今日から夏休み。昨日は期末試験の答案も返ってきて落ち込んだりもしたが、それ以上にいいことがあったのだから、試験のことは水に流して忘れようと思う。もちろん、出来ればの話だけれど。
とまあ、今日から学生には嬉しい長期の休みなのだが、私は夏休み早々出かけなければいけなかった。不本意ながらも、というより昨日の今日で会わす顔がない、と言ったほうが正しいか――今日は榎木津さんに呼ばれているのだ。強引に取り付けられた約束を“呼ばれた”と言うのかは、私によるところではないので、深く考えないことにしよう。
「ここが、榎木津さんの――」
薔薇十字探偵社。依頼人でもないのに、探偵のところに来るのは私くらいかな。いや、そもそも榎木津さんが探偵だったなんて。全然知らなかった、というのか――神がどうとか、と言っていたから宗教者なのかと思っていた。
「あの、どうかしたんですか」
後ろから声がした。首だけ後ろにひねって、声をかけた人物と目線をあわせる。ひ弱そうな、見かけでは榎木津さんと同年代の人だった。榎木津さんに依頼でもあるのだろうか。それとも、探偵社の人かもしれない。
まあ、どちらにしても、私にはあまり関係ないような気もする。
「入ろうか入るまいか――悩んでいるんです」
「ああ、分かります。この先に待っているものを思うと、入りたくなくなりますよね」
男の人は同意したようにうんうんと頷いた。意外と素直だ。初めて会った人に、そこまで話すことはないんじゃないだろうか。というか、この人はここに何度も来たことがあるのだろうか。
そして私は自分が道を塞いでいることに気付いた。
「すみません、私邪魔でしたね」
少し体をずらして、薔薇十字探偵社のの扉の前から退いた。私は今の今まで磨りガラスの扉の前でただぼうっと立っていた。傍から見れば大変怪しい人物に映ったであろう。男性の“私に声をかける”という行動は称賛に値するだろう。
「貴女は入らないんですか」
そう問われて、私はこの探偵社に入る気がないことに気が付いた。別に榎木津さんと会いたくないと言うわけではないのだが、何となく、自分の中で榎木津さんに会うという選択肢が無くなっていることを不思議に思った。
「そうですねえ」
入ってもいいのだが、何だかそれも照れてしまうのである。第一、こんなにも榎木津さんとうちの学校が近いとは思っていなかったのだ。通りで榎木津さんが学校を知っていた訳である。目の前、とはいかないものの、目と鼻の先にあることには変わりないのだ。
ああ、そうか。何時でも会えると分かってしまったから、いま会わなくてもいいとわかったから、安堵したのだ。今は気まずい。でも、その気まずさが無くなれば、何時でも会える。それを知ってしまったから。
「今日はいいんです。榎木津さんに呼ばれて来たのですが――」
バン、と大きな音がした。扉が勢い良く開いたのだ。扉に近くなくてよかった、とホッと安堵の溜め息を吐いた。先程の男性は、少し擦ってしまったようで、手が少し赤くなっている。ちなみに本人は何が起きたかを全く理解していないようで、目を白黒させていた。
「榎木津さん、扉はもっと静かに開けないと壊れますよ」
「春ちゃんが中々、中に入ろうとしないからだ。僕の気は余り長くない。おまけに猿も一緒とは!」
猿とは今ここで急激に顔を赤くした男性のことだろうか。しかしまあ、赤面症の如く見事な赤面だった。もしかしたら、本当に赤面症なのかも知れぬ。
それにしても、“猿”とは可哀相な名前を付けられたものだ。恐らくは榎木津さんが付けたニックネームだろう。まさか、名字や名前が猿とか――無くは無いのだろうが、余り出会う確立は少ない。少なくとも私は出会ってこなかった。
「そういえば、貴方のお名前を伺っていませんでしたね。私は水崎春子といいます」
「あ、う、えと、関口巽です。よろしく……」
よろしく、と頭を下げる。握手は――実は余り好きではないので求めなかった。あの汗と汗の交わる感じ、人の体温、相手との距離、何もかもが苦手だった。気持ち悪くて、直ぐに手を洗いたくなる。最低でも手は拭きたい。が、そんなことを目の前でされたら、不快だろうと思うと握手なんか出来なかった。しない方がマシ、というやつだ。
内心、関口さんに礼儀を欠いたことを申し訳なく思いつつ、仕方ない、嫌なものは嫌なのだから、と諦めた。榎木津さんはそれを見透かしたように、私の手を取った。不思議と、榎木津さんに掴まれても嫌ではなかった。
「さあ、入りなさい。――ああ、猿は来なくていい」
どうやら握手ではないから嫌ではないだけだろう。そして、会う前に感じていた戸惑う程の気まずさもない。心が軽くなったようだ。私は、榎木津さんと会うことで、癒されているのかもしれない。
「関口さんは来ないんですか」
「え、ああー…」
「春ちゃん、猿など呼ばなくてもいい!」
「でも、榎木津さんに用事があるのでしょうから、何れは入らざるを得ませんよ」
用事が無ければ、誰もこんな所に来たいとは思うまい。私だって、榎木津さんがいるから、仕方なくここに来たのだから。見た感じ、関口さんだって、なるべく厄介事とは関わりたくないという感じだろう。そういう人はいっぱいいるから、別に不思議でもない。
「先生、そちらの方は?」
また誰かが出てきた。どうやら榎木津さんはここに住んでいるようだし(榎木津さんから呼び出された時に聞いた)、わざわざ人の家の真ん前で屯しなくても、一歩足を踏み出せば広い場所でゆっくりと話が出来るのに、どうしてそれをしないのだろうか。そもそも、探偵社に住むのはどうだろう。
「春ちゃんだ!」
「水崎春子と申します」
よろしく、と再び頭を下げる。榎木津さんを先生、と呼んだ男性は、安和寅吉と名乗って頭を下げた。私が頭を上げると、榎木津さんは私の腕をぐいぐいと引っ張って、私を探偵社の中に引きずり込んだ。
「ちょ、榎木津さん! 転びますって!」
「さあ春ちゃん、座りなさい」
榎木津さんは私の腕を掴んだまま、ソファーを指差して座るように勧めた。だったら腕を離してください、とは言えなかった。――離してもらいたくないのかもしれない。
「そんなことより、どうして私を呼んだんですか」
「春ちゃんに会いたかったからだ!」
そんな理由で呼んだのか、と呆れてしまった。昨日会ったばかりなのに、わざわざ呼び付けると思ったら、そんな理由だったとは。呆れ返って物も言えない――というか、悉く私の予想を裏切ってくれる。別に何かを予想していたわけではないが、そう思ってしまうにも仕方のないことだろう。
「では、会えたのでもう用はありませんよね」
「そんなことはない。春ちゃんとしゃべりたい」
「――そんなこと言われても」
照れるような台詞を素面で言えるなんて、榎木津さんはある意味凄いな。おかげで私は更に無表情になった気がする。
関口さんだって安和さんだって、訝しげに見ている。ああ、物凄く恥ずかしい。惜し気もなく輝かしい笑顔を振りまかないでください、榎木津さん。
「春ちゃんは緊張しすぎだ。もっと笑ったほうがいい」
「だって緊張してしまうのは仕方ないじゃないですか。もう癖なんですよ……」
「そんなものは関係ないよ、春ちゃん。もっと笑ったほうがいい。春ちゃんはその方が可愛いのだからね」
ね、と微笑む榎木津さんに、無表情になる暇もなく、赤面するのが自分でも分かった。そんなことを今までに言われたことがなかったから、驚いている間に赤面してしまった、というのが正しいところだろうか。赤面したのなんて、いつ以来だろう。
「春ちゃんはかわいいな」
ぎゅうぎゅうと抱き締めてくる榎木津さんに、先程の赤面も冷めないうちに、再び赤面してしまった。いくら先程知り合ったとはいえ、赤の他人の目の前で抱き締められるのは恥ずかしい。中禅寺さんのところでも、榎木津さんに思いっきり抱き締められたが、あれは自分から抱きついたのもあり、というより殆ど情緒不安定で覚えていないというか。そもそも、中禅寺さんと関口さん達では雰囲気からして違うのだ。中禅寺さんのところでは後から恥ずかしさが来たのもあって、抱き付いているときは全然恥ずかしくなかったのだ。
「ああ、あの、榎木津さん。恥ずかしいので離してください!」
「春ちゃんが笑うのなら離すぞ」
そんな殺生な、と思ったが、もう少しこのままでもいいかもしれない、と思ったから。
「じゃあ笑いません。笑わない代わりにずっと離さないでくださいね」
「春ちゃんがそう望むのなら――」
(未来への一歩を踏み出した)
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bkm