したのだから、当たり前だ。そんなド素人な私でも、分かるくらい巧い。

「え、えのきづさん……!」

「春ちゃん」

ぺろりと自らの唇を舐めた榎木津さんは、至極楽しそうだ。恥ずかしさの余り、顔から火が出そうだった。今は榎木津さんの綺麗な顔ですら憎らしく思えてくる。

「可愛い」

「余計なお世話ですっ」

恥ずかしくて眼もあわせられない。そういえば、榎木津さんには過去を視る能力があるとか。もしかして、私が見た光景も視えたりするのだろうか。それは果てしなく恥ずかしい。
ああ、どうして榎木津さんはこうも私の心を簡単に揺らすのだろうか。鉄のように固いと思っていた心が、紙のようだ。簡単に破けてしまいそうなほど、薄く不安定になってしまう。
榎木津さんは、どうしてこんなことをしたのだろう。あれか、欲求不満か。ただ、私は余り容姿に恵まれた方でもないし、可愛いや綺麗で言うなら友人の方が美人だ。羨ましい限りである。

「春ちゃん、余計な事を考えてるな」

「私にとっては重大ですけど」

余計なことって言われても、気になるから考えてしまうので、私にはどうすることもできない。そりゃあ私だって出来ることなら考えたくはない。

「僕から離れるなよ」

「じゃあ離さないでくださいね」

本当に何でこんな歯の浮くような台詞がぺらぺらと出てくるのだろうか。まともな恋愛経験がない私には分からないことが一杯だ。
榎木津さんは心得たとでも言うように笑った。

「さあ、そろそろ関君のところに行こうか」

「始めからそうしてください」

榎木津さんはそういうと、私を放して立ち上がった。次いで、私の腕をしっかりと掴み、扉の方へすたすたと歩いていく。私は遅れを取らないように、少し走って榎木津さんと並んだ。榎木津さんはドアノブに手を掛けると、がちゃりと捻り、体を引いた。どうしてそういう時だけ紳士的なのだろうか。

「ありがとうございます」

「当然の事だ。気にしなくていい」

榎木津さんはそういうとふっと息を吐き出すように笑った。私の見る榎木津さんの表情は、笑顔ばかりの気がする。そんなに楽しいことでもあるのだろうか。
私は分からないことが多い。自分が何者なのかさえ、分からないのだ。今の私はきっと、前世の私に引き摺られている。

「春ちゃんは可愛いのに不細工だな」

「それは一体どっちなんです」

榎木津さんの私室と事務所の境である扉をくぐると、関口さんと安和さんが向き合って話していた。関口さんは私と榎木津さんに気付くと、話は終わったのかい、と呟いた。心なしか顔色が悪いようだ。

「終わりましたよ。おまたせしちゃいましたか?」

「春ちゃん、猿は幾らでも待たせて大丈夫だ!」

榎木津さん、とため息と一緒に吐き出した。因みに呆れの溜め息だ。榎木津さんはいい人なのだが――やっぱり少し変わっている。その性格で困ることがなかったのだろうことが不思議だ。世の中おかしいものである。私も、他の人から見れば変わっているのだろうか。

「やっぱり私って変人ですかね」

「春ちゃんは可愛い!」

榎木津さんは前後の文と脈絡がないことに気付いているのだろうか。多分、十中八九気付いていないだろう。
それでも、少し心が軽くなったので、私は笑った。




(蓋然的に、恋してる)


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