何かが始まる音がした


疲れていたのだ。生きることに。全てを1からやり直さなければいけないもどかしさに辟易していた。疲れた、と何度も口にしたが、友達も家族も誰一人学校が忙しくて疲れたという意味だと信じて疑わなかった。
でも、ふと目を開ければ、もとの生活に戻っているんじゃないか、とくだらない事を毎日考えるのだ。とりあえずはこの時代で生きることにしたのに、私は帰る日が来ることを信じているしかないのだ。
本当は、分かっている。帰れないことを。けれど、それを認めてしまったら、今までの私が前世の私が無くなってしまうような気がして。いや、もしかしたら信じていたら帰れる日が来るのではないか、と思っていた。

「中禅寺さん、榎木津さんが人の過去を見れるのは、本当なのですか」

「気付いていたのかね」

ええ、と頷いた。それと同時に、私は前世のことを過去と認めたのだ、と思うと少し泣きたくなった。私にとって、前世の私も今の私を構成しているものだったが、只それだけなのだ、と思うと、泣き叫びたいほどの喪失感が襲った。

「――榎さんは君のことを心配していたよ。とても多くのものを背負っている。何時か壊れてしまうのではないか、と」

「出会って二日目でそんな事を言った人は榎木津さんが初めてですよ」

「春子さん、よければ君に何があったのか教えてくれないか」

私は暫く考え込むように目を瞑った。私に起こったことを話す、と言うのは、前世のことを話すということだろうか。それは、私にとって為になることなのだろうか。一体中禅寺さんは何を知っているのだろう。
それでも、ここら辺で人に話すのもいいかもしれない。もう、私一人じゃ抱えきれないほど、大きくなってしまったのだ。年々、孤独感は増して行き、私から溢れるくらいになってしまった。

「……分かりました。お話しましょう。到底、信じられない話ではあるのですが――いいえ、きっと私が信じたくないのでしょう」

「そんなことはありません。人は必ずしも信じたくないという出来事が起こる。けれどそれは起こったことなのだから信じなければいけない。――不思議なことなどないのです」

「そう、ですね。起こったことは起こるべくして起こった。――ならば、どうして私はこの時代に生まれたのでしょうか」

本に目を向けながら、静かに話す中禅寺さんに、私は自分の身に起こったことを話しだした。本に目を向けながら、時々ページを捲る中禅寺さんは、一見聞いていないのではないか、と思ったけれど、私は兎に角話せれば誰でもよかった。

「苦しいんです。私は、私の今までの記憶は何だったのでしょう。榎木津さんが見たものは未来の文化です。私にとっては未来が前世なのです。私はこの時代のことを少なからず学びました。東京の空襲の日は恐ろしくて眠れなかった。広島、長崎に原爆が落ちたときは何もできない腑甲斐なさに一日中泣くことしか出来なかった。終戦の日、もうこれからは誰も苦しむ必要がないのだと安心しました。私には、過去をなぞって泣くことしか出来ないのに」

ああ、今ものすごく泣きたい。思いっきり泣けてしまったら、どれだけ心が楽になるだろう。けれど、これは私が背負っていかなければいけないのだ。起こることを知っていたのに、何もできなかった。それだけで、罪を背負うに値するのだから。
私が話している間も、中禅寺さんは本へと視線を向けたままだった。それでも、この人は聞いていてくれるのだ、と思うとこの人にそんな大きなものを押しつけてしまうのはとても申し訳なく思った。

「春ちゃん!」

私の後ろ、中禅寺さんの目の前で寝ていた榎木津さんが、がばりと上体を起こして叫んだ。声に驚いて振り向けば、榎木津さんは胡坐をかいて座っていた。

「え、榎木津さん!?」

「春ちゃん、泣いてもいいんだぞ。神が特別に僕の胸で泣くことを許可しているのだ。さっさと泣いてしまいなさい」

え、と口から零れたのは、その内容に驚いたからだ。まさか、私が泣きたいと思っていることを知られているなんて、思いもしなかった。どうして榎木津さんはこんなにも私の心を巧く読み取ってしまうのだろう。

「春子さん。全部一人で背負う必要はないのだよ」

泣けばいい、と言ってくれているようだった。中禅寺さんの言葉は不思議だ。心の中にすとんと落ちてくるように、すんなりと受け入れられる。
私は、榎木津さんを見た。笑っていて、大丈夫と言ってくれるような、そんな柔らかいほほ笑みだった。さあ、おいで、と両手を広げる榎木津さんに、私は飛び付いた。榎木津さんはぎゅうぎゅうと苦しいくらいに抱き締めてくれる。榎木津さんの鼓動に、温かさに、涙が次々と溢れた。
こうやって抱き締められたのは、いつ以来だろうか。もう、父にも母にも久しく抱き締めてもらったことはなかった。でも、榎木津さんは出会った時からぎゅうぎゅうと抱き締めてくれて。まるで、私はちゃんと此処にいるのだ、と証明してくれているようで、無下に振り払えなかったのだ。

「春ちゃん、君は此処にいる」

「はい」

私の心を見透かしたように、榎木津さんはつぶやいた。涙が止まらない。目から雨のように絶え間なく流れる。きっと中禅寺さんは顔色も変えずに本を読んでいるのだろう。

「春ちゃん、泣いていい。泣いていいんだ」

「――ありがとうございます」

榎木津さんは抱き締めながら、耳元で囁いた。そんなことを、言ってくれるなんて、榎木津さんは優しい人だ。そして、それ以上に私にとっては、既にかけがえのない存在になっていた。

「う、わあぁ! っ、どうしろっていうのよ、私には何にも出来ない、無力な子どもなのに、私に何を求めているのよ!」

心のままに泣き叫んで。榎木津さんにしがみつきながら、泣いて泣いて泣いて。止むことのない心の雨を拭うこともしないで、感情のままに叫んだ。私は何時まで経っても無力で、何もできない子どもで。沢山のことを出来たはずなのに、やろうともせず、ただ状況を嘆いているだけ。そうして責任感からのストレスを溜め込んで、どうせ誰も分かってくれないと端っから諦めていたのだ。

「春子さん。泣き疲れたでしょう。お茶でも飲みなさい」

それから30分ほど泣いて、中禅寺さんが差し出したのは、きっと中禅寺さんが淹れたのであろう出枯らしのお茶。思わず吹き出してしまった。その心遣いが嬉しかった。
苦いお茶を飲み干して、少しだけ話したときにはもう19時近くになっていた。

「それじゃあ、私はそろそろ帰ります。今日は本当にありがとうございました。お陰で何だかすっきりして、心が軽くなったみたいです」

「僕達が何かをしたわけじゃない。君が自分で乗り越えたことだ」

「そう、なのかもしれません。――あの、中禅寺さん。また此処に来てもいいですか?」

私がそう聞くと、相変わらず本だけをみていた中禅寺さんは少しだけ目線をあげて、榎木津さんを見た。――どうしたのだろう。

「僕は全然構わないがね」

「春ちゃん、何もこんな奴の所に行かなくたって、僕のところに来ればいい!」

「いやあ、榎木津さんは何時でも会えるでしょう?」

私がそういうと、榎木津さんも中禅寺さんも驚いたように目を見開いた。私、何か変なこと言ったかな。
榎木津さんはにっこりと笑うとそうだな、と叫んだ。

「榎木津さん、榎木津さんも帰りましょう。中禅寺さんは奥様もいるようですし、何時までも居ては迷惑になるでしょう?」

「ああ帰ろう! 僕には春ちゃんを送り届けるという義務があるからな」

「そうしてくれるとありがたい。春子さんは榎さんの扱い方を心得ているね」

そんなことありませんよ、と笑う。だって、榎木津さんの扱い方を心得ているというより、榎木津さんと離れたくないだけなのだ。雛鳥が初めて見たものを親鳥だと思うように、私にとって初めて過去を話せた人だから。初めて、泣かせてくれた人だから。

「春ちゃん、行こう!」

すくっと立ち上がって、榎木津さんは私の腕を掴んだ。それと同時に歩きだした為か、私は引っ張られるようにして立ち上がった。転びそうになったところを、榎木津さんが支えてくれる。本日二回目だ。

「春子さん、榎さんの相手は大変だろう」

「いいえ、そんなことありませんよ。榎木津さんは私の知らなかった世界を見せてくれますから」

中禅寺さんが、榎木津さんに支えられて立っている私をちらりと一瞥した後、榎木津さんを呆れたように見て言った。私は榎木津さんに支えられながら、苦笑した。私がそういうと、榎木津さんの腕の力が少し強くなったような気がしたが――恐らく気のせいだろう。

「春ちゃん、こんな奴に構うな」

少し怒ったように言う榎木津さんに、私はちゃっとだけ笑った。

榎木津さんにぎゅうと抱きついて帰った道程は殆ど覚えていないけれど、榎木津さんの温かさだけは覚えていた。
この人の何もかもが温かかった。






(何かが始まる音がした)


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